箱の日記
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夢のあとに
チェロの弓をひいたとき 息を震わせるすさまじい魂が湧いてくるようだった 僕のどこにこんなものがあったんだろう 一曲弾き終えると しばらく手が震えて言葉も出なかった
君はなんでもない表情で 次の曲名をつげた 水を二口飲むとピアノがはじまる 後れをとらないように、 僕は
宇宙っていうのは 二つあって、僕らが観測できるのはその一方 もうひとつのはすぐそばにあるはずなのだけど 誰もそこへ立ち入ることはできない 意識することすらままならない それはこの世界に「僕が存在する」っていうことにほかならない たとえば ガラスに額をくっつけたとき あちら側に見える気がするもうひとり 彼が知っているかもしれない すごい魂の宿るところを
決して教えはしない
また一曲を終えて 窓にその姿を探すけれど 彼はいない かわりに、真っ暗な闇の中に浮かぶ街灯が 強風にうごめく楠木を照らしている 僕の弦がそうさせている
植物園行き
植物園行きのバスに乗って僕はどこかへ行こうとしている 空席のそばに立って 片手に葬式でもらった香典返しをぶら下げ ずいぶん冷えるから セーターを着てこれば良かった なんて考えている 暖房の音はするのだけど
布団のなかのきみの 困ったような 欲しいような 額のあたりを思い出すたび 「降ります」のボタンがピイと光る あれはなかったことにできるんだろうか
いつのまにか 周りはじいさんばあさんばかり このまま誰も降りなければ皆 植物園行き
だから僕が次のボタンを押す 指先が震えたら って考えると胸がつまるのだけれど
グリーンウォーター
池にむかって靴を飛ばした 靴は、 かかとで一滑りしてからずぶと溺れた 狸が乗った泥船みたい スプーンのようにひらひら落ちると思ったけどそうじゃなかった
溺死するんじゃないかな
もうすぐ寒波がやってくるというのに ここは湧いたように生温かく 鯉が 底についた僕の靴の上を悠々と 通り過ぎていく つらいことや悲しいことがあったわけじゃない とくに悲観的ではないし将来のことを真剣に考えるほどの 不安もない ただ 誰かが僕の行動いっさいを観察して 実況してくれたらいいのに そして となりの解説者が 彼なりの分析をする 僕にそれは聞こえないのだけれど どうってことない グリーンウォーター いつからかそう呼んでいた 透明性のない澱み そこへ裸足をいれて ゆっくり波を立てた
「いま、おもむろに立ち上がりました、さあ」 僕は片っぽ裸足のまま ゆらゆら池のまわりを歩いた ポケットに手を入れたまま 素面で 実況がこれからの僕を待っている 解説がはやくも分析を始める 僕がどんな心境か 僕が何をみつけたのか
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