| 2003年09月12日(金) |
まだ辞めないの、ジーコさん(続) |
セネガル戦の後、ヒデがインタビューに答えている映像を見た。その表情からは、悔しさが滲み出ていた。この試合、セネガルに「軽くあしらわれた」、そんな、無念さがうかがえた。彼らは持っている力の何パーセントしか出していない、にもかかわらず、ドローにさえ持ち込めなかったと。 さて、セネガル戦の前のナイジェリア戦に勝った後、ジーコ監督は、「ファンに感動を与えられた」というコメントを発した。私はそれを聞いて、ああこれはだめだ、早くこの監督が代わらないと、と心底思ったものだ。 親善試合の勝敗はどうでもいい。問題はその目的と内容である。たとえば、日本が南米に遠征して、いま南米でいちばん弱いとされているボリビアと戦ったとしよう。結果、おそらく日本は勝てない。高地という自然条件で日本代表は負けてしまう。それほどひどくはないが、強豪ナイジェリアが日本に負けた理由も、それに近いものがある。自然条件、コンディションなどで、試合結果は変わってしまう。 さて、ジーコ監督が発した「感動」は、いまの日本のスポーツマスコミで流行している言葉だが、しばしば「誤用」されている言葉でもある。しばらく前、貴乃花と武蔵丸の優勝決定戦をご記憶の方も多いだろう。そのとき貴乃花はかなりの怪我を押して決定戦に出場したのだが、軍配が上がると、有利と思われた武蔵丸は転がって負けた。優勝した貴乃花に賜杯を渡した総理大臣が大声で、「感動した」と叫んだことは記憶に新しい。総理大臣は怪我をしながら勝った貴乃花に「感動」したらしいが、私は転がってみせた武蔵丸に感動した。このあたりから、私のスポーツに対する美学と、日本のスポーツマスコミのそれとのズレを感じていた。武士道精神では、手負いのものに勝つことは不名誉なことである。準備の整っていない相手に勝つのも、同様に好まない。もちろん、プロなのだから、いったん試合に臨めば、怪我も時差も関係ない、負けは負けである。だから、負けた相手に同情はできない。けれど、勝負(結果)はそうなのだが、コンディションの悪い相手に勝つことは、感動というカテゴリーにはなじまない。なお私はそれ以来、武蔵丸にシンパシーを感じている。 そんなジーコ監督を支持するスポーツマスコミの根拠は、前監督のトルシエ氏の戦績とジーコ監督の現在の成績の比較である。彼らの論理を要約すると、「トルシエの選ん対戦相手は、いまのジーコのそれより弱い。なのにいまのジーコの成績はトルシエとほぼ同じ。格上に負けているのだから、ジーコは悪くない」というもの。これこそ形式的思考であって、スポーツ批評とは遠い。核心はいまの日本代表の選手選考、システム、ポジション、戦術、試合内容(選手交代、指示等々)の是非であって、戦績ではない。あるいは、代表チームのコンセプトの是非といえるかもしれない。それを吟味した上で、監督としてのジーコ氏の手腕に疑問を呈しているのである。 さらに言えば、02年は予選なしのホームのW杯。本番までゆっくりとチームづくりができた。しかし、06年は予選があり、真剣勝負を戦いながら、チームづくりをしていかなければいけない。条件がまったく、違うのだ。しかも、トルシエ前監督就任当時の日本代表の実力は低かった。だから、それ相応の相手を選びながら、代表チームに親善試合という国際試合を経験させたのだ。 蛇足でいえば、トルシエ氏とジーコ氏の仕事の難易度を比較すれば、トルシエ氏のほうがやさしい。ホーム、予選なし、しかも、W杯予選リーグでの抽選の幸運などを含めれば、ベスト16は、結果論でいえば、条件として整いすぎていた。トルシエ氏の残したのは、遺産というよりも、重圧である。もしかすると、日本がW杯でベスト16に再び入るのは、日本単独開催が実現するはるか遠い未来の出来事になるかもしれない。
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