Sports Enthusiast_1

2002年07月02日(火) ワールドカップ・ストーカー

最優秀GKに選ばれたカーン(ドイツ)を、地元新聞が責めたという。ブラジルとの決勝戦で犯したミスのことだ。これはW杯の余話として、比較的大きなものの1つではないか。ドイツの新聞も過酷なことをするものだ、と私のような日本人気質の持ち主には思えるのだが、欧州・南米などでは当然のことらしい。いいプレーをすれば賞賛し、悪ければ非難する。4年前、ベッカム(イングランド)も「愚か者」と非難されたし、ロナウド(ブラジル)も「小心者」と呼ばれた。この二人がいずれも今大会で汚名を晴らしたことは喜ばしい限りだ。カーンもこのままでは終われまい。4年後か2年後か知らないが、この批判を受け止めて更なる飛躍を目指すことだろう。
日本ではどうか。日本のスポーツマスコミは、選手ならびに関係者を非難・批判することはなく、むしろ、まったくスポーツとは関係ないイエロージャーナリズム(B社、S社の類)のほうが、検討違いの批判をすることが多い。スポーツジャーナリズムが選手を批判をしないのは、選手から取材拒否にあったり協力を得られなくなって、売り物の「特集」が組めなくなったりするかららしい。だから、「よいしょ」記事は腐るほどあるが、選手を叱咤激励する記事は皆無というわけだ。スポーツと関係ないゴシップ、スキャンダルか、「よいしょ」か、あるいは、見当違いの誹謗中傷記事しかわれわれは読むことができないのである。
これでは、ファンはたまらない。知らないことを知ることがファンの権利であって、そのためにスポーツジャーナリズムが存在しているのではないのか。知りたいことを代表して調べるために、ジャーナリストは取材という特権を持っているのではないのか。
日本では、たとえば、トルコ戦で不用意なバックパスをして相手にCKを与え、結果、相手の得点に結びつけてしまった中田(浩)を批判した記事をみかけない。決勝Tのトルシエの不可解な選手起用も、ジャーナリズムが調べない。ジャーナリズムが追求しないから、うやむやなままである。監督には選手起用の権利があるのだから、どんな起用をしてもかまわない。ただ、その理由、根拠を明らかにする(ジャーナリズムはそれを聞く)義務があるはずだ。納得できるものならば、それはそれでかまわないが、納得できないものならば、それについて批判を展開することのほうが自然である。
選手の精神面を育てるのはサポーターとスポーツジャーナリズムである。両者とも、悪いプレー、納得いのいかない結果には断固、ブーイングをする権利をもっているからである。その意味で、選手とサポーターは「一体」ではない。サポーターは応援をするが、それは一方的な「愛」とは違う。応援は批判と裏腹の関係にあり、それは極めて緊張した関係なのである。一方的な惰性の「愛」など、ストーカーのそれであって、真のサポーターの心情とは遠い。
日本のサッカー界には、いや、スポーツ界全般において、こうした関係が築けていない。大きな大会に乗じて、熱狂的な「ファン」と称する「ストーカー」ばかりが増えるのである。こうした「ファン」(すぐに醒めてしまうのだが)を即席に増殖させるのが、日本のジャーナリズムの仕業なのである。彼らは勝ち負けにこだわった、思い入れたっぷりの作文は得意だが、分析や調査といったスポーツに必要な取材はしないようだ。


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