箱の日記
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たとえば、空 またドアを開け、外へ出たあなたのくちびる 遠くで 終わりのない絶望
わたしとあなたが平行に辿る線 こちらにも いま鼻先に触れた風
そして海 顔洗いの水の 手にたたく ひとひとりぶん わたしが手をひたせば、それはあなたのいる遠い岸へ
洗ったばかりの皿を手に 立つ場所 台所の陰から そっと 肩を
すこし無理矢理に休みとした。やっとこの頃、真夜中に蝉が鳴かなくなったようだ。 いちばん短い八月はここに。 秋の夜長もすぐそこだから。
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庭へ出ると 案外暗いことに気づいた カーテンが分厚いのか、照明が弱いのか、 雲がはねかえす街のかがやきもなく、 月がどこにあるのか、わからなかった 草むらの中から、虫の声がいくつも発信される りんりん、るるる、らんらん わたしと話したがっているのではないよ やりたがっているんだ 竹刀を握って、わたしは素振りをはじめた こんな真夜中に、びゅう、びゅう、と 立ち止まった空気を切り裂く音が、虫たちの鳴き声に混ざる まったく、どうかしているってもんだ
果たして、足の火照りはどこかへいってしまったようだが 背筋をなにものかがとらえて離さなかった わたしは くるな、くるなと 汗ばんだ掌で握った竹刀を振りおろしていた
地中アパート
僕らは傾いたアパートに暮らした。 最初に傾いたとき、シロアリが出たといって騒ぎになり、 直ぐに業者が駆けつけた。シロアリなんて、どこにもいません、と。 でも念のために殺虫剤だけは撒いていきます そういって、長いノズルを軒下にくぐらせた。風のない暑い日に いやな臭いが立ちこめて、ひどい頭痛がした。 あの霧は虫に、じゃなくて僕に効いたんだ。
つまり地面よりも建物のほうが硬かったわけだ。毎日を暮らす 僕らの重みで、日々アパートは沈んでいく。丈夫な姿のまま。みしみしともぎしぎしとも いわないけれど、分散しきらない歪んだ重みが、絶えず建物を震わせていて いっときもその周波が耳を離れることはなかった。地盤沈下は日増しに明らかになり、 いよいよ立ち退くことになったんだ。僕らが別れることになったのも、ちょうどそのころだったね。 どっちが先の話だったか、どうしても思い出せないけれど。
いまでも地震が起こるたびに想像してしまうんだ。あのアパートが、地面に呑み込まれて そのまま生き埋めになっている姿を。ちょうど安定した比重の場所にいて 永久に浸食されないまま、残り続けるんじゃないかって。
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