軽い。アメリカ人監督だからいうわけではないが、この監督が目指す野球スタイルが、選手起用から見えてくる。この監督が目指す野球、あるいはプレイヤーが成功するならば、私が常々読売の選手起用・選手獲得のコンセプトに文句をつけてきたことが正しかったことを証明してくれる。 きょうの昼、西武と日ハムが対戦。日ハムは西武の拙守に助けられ勝利した。この試合がどうのこうのではない。少なくともいえるのは、いま新しく日ハムでレギュラーになった選手が、野球というスポーツの本質を伝えてくれている。 まずは、スピード(走力)――ダイヤモンドを疾走する選手達。ダッシュ、スライディング等々。これらが野球の50%の要素ではないか。残りの50%は、長打(ホームラン)と投手力。もちろん、勝つためには投手(力)にかかるウエイトが高いが、投手は一人、野手は八人。見る側からすれば、八人の活躍、躍動の方が魅力的なのだ。 日ハムの選手はスピード重視の体型をしている。それと対極的なのが読売の清原。彼は走れない。致命傷だろう。清原はパワーはありそうだが、前述したように、野球選手の筋肉ではない。もう一人はペタジーニ。この選手の外野守備は素人だ。判断力、送球のコントロール、肩のパワー、走力、どれも三流以下で魅力がない。それでも打てるのだから、こういう偏った能力の選手が守れるのはファーストのみ。ファーストばかりしか守れない選手を何人集めても、野球は勝てないし魅力がない。 こうした観点に立てば、読売は清原かペタジーニか、どちらか調子のいい方を起用すべきだ。かつて読売の天才前監督がマルチネスという巨漢選手を外野で起用し、うまくいかなかった。それと同じ起用法の誤りを原監督は繰り返している。 確かに読売の控えは、清原、ペタジーニに比べれば非力である。でも、ほかの5球団はやりくりしているのだ。読売の金満体質が野球をつまらないものにしている。読売には、才能のある選手を集めながら育ててこなかったつけがまわっている。コーチも育てなかった。読売はできあがった選手をカネでかき集め野球を芸能化し、選手・スタッフを含めたスポーツの専門家を育てる努力をしてこなかった。
|