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2004年12月31日(金) 規律・団結・勤勉・プロ意識

「わたしのサッカー哲学は規律と団結、勤勉、プロ意識の4つが柱。レアルにもこの信念で臨む」
レアルマドリードの新監督に就任した、ブラジル人のルシェンブルゴ氏の言葉だ。同じブラジル人だが、どこかの新米代表監督が標榜する、「自由」「創造性」といった言葉が出てこない。当たり前の話だけれど、サッカーで勝つための哲学はこれで十分だ。
前にも書いたことだけれど、南米サッカーがラテン気質――陽気で自由で奔放で、といった固定観念を日本人は持っている。“ラテン”の意味するものは“ローマ”だけれど、イタリア史を一読したことのある人ならば、イタリア(人)が気楽で奔放で明るいとはとても言えないだろう。その歴史はまさに血ぬらたものだし、陰謀に満ち満ち、イタリア史を読んで、暗鬱とした気分にならない人は少ないだろう。
南米の旧宗主国であるスペイン・ポルトガルの歴史はさらに複雑怪奇だ。スペイン・ポルトガルの支配者は、ヨーロッパ先住民、ケルト人、ローマ人、ゲルマン人、イスラム系アフリカ人、ハプスブルグ(墺)・・・と変遷した。かの地が明るくなる理由を見つけることはできない。スペイン(人)、ポルトガル(人)が自由で陽気な「国家」「国民」であるとは、私には思えない。
それだけではない。アルゼンチンを除いた南米諸国には、アフリカ系の移住者が多い。彼等はスペイン、ポルトガルが南米を植民地経営するための労働力として、アフリカから奴隷として連れてこられた人々の子孫たちだ。リオのカーニバルは一見、陽気で明るいけれど、その明るさは、奴隷として見知らぬ地に不本意に連れてこられた彼等の先祖の怨念の裏返しであって何であろうか。カーニバルは、イスラム教ではラマダン明けに該当する“ケ”から“ハレ”への転換儀式だ。そこに明るさを見る人と暗さを見る人とでは、歴史観・宗教観が違う、という理由では済まされない。ブラジルを筆頭とする南米のサッカーとは、アフリカ系、旧宗主国のヨーロッパ系、そして「インディオ」と呼ばれた先住民たちの民族性が融合したスタイルなのだ。ラテンアメリカという言葉があることはもちろん承知だが、ラテン音楽から想像される、あの陽気さだけがラテンアメリカの風土ではない。
私たち多くの日本人が抱く南米、ラテンのイメージは間違っている。だれがいつ言い出したことなのかは知らないけれど、南米・ラテンを気楽で明るい外国だと思い込み、その誤った認識をサッカーにまで持ち込んでしまった。だから、専門家であるサッカー解説者ですら、ブラジルや南米のサッカーといえば、ラテン、ラテンと評して終わってしまう。
たとえば、ブラジル選手権を制したルシェンブルゴ率いたサントスの組織的サッカーが“ラテンサッカー”なのだろうか。トヨタ杯で惜敗したコロンビアのオンセカルダスの超守備的サッカーが“ラテンサッカー”なのだろうか。
サッカーで勝つための哲学は「規律・団結・勤勉・プロ意識」であって、そのことは、南米のブラジルでもコロンビアでも同じだし、ヨーロッパのイタリア、イングランド、スペイン、ドイツ・・・でも同じことだ。もちろん、日本だけが違うことなどあり得ない。


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