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■ わかる・わかちあう・わかれる
『こどもと出会い別れるまで 希望の社会学1』(石川憲彦、ジャパンマシニスト、2003) タイトルにひかれて借りた本。標題は「第三話 わかつ家族」の中の一節。
Kはしきりにげんこつにした手をなめる。 自分の身体を認識しはじめて。
生まれてしばらく、Kの身体(の感覚)は、私の身体の延長線上にあったらしい。実際私も、できるだけKとくっついていた。そのことが許されたし、それに、そうしたかったからだが、人生でこんなに誰かとくっついていたことはないだろう。 私も生まれてしばらく、私の母とくっついていたと思うが(忘れたけど)、母は確か産後6週で職場復帰しているはずなので(昔はそんなもんだ)、単純に計算してもKと密着している時間の方が長いのではないかと思う。
妊娠していた頃、Kは私の身体の中にいたのに、不思議なほど一体感がなかった。皆無だったわけではないけれど、一体感よりも明らかに「違う」という感覚の方が強かった。違う誰かと常にいる感覚。それは違和感ではなかったけれども、自分の中に自分とは違う何かを預かっている感じがあった。 私は自分のことを大家さんみたいだと思っていた。義理堅い(というのかな)大家さん。 むしろ身二つになった後、Kに引き寄せられて急速に一体である感覚を身につけていった気がする。
自分の身体がわかるようになって、おめでとう。 成長をうれしく思う気持と、今すでに確かに私から離れていっているという、まぶしい(そして少し、さみしい)気持と、両方ともある。
2006年11月20日(月)
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