Sports Enthusiast_1

2005年02月15日(火) ドイツへの道(続)

日韓W杯で日本が予選リーグを勝ち抜き、ベスト8をかけて戦ったトルコ戦。この敗戦の総括が今日に至るまでの日本代表の針路を決定した。仙台で行われ雨中の戦いは、日本中を覆った、予選リーグの熱気を冷ますに十分なものだった。現場で試合を見た人、テレビで見た人を含め、欲求不満の残る試合だった。なぜ、日本は動けないのか、と焦燥に駆られた人も多かったと思う。もちろん私もその一人だった。
トルコ戦の敗北から、トルシエが行ってきた指導の限界という結論を引き出したサッカー関係者があったようだ。部外者の私はそのような結論の有無も詳細も知らないのだが、そのような文書もしくは報告書があったと聞いている。「トルシエ限界説」とジーコの怒りが地下で一つの水脈を形成し、代表監督の人選が進んだことは想像に難くない。
私は「トルシエ限界説」の有無も詳細も知らないので、推論の域を出ないのだが、とにかく、日本のサッカー協会が打ち出した結論は、トルシエが4年間行ってきた方法論では日本は世界に通じない、ということだった。トルシエにかわる指導方法を導入せよ、それがドイツへの道を目指す絶対命題になった。
さて、当コラムで紹介したことがあるが、ルシェンブルゴ(元ブラジル代表監督)のレアルマドリード監督就任のコメントを思い出してほしい。ルシェンブルゴは、「わたしのサッカー哲学は規律と団結、勤勉、プロ意識の4つが柱。レアルにもこの信念で臨む」と語った。この指針はトルシエが行った指導方法となんら変わらないと私には思える。ルシェンブルゴは、レアルではなく日本代表監督に就任したとしても同じコメントを残しただろう。哲学というのは、状況によって変わるものではない。もちろん、思いつきではない。ルシェンブルゴでなくとも、プロフェッショナルな監督ならば、自分のサッカー哲学を披瀝するとき、同じようなコメントに落ち着くはずだ。日本がトルコに敗北したからといって、サッカー哲学が「日本向け」に変わることはない。指導理念、サッカー哲学という普遍的なものは、日本代表でもレアルでもドイツ代表でも変わらない。組織ではなく個人だとか創造性だとかというもっともらしいスローガンが挟みこまれる余地はない。
私はトルシエがどのようなサッカー哲学を語ったか知らない。それを調べてみようとさえ思わない。なぜなら、トルシエが示した指導理念は、その実践において、ルシェンブルゴの哲学となんら変わるところがないからだ。
もちろん、哲学が同じだからといって、具体的指導方法が没個性となることはない。監督ごとにサッカー観は異なるだろうし、日本とレアルでは選手の資質が違う。サッカーには風土性が反映するから、練習ぶりも戦いぶりも、国や地域や人種で変わる。そんなことが問題なのではない。
日本サッカーにおいて重要なのは、指導理念の継続性だった。サッカーの背骨に当たる哲学は、規律・団結・勤勉・プロ意識のまま、ぶれることがあってはならなかった。軸がぶれないことが、4年間という年限で無駄なく効率よく向上する条件だった。今に至っては、すべて手遅れというものだが。
私は日本がドイツに行く確率は高いと思っている。けれども、行けないことも覚悟している。サッカーでは、何が起こるかわからない。
とにかく、結果を問わずとも、02年日韓共催のW杯が終わったトルコ戦から05年の今日まで、日本サッカーが進んだ道に私は納得していない。この先、ドイツへの道が05年で終わるのか06年まで続くのかは別として、ドイツから続く2010年に至る道にあっては、日本サッカーの哲学を確立してほしい。この先、けしてぶれることのない軸をしっかりとおしてほしい。02〜06のマイナスをもう4年繰り返すことは、あってはならない。


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