| 2003年06月24日(火) |
トルシエの影―これが実力(その2)― |
ここで、コンフェデ杯という大会を通じたジーコ采配の誤りを指摘しておこう。スポーツ誌等の報道によると、大会参加国の多くがターンオーバー方式という選手起用方法でこの過密スケジュールの大会に臨んだらしい。この方式は、3戦中1日休養という信じられない大会スケジュールに対応するため、1戦目と2戦目の選手を大幅に入れ替えるというものだ。相手チームの実力や予選リーグ3戦全体の勝点を考慮した采配である。フランスがこの方式を採用し、初戦のコロンビア戦を勝負と見てベストメンバーで臨み、日本には引き分け覚悟でメンバーを落としてきた。つまり勝点7以上を目標にしたのだ(結果は3連勝で勝点9)。 一方、ジーコ監督は初戦のニュージーランドに大勝にもかかわらず、メンバー交替なし。2戦目のフランスも同じメンバー。さらに3戦目のコロンビア戦も負傷の中村、出場停止の稲本は別として、同じメンバー。結果は見てのとおりである。 なぜ、ジーコ監督は固定メンバーで3戦を通したのか。理由は簡単である。「勝っているときには動かない」という、自らの言葉に縛られたからである。それは、ジーコ氏が、1年前、W杯トルコ戦のトルシエ采配を批判したときの言葉であったことは言うまでもない。 ジーコ監督には確固たる監督哲学などない。あるのは、「反トルシエ」という怨念のようなものだけだ。ジーコ氏が、「反トルシエ」を唯一の拠り所として代表監督の座を得た以上、「反トルシエ」に自縄自縛せざるを得ないのだ。 なぜターンオーバー方式をジーコ監督は採用できなかったのか。まず、相手3チームの戦力分析がなされていないことにある。大会前に初戦の相手ニュージーランドの戦力をどう分析したのだろうか。もちろん、初戦から控えメンバーで戦うわけにはいかない。この場合、3点奪ったところで、主力を温存するべきである。そして、最も重要なのが3戦目であったことはだれにも、異論あるまい。フランスがターンオーバー方式を採用するという情報は事前にわかっていたようだ。このことは、フランスが日本に対して、「一緒に決勝リーグに行こうよ」、というメッセージにも等しい。もちろん、フランスの日本戦に出場する控えメンバークラスにそんな意識はないけれど、フランスの日本戦の位置づけは、負けないことだったと私には思える。ところが、ジーコ監督は3戦全部を勝ちにいったのだ。フランス戦に日本がターンオーバー方式をとって大敗したかもしれないし引き分けたかもしれない。結果はわからない。しかし、結果は別として、日本の勝負がコロンビア戦であることは誰の目にも明らかだった。なぜなら、コロンビアがフランスに負けたこと、ニュージーランドにはフランス、コロンビアとも勝つことが明らかだったからだ。つまり、2戦目のフランスは「捨て試合」という位置づけが正解である。相手フランスはホームなのだから。 冷静に考えれば、フランス戦の位置付けは「捨て試合」にもかかわらず、昨年日本代表がフランスに大敗した試合を「サンドニの虐殺」と呼び、そのリベンジを煽ったスポーツマスコミにのせられ、あげくに自爆したのがジーコ・ジャパンである。 ここにも「トルシエの影」がちらついている。「サンドニの虐殺」の当事者こそ、ほかならぬトルシエ氏である。ジーコ氏はトルシエ氏が大敗したフランスに一矢報いたかったのだ。そのフランスの中身が二軍であろうと三軍であろうと・・・。 次の問題は、このコンフェデ杯に臨む事前戦略の欠如である。何度も言うように、コンフェデ杯は、FIFAの公認大会としては格が落ちる。どこの国も存在が迷惑というか、まともな対応をしていない。ドイツが出場を辞退したくらいなのだから。この状況は否定的な面もあるが、肯定的に考えるならば、いろいろな実験が可能という面もある。だから、日本代表が、なにも悲壮な決意でコンフェデ杯に臨む必要などない。ジーコ監督はここでも、「トルシエの影」におびえた。つまり、トルシエ氏が前大会で準優勝したものだから、それを上回らないまでも、予選突破を「悲願」にしてしまった。ジーコ監督に代表育成の具体的なスケジュールとプログラムがあったならば、この大会はおおいなる実験の場となっただろう。各国がターンオーバー方式を公然とするような大会なのだ。日本も現在の代表選手全員の力を試すいい機会だったはずだ。 各国の対応は十分予想できるものだ。ならば、日本代表は事前のキリンカップにおいて、ターンオーバー方式を実験してみればよかったのだ。もちろん、海外組が合流しないから完全なシミュレーションではないけれど、選手にターンオーバー方式の戦い方もあるよ、という認識を持たせることはできたはずだ。 というわけで、ジーコ監督には、コンフェデ杯に臨む姿勢にまったく戦略が感じられない。素人同然、場当たり的なのだ。そして、なによりも監督としての適格性を疑うのが、ジーコ氏に勝負師の根性が見られないことだ。ジーコ氏がおびえているのは「トルシエの影」である。そればかりではない。ジーコ氏の関心は勝負の行方ではなく、マネーの行方なのではないかと思われるのだが、これについての確証はない。(この項続く)
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