Sports Enthusiast_1

2004年02月23日(月) 勝てない監督なら更迭するまで

(1)大新聞が擁護し、大衆が反乱する
けさのA新聞にジーコジャパン擁護の論文が署名入りで載った。一方、代表サポーターの一部がジーコ解任のデモ行進を行った。また、ウェッブ版のSスポーツが、ジーコ解任の署名入りコラムを載せた。
大新聞が擁護し、大衆が解任を要求する。この図式はいつかみた政治情況に似ているけれど、それは言わない。このコラムはスポーツ専門なのだから。
さて、A新聞の論文の趣旨を抜粋するまでもない。あいかわらず、組織⇔個人、パターン⇔クリエイト、集団性⇔自由――といった観念的対立項を並べ立て、ジーコ監督が個人・自由・クリエイトを重視して、日本サッカーを変えようとしている、という結論だ。うんざりというか、まだそんな寝言を言っているのかと呆れるばかりだ。

(2)結果重視が最大の強化策
サッカーファンはサッカーを楽しみたい。より高度なサッカーが日本に花開くことを望んでいる。サッカー技術を向上させるためには、クラブが努力を続け、選手が全力で己の技術を磨く環境を必要とする。そのような環境はどうしたら生み出せるのかと言えば、サポーター(スポーツジャーナリズム)が選手や指導者に厳しい目を向け、妥協を排し、談合的体質が介入する芽を摘み取り、結果責任を重視することなのだ。負けてもいいよ、あの選手が格好いいから応援するよ、楽しんだからいいよ…と、スポーツが芸能的ぬるま湯に浸れば、サッカーに限らずスポーツは退廃する。たとえば、日本の国技である相撲が、�〜軼�り制を採用せず、��横綱が負け越してもその地位から陥落しない、という奇妙な制度を容認する以上、相撲はスポーツにならない。プロスポーツが公平な結果を求めないのなら、成立不能となる。だから、相撲はスポーツではなく芸能だと私は思っている。

(3)サッカーは風土の表現
日本代表が日本人に合ったサッカーをすること――私はそれが、日本代表が勝つ最短距離だと信じている。
いまTVで放映されているアフリカ選手権を例にしてみよう。アフリカのサッカーというものが、その国の選手の体質・体力・思考方法などを土台として、それぞれ異なったスタイルを持っていることが理解できる。たまたま今年は、ホームのチュニジアと隣国モロッコの北アフリカ2国が決勝に残ったけれど、アフリカの強豪と呼ばれる、ナイジェリア、カメルーン、南アフリカ、セネガル…は北アフリカと大きく違うし、ならばナイジェリアとカメルーンは同じかといえば、そうではない。日本サッカーがナイジェリアやカメルーンのような個人の資質を重視したサッカーを指向すことはあり得ない。日本人選手にアフリカ人選手のような「個人的パワー=高さ・速さ」を求めても無駄だ。
アジアにあっても、日本と隣国韓国は、選手の体力という面でさほど差異はないが、リズムや速さやテンポ、戦術等の面で両国は同じでない。韓国が自由で創造的かといわれれば、そういう面もあるしそうでない面もある。ヨーロッパでも、イタリアは伝統的に守備面の組織力に優れ、世界の強豪として君臨している。南米に目を向けると、南米にはアフリカ系、ラテン=ヨーロッパ系、ネイティブ(先住民)系に、それぞれが混血した人々がいるので、選手は多民族国家独特の個性の強さがあり、しかも、アルゼンチン、ブラジル、パラグアイ…で、サッカースタイルが異なる。彼らは先天的にボール扱いや反応の面で日本人より優れていると言えるが、だからといって、日本が南米勢に永遠に勝てないわけではない。日本人にあったサッカーを目指すことで、南米勢を凌駕できる、と私は信じている。
日本サッカーが個人の能力というレベルで南米勢と同一になるまで200年かかるとするならば、チームの規律や組織力や戦術を磨くことで、ここ数年、10回やって3回は勝てるようになってきたように思う。

(4)サッカーは言葉ではない
世界のサッカー界には、「勝つため」「強くなるため」の共通概念など存在しない。組織力があって個人の能力が高ければ、勝つだろう。だれだってどこだって、それを目標にして練習しているけれど、サッカーは人間が手を使わずに行うスポーツなのだから、「完璧」はあり得ない。だから、自分たちのよさを伸ばし、弱さを補うことで、勝てるようになる。個人では劣っていても、組織で勝ればチャンスがある。だから、知恵を絞り、汗を流し、身体と頭脳を毎日鍛えているのではないのか。ゆえに、サッカーは世界で最も人気のあるスポーツなのだ。
問題点をスポーツというレベルで整理していけば、ジーコジャパンが正常に機能していないことがわかる。ジーコ氏の言葉に惑わされてはいけない。サッカーは勝てばいい。勝てないなら監督を代える、ただそれだけの簡単な話なのだ。


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