| 2003年11月24日(月) |
スポーツに求めるもの |
このコラムを書いていると、結局のところ、一つの結論に行き着く自分を見つけてしまう。自分自身がスポーツに何を求めているかだ。私がスポーツに求めているものを端的に言うならば、自己否定、ストイシズムにほかならない。私がサッカーで市原やFC東京を応援するのは、この2つのチームにストイックな精神性を見るからだ。とりわけ、市原には、おそらくオシム監督の指導理念だと思うが、自分達はサッカーが下手なんだ、という共通意識を感じるのだ。下手だから、それを運動量と精神力でカバーして相手を圧倒しようとする。ときにそれが空回りすることもあるが、そんなことは問題ではない。とにかくボールを奪って自分達の攻撃をすること。前に向かって全力で走ること。こうしたプレースタイルができるのは、自己否定があるからだ。現状の自分達が普通のプレーをしていたのでは相手に勝てない、だから・・・ということだ。その精神をオシムイズムというのであって、オシムが発するシニカルなコメントは、日本のサッカーがいま現在陥っている最大の弱点に対するアンチテーゼなのだ。 その反対が、日本代表である。まず、ジーコ監督は、日本代表を巧い強い大人の集団だと言った。選手は甘やかされて、自分達を世界水準の選手だと錯覚し始めた。愚かなことだ。欧州に行くことはいいことだが、それは、自分より巧い選手がたくさんいることを自覚し、自分の水準を上げるためだ。広告塔で移籍した選手はレギュラーになれないで、ベンチにいることが多いだろう。そのことを自覚すべきなのだ。まず自己否定。ところが、日本代表の親善試合で彼らは当然のようにレギュラーとして呼ばれる。自己否定を忘れて、勝手な一人よがりのプレーをする。代表監督はそうしたプレーを怒らないどころか、「創造性」と称して誉めてしまう。 これでは、代表が百回親善試合を重ねても強化されることはない。写真の世界では、偶然とれたいい写真を傑作とは呼ばない。自分が取ることを目指した結果、そのとおり得られた作品を自己の傑作と呼ぶ。それが不文律だ。 サッカーにも同じことが言える。偶然上げた得点は貴重であるが、内容としては評価しない。勝てばいい、得点を上げればいい、というのでは強くなれない。自分達が意図した攻撃の形を全うして上げた得点こそが重要なのだ。そこでは、偶然は評価に値しない。望ましい結果でさえも否定されることがある。 欧州でベンチの選手が日本代表に選ばれるということは、Jリーグで一生懸命プレーしてきた選手達に対して礼を失する。代表監督は、だから、親善試合が複数あれば、Jリーグで一生懸命全力でプレーした選手達にチャンスを与えるべきだ。たとえば、市原の羽生、村井、坂本、阿部、横浜の久保、名古屋の海本らだ。彼らに代表を背負わせて、Jリーグでやっているような、全力を出し切るはつらつプレーを我々に見せてほしい。新鮮な驚きがあるに違いない。 海外組=黄金の中盤、中田・俊輔・稲本・小野に柳沢や鈴木、高原を加えた代表選手のレギュラーは、もはや、代表に値しない。彼らの親善試合におけるプレーぶりやインタビューに答える姿を見ていると、試合に勝とうという意欲や最高のパフォーマンスを見せなければいけないという、使命のようなものを感じない。勝つために努力をする姿が見えないのだ。 海外組と呼ばれる選手達は、自分達は世界レベルだという錯覚=自己肯定に陥り、指導者はゲームプランも規律をもたず、チームをダラダラ、ズブズブの組織的弱体化に貶めた。一方、それらを厳しく監視すべき立場にあるスポーツマスコミ、サポーター、協会幹部は、お互い批判しあわないという談合癒着体制を形成してしまった。 日本サッカーは、Jリーグ(J1、J2含めて)については間違いなく充実してきた。ところが、そのトップの位置づけであるべき日本代表は凋落してきた。海外移籍がいい結果をもたらすと信じた私だったが、こんな結果になるとは思わなかった。それというのも、海外組を特別扱いする代表監督の思慮のなさが原因だ。オシムだったら、こんなバカなことはしない。調子のいい選手、タフで運動量を惜しまない選手を代表に起用し続けただろう。少なくとも、前代表監督のトルシエには、ストシズムがあった。監督の指導理念という意味では、トルシエとオシムは近いものがある。 オシムが市原を辞任し日本を離れる確率が高いが、オシム監督が市原で実践してきた指導理念と方法を受け継ぐことはできる。オシム監督のもつストイシズムこそが、日本代表を再生する唯一最善の方法だ。
|