去年も同じことを書いたけれど、加熱する高校野球報道にはうんざりだ。なんで、ハイスクールボーイ・ベースボールに、日本中が一喜一憂するのか。クラブ活動の一環など、天下の公器を使って報道する必要などない。高校野球の過剰報道は私にとって、苦痛以外のなにものでもない。 さらに今年の夏は、五輪報道が重なる。日本人は五輪が好きだという。海外の人々がどれくらい五輪に関心があるのかは知らないけれど、「オリンピック」が「神聖」なアマチュアリズムや「平和」の祭典だと思っている人は少ない。なのに、日本では過剰なまでに建前の五輪精神が強調され、五輪派遣選手に期待が寄せられる。私の尊敬する多木浩ニ氏が、A新聞紙上に「五輪的」価値観を相対化する論文を載せたとしても、無視されるに等しい。 五輪は金になる。スポーツ関連企業、飲料・健康等の世界規模の企業は、五輪を市場拡大の好機ととらえる。五輪は彼らのマーケティング戦略に明確に位置づけられ、それに従い、多くのスポンサーがつく。五輪は年々拡大する。五輪の経済効果、経済的意義については多くの著作があるから、このコラムでその趣旨を重複して示すまでもない。 では、五輪に抱く人々の関心の中心は、自国選手の活躍なのだろうか―― 日本人の生活は豊かになった。経済規模から言えば、世界でトップクラスだ。日本円を海外にもっていけば、どこでも喜んで交換してくれるし、現地通貨に両替すれば、実にたくさんのものが買える。でも、日本は、そして日本人は、世界でホントに通用するのか――そんな素朴な疑問が日本人の心の奥底にある。一方、五輪は、正真正銘、世界中の生身の人間が一堂に会するイベントだ。そこで日本人が活躍すれば、日本人は心の奥底に潜む不安を払拭できる。そして、その心情をマスコミ(ジャーナリズム)が煽る。 戦前、某国で開催された五輪で「前畑、ガンバレ」を絶叫した国営放送局アナウンサー氏がいた。それは伝説的名放送として、語り継がれている。戦後60年たったいまなお、日本の報道機関が五輪を偏重するのは、彼らが「前畑、ガンバレ」の心情を引きずっているからだ。日本の報道機関だけが、いまなお、戦前であり続けている。日本人は、五輪から持ち帰られた数個のメダルを確認して、日本人が世界に「通用した」という実感を抱いて安心するのだろうか。そんなことはない。金メダルの数など、どうでもいいのが普通の生活者の健全な感覚だろう。金メダリストを特別扱いするのは、日本の報道機関だけだ。 このような報道のあり方は、スポーツ(という文化)を越えた、ナショナリズムの領域だ。日本の報道機関が、世界と日本の関係をとらえきれずに、不安とその裏返しとしての傲慢を抱く限りにおいて、五輪は日本と世界の関係を明確かつ実態的に把握する尺度として、日本の報道機関に携わる人に君臨し続けることになる。日本人選手が持ち帰るメダルの数は多くない。多くない限りにおいて、金メダリストは報道上のヒーローになる。日本の報道機関において、五輪とメダルが、ナショナリズムの尺度であるかぎり、私はそれをスポーツ報道だとは思わない。 五輪とサッカーW杯は、似て非なるものだ。私たちは、サッカーW杯における日本代表の動向を、結果はもちろんだが、代表チームが目指すサッカーの方向性と風土の相関や代表チームのコンセプトという観点から、楽しむことができる。長期間のW杯予選を経て、代表がどのような変貌を遂げるかを確認しつつ、代表監督に文句を言い、代表から脱落した選手を惜しむ。さらに相手国の代表チームの分析にまで及ぶ。これらは間違いなく、文化(遊び)であって、ナショナリズムではない。 サッカーW杯は、たまたま私が日本人だから、日本代表を使ってアジアの、そして世界のサッカーを楽しむに至る。ところが、五輪報道には戦略、戦術を想定した遊び心などない。金メダルなら、マラソンだろうが柔道だろうが野球だろうがおかまいなし。私にはそのようなスポーツの「楽しみ方」はない。だから、五輪情報とその結果についての報道は苦痛だ。
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