| 2002年07月05日(金) |
ジーコ代表監督に断固反対する。 |
W杯余話の極めつけは、日本代表監督の選出だろう。噂どおりジーコ(ブラジル)である。この人、「神様」らしい。現役のプレー、とりわけ黄金の中盤と呼ばれた時代、私にはジーコよりも、長身のソクラテス(名前がすごいので)のプレーぶりのほうが記憶に残っている。鹿島にきてからは、読売とのプレーオフだったか、カズのPKのボールにつばを吐いたことを覚えている。たしか、審判のジャッジに対する抗議のためだったと思う。そのときは、日本サッカーをなめているやつだな、と腹立たしく感じたものだ。 私はこの人選に反対である。「神様」と呼ばれている人物が日本代表のためにドロをかぶるとは思えない。「神様」は勝負にこだわった代表監督などに就任すべきでない。あのセレソンでも、ジーコはテクニカルディレクターであった。しかも、日本代表監督は、完成された選手をつかうブラジルチームとは違う。発展途上の選手を育成する必要がある。私はトルシエは嫌いだが、U21、オリンピック代表、フル代表・・・と、一貫して彼が指導してきたシステムはいいと思っている。ジーコの下に現場の監督を置くというのもおかしな話だ。 ジーコには求心力がある。偉大な選手であった。しかし、代表監督というものは、象徴的な存在ではなく現場的なものである。とことん、勝ち負けにこだわり、成績だけがその存在価値なのである。言葉は悪いが、使い捨てである。 ジーコがやってもだめだった、という敗北のエクスキューズを協会は用意したか。サッカー協会の官僚的体質は救いようがない。早いとこ空中分解して、地道な人物による、地道な強化に戻ってほしいものだ。
|