この時期、ハイスクールベースボールの異常な報道ぶりにうんざりする。自分の高校時代を振り返って考えてみよう。あのころのクラブ活動が己の人生の中でどれほどの位置を占めるのであろうか。県大会優勝、日本一、たしかに小さくない体験には違いないが、青年期のささいな出来事である。野球に限らず、いろいろな大会が開かれ、それぞれの得意分野で高校生が腕を競い、勝った者も負けた者もその結果をひっそりとした思い出にして胸にしまいこみ、大人になっていく。無論、そこから人生のかじを切り、プロスポーツ選手への道を進み、世界的に有名な選手になる者もいるだろう。それはあり得ることだが、稀な事例である。 ある大新聞の一面にカラーの大きな写真が載っていたのでみると、どこかの高校が地方予選を勝ち抜いた記事だった。そのスペースは、米国がイラクに攻め込んだときの報道写真の半分を占めており、同時期発生したソマリア紛争よりも大きい。 私は大新聞のいう「公平性」にいささかの幻想も抱いていないが、自社の開催するスポーツイベントを「公器」と称しながら宣伝する「社会の木鐸」とやらに、辟易する。 ハイスクールベースボールになぜ、人は熱中するのだろうか。私は社会学的アプローチからその回答を得ることはできないと思っている。答えは簡単。マスコミが報道するからである。この国の人々は悲しい体験をもっている。先の大戦で人々は勝利の報道に酔い、戦局が後退しても大本営が発表する勝利に酔いつづけたのだ。人々は報道を信じ、己の判断をマスコミに委ねたのである。人々にその責を問うことはできない。マスコミが嘘を言うはずがないと信じていたのだから。 報道する側には、だから、記事掲載の責任がある。人が知りたいものを報道する、というのはマスコミ側の虚言である。本来、ハイスクールベースボールの地方予選の勝敗を知りたい人がいるとしたら、その地方のよっぽどの野球好きだけである。冷静に考えてみればいい、高校生の野球の結果など、報道しなければ存在しないに等しい事実である。人々の多くは、高校生の卓球の試合の結果に関心がないだろう。なぜ野球だけに関心を集中しなければいけないのか。マスコミ側は人々が野球が好きだからだと説明するだろう。いや、そうではない。野球だけを報道するから、人々の関心はそこに向かうのである。 こうして人々はマスコミがつくりだす、世論操作にのせられていく。いつのまにかハイスクールベースボールが人々の夏の最大の関心事になり、その価値が必要以上に肥大化する。 ハイスクールベースボールをやめる必要はない。選手達は大いに練習して、腕を磨けばよい。応援する人は応援すればいい。ただ、その結果を世界的大事件以上のスペースを割いて新聞に載せるというマスコミの行動は異常である。こうしたマスコミの異常報道は、高校生の価値観のみならず、社会全体の価値観を歪めている。
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