選手としてエリート街道を歩んできたジーコ氏には、サッカー辺境の地の日本のサッカー選手の気持ちがわからない。あるいは、わかろうとしない。私は日本代表の選考が誤りだと言い続け、あえて、秋田、名良橋、中山、服部、中田(浩)、森岡らの実名を挙げたのだが、その理由をここに明らかにする。このことは、あまり書きたくなかった。なぜならば、推測であって、本人に会って確かめたことではないからだ。 彼らに共通するのは、かつて代表としてW杯に出場した経験をもった選手であることだ。日本人サッカー選手としては、もちろん、一流である。ところが、W杯後、欧州の有力クラブはもちろんのこと、海外のどこからもオファーがなかった選手でもある。 世界のサッカー選手のすべてが、各国リーグで頭角を現わし、代表に選ばれ、W杯などの大会で認められ、欧州のクラブと多額の契約を交わすことを思い描くだろう。ところが、先に挙げた現在のベテラン代表選手は、たとえてみれば、地元の有名高校に入学しながら、一流大学に進学できなかった生徒達である。だから、ふたたび地元の有力高校に入学しなおして大学受験をしろといっても、身体は動かない。モチベーションが働かないのである。いくら、「日の丸」といっても、無理な話だ。 さて、Jリーグで最高の選手を代表に選ぶ、とジーコ監督がいったとき、彼はトルシエ元監督を意識し、日本の世論にこびたと感じた。つまり、監督としてリスクをとらず批判を避け、サッカーファンの受けを狙ったと。 いまから1年ほど前、トルシエ前監督が中村俊輔を代表から外したとき、スポーツマスコミとサポーターはトルシエ批判を繰り返した。私は、トルシエ監督が正しいとこのコラムで何度も言い続けた。結果はトルシエの正解であって、ベスト16をキープした。そして、ベスト8を賭けた仙台でのトルコ戦でトルシエ・ジャパンが負けたとき、ジーコ氏はトルシエ批判を繰り返した。私は、トルコと日本の実力の差はジーコ氏が指摘した以上のものであって、あの敗戦はトルシエ監督の責任ではない、といまでも思っている。その後、ジーコ氏が監督に就任したとき打ち出したのが、中村俊輔中心のチーム構成、黄金の中盤であった。私はそれも批判した。黄金の中盤など時代遅れだと。そのことはここでは、繰り返さない。 つまり、ジーコ氏の代表監督としての思考回路は、自らの監督哲学から導き出されたものではなく、すべからく、反トルシエ(=日本のスポーツマスコミのエキセントリックなトルシエ批判に従ったもの)にすぎないのだ。なぜか。ジーコ氏はトルシエ氏よりも、日本のサッカーの実情に詳しい。日本人のサッカーに対する心情を知っている。とりわけ、日本のスポーツマスコミへの対処方法を知っている。ジーコ氏は、マスコミを抑えれば、すべて乗り切れると考えたに違いない。いま確かにマスコミとジーコ監督の関係は前監督に比べていい、と言われている。が、その蜜月時代にピリオドを打つときだ。スポーツに癒着や妥協、談合があってはいけないからだ。結果に対しては、健全な批判こそが望ましい。相手がだれであろうと、だめなものはだめなのである。 再び選手選考に戻ろう。いま、Jリーガーで、代表→W杯→欧州クラブの階梯を上がる可能性がある選手はだれだ。若手では、もちろん、大久保であり、中堅では三都主である。この二人に異論はないだろう。彼らに続くのはだれだ。才能があって、これから伸びる可能性を秘め、さらに世界に出る野心をもったサッカー選手。それを見つけるのが代表監督の仕事である。そうした選手は海外の代理人が見に来るであろう親善試合でも全力を尽くすから、さらにサッカーがうまくなる。日本のようなサッカー後進国では、選手たちの野心に支えられてこそ稼働するのである。 W杯は最終目的ではない。選手が多額の契約金を稼ぐ道程に過ぎないのだ。だから、若手にこそ、そのチャンスを与えるべきなのだ。チャンスをつかめなかったベテランには、もちろんその功績を称えつつ、退いていただく。それがプロスポーツの原則である。 野心をもった若手、中堅、そして海外移籍を果たした経験者。立場が異なる選手たちが、混然とした力を融合させて魅力的な「チーム」を形成する、それが代表チームなのだ。野心、プライド、マネーといった、口にも出したくない世俗性。それらを「チームワーク」と呼ばれる聖性に昇華をさせる媒介者。それが代表監督の仕事なのだ。それが見えていないジーコ氏は、代表監督として適格でない。
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