Sports Enthusiast_1

2004年09月03日(金) デリマ

アテネ五輪が終わった。ほっとしている。開催中、ワイドショーは五輪関係の報道で騒がしかったし、ニュース番組も五輪報道が多くを占めていた。BSでJリーグ中継がなかった週が続いたのにはまいった。
そんなアテネ五輪だったが、私が最も印象に残った選手は、マラソンのデリマだった。彼はレース途中、トップを走っていたのだが、アイルランド人の元司祭と名乗る男の妨害に合い、銅メダルで終わったことを知らない人はいない。
デリマ選手には、もちろん同情が寄せられた。あのレース展開ならば、金メダルは間違いなかった。私は、デリマ選手が祖国ブラジルに戻り、インタビューを受けていたシーンをたまたまテレビで見た。彼は妨害した人物をどう思うかと聞かれ、「その男に悪い感情をもっていない」と答えた。その他いくつかの質問にも、彼は淡々と答えた。そこには、金メダルに対する執着など、微塵も感じられなかった。
一方、日本では、五輪開催中、娘のレスリング選手にまるで精神に異常をきたしたかのように騒ぎ立てる元プロレスラーの父親がいた。メダル、メダルと騒ぎ立てるマスコミ人、スポーツアナウンサーの絶叫があった。ブラジルで行われた記者会見のデリマ選手は、日本の騒々しいメダルマニア達とは、ほぼ対極的な精神をもった人間のように思えた。
私はデリマ選手がインタビューに答える映像を見たとき、思わず落涙した。精神と身体が完璧に近い均衡をもって存在する人間を見たような気がしたからだ。
もちろん日本でも、メダルを取った選手たちは冷静だった。奢ることもなければ騒ぐわけでもない。謙虚にメダルという結果を受け止めているように見えた。しかるに、スポーツマスコミ等の周辺だけが、メダル騒動を演じ、感動を押し売りし、物語をつくりだそうとする。
それだけではない。デリマから受けた感動は、私のスポーツ観戦の姿勢を変えるだけの力があった。私は、スポーツに必要なことは勝つことだと確信し、勝つための条件を指摘してきた。しかし、デリマ選手の場合は、妨害という、絶対にあってはならない要因により金メダルを逸した。が、デリマ選手は、「世界一の栄光」にいかなる価値があるのか…メダルのためにスポーツをするのではないのだ…結果は結果として、粛々と受け止めるだけだ…という、深い精神のあり方を見せてくれた。
デリマ選手は敗者ではないが、勝者でもない。そのことが、私のスポーツ観戦の前提を越えた。
繰り返して言えば、私のスポーツの楽しみ方は、勝負(結果)にこだわり、勝利に至る課程を評価し、敗北に至る要素を排除した。敗北を招いた選手の怠慢、監督の采配ミス、関係者、マスコミ、サポーターのあり方を批判してきた。そうしたスポーツ観戦のあり方を私自身、反省したことはなかった。
デリマ選手の姿を見たとき、私のスポーツ観戦があまりにも浅いことを反省した。人間が一つのスポーツに打ち込み、頂点に達するような力を身につけたとき、肉体のみならず、精神も変わることを知った。その状態は、達観とか高踏とかいうものとは違う。おそらく、解脱に近い精神のあり方ではないか。デリマ選手の個性は、アスリートを越えた、宗教者のような高みを私に感じさせたた。スポーツ評論は本当に、難しい。


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