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徒然
壱岐津 礼
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2012年07月21日(土)
MONSTERはどこに潜むのか

 前日は、教室が恐怖の異端審問法廷と化していく過程について書きました。担任に焦点を当てましたけれども担任だけの問題では、勿論ありません。「いじめを解決せよ」という司令は更に上から発せられています。例えば校長とか―――校長も教頭も、学校全体が、校内に「いじめ」が発生している状況は元々望んではいません。場合によっては校長自身が事態と直接対峙に臨む例もあるでしょう。
 話は一転しますが、校長先生というのは、結構よく自殺している職業なのです。このレベルになると地域との付き合いなども絡みますし、どのような学校に赴任するかによっても明暗は分かれます。昨今は叩き上げのみでなく、民間からも校長赴任の例もあるようですが、民間出身校長も……自殺された例があったように思います(※要確認)。とにかく非常に強い圧力のかかる地位であるようです。
 圧力というものは、かかれば抜け道を求めます。密閉された場に強い圧力がかかれば、その場を閉じている要素のうち最も弱い箇所を破壊して、そこから抜け出そうとします。「いじめ」が発生して「それを解決せよ」という圧力がかかった時、校長がその全てを引き受ければ、校長も生身の精神と身体を持った人間ですから、最悪圧死―――現実の現象としては自殺、というケースに至る危険が高まります。校長がその責任を放棄し担任に丸投げすれば、圧力に負ける危険は担任のものとなります。担任が自衛に走り圧力から逃げた場合は、先に記したように、「いじめ」の全責任、「いじめを解決せよ」という圧力の全ては、他ならぬ被害当事者一点に集中します。
 いずれが最悪とも選べない、いずれもが「最悪の悲劇」です。
 (世の中は子供の悲劇に特に過敏な傾向がありますが、大人の生命だって、あたら疎かにされて良いものではありません)

 では、何が学校に破壊的なまでの圧力をかけるのでしょうか。

 学校の外周には、個々の生徒から繋がって、保護者の集団というものが存在します。保護者は学校が、自分の子供を安心して預けられるより良い場であるよう望みますから、保護者から学校に対しては元から緩い圧力は存在しています。大きな事件などが起きなければ、保護者と学校の関係は平穏且つ協調的でいられます。
 「いじめ」という問題が発生した後は、平穏ではいられなくなります。
 保護者がどのようにして学校での「いじめ」を知るか、これもまた各家庭事情によって異なるでしょう。全ての家庭が良好な親子関係を築いているかどうかも定かではありません。中には放任状態の家庭もあるかもしれませんし、親子仲が険悪なケースもあるかもしれません。
 良好であったと前提しても、加害者当事者が自ら「やってやった」と告げるとは考えにくいと思われます。親から褒められないことを報告する子供は、通常いないものだからです。そして「いじめ」は褒められる行為ではありません。
 「傍観者」は何かの拍子に家で話題に上せることもあるかもしれません。
 被害当事者は告げるかもしれませんし、告げないかもしれません。親子関係が良好であったとしても、「心配かけたくない」という心理が口を重くするのです。
 子供の挙動の変化に敏感な保護者ならば、気づいて子供を問いただす、或いは学校に問い合わせるかもしれません。子供からも知らされず、兆候も気づけなかった場合は、学校からの連絡で知らされることになるかもしれません。
 どのような家庭であっても、外部から家庭内の事情に干渉される状況は好まないと推測されます。好ましくない問題を持ち込まれるなら尚のことです。ここで「学校は何をやっていたのだ」「安心して子供を預けられる場所ではなかったのか」との反発が、関係家庭全てから学校に向けて放たれます。
 被害当事者の家庭が、放任、または崩壊していた場合は、被害当事者は家庭から助けを得ることができません。
 被害当事者の保護者が、自身の子供に責任を持っていた場合、保護者は我が子をどのように保護すべきか葛藤に苛まれます。いじめられているまま放置するわけにはいかない。さりとて、小中学校は義務教育であり、学校に通わせないとなると保護者としての義務に違背することになる。ここで、保護者が「いじめられる側にも原因がある」という言葉に耳を傾け、わが子の性格・行動の矯正へと向かうと、被害当事者は家庭内でも逃げ場を失います。
 一方、加害当事者の家庭では更なる大きな葛藤を抱え込みます。
 加害当事者の家庭も様々なのですが―――、「うちの子に限って」という言葉があります。これは一時流行った言葉で、我が子の欠点、非行を見逃す親を揶揄するように使われていたのです。が、実のところ「うちの子に限って」と口にする保護者は、比較的マシな、普通の保護者です。保護者のわが子への信頼を表す言葉であり、子供もまた保護者の前で「良い子」を演じている、相互に信頼関係を築くよう努めていると暗に示しているからです。自身の子の非行を他者から告げられ、「まさしく、うちの子ならやりそうなことです」などと返答する保護者は、その時点で保護者として、なんらかの大きな問題を抱えています。
 我が子への信頼を裏切られた、と告げられた保護者は、まず、当の我が子を信じ続けるか、それとも非行の事実を認めるか、の間で大きく揺さぶられます。非行の事実を認めれば、今迄の平穏な信頼関係は維持できなくなります。保護者として叱責しなければならなくなります。どのように叱責するのか。厳しく咎めるのか。それとも優しく言い分を聞いてやるのか。できれば、我が子の言い分には耳を傾けてやりたいのが人情です。
 二親揃っていた場合には両者の責任のなすりつけ合いにも発展します。「お前の育て方が悪いから」「いえ、あなたが」それとも、別の要因が、立派に育つはずだったうちの子をおかしくしてしまったのかもしれない。
 人間は、自らの失敗は見たくない、可能ならば見まいと努めるという性質を持ちます。まして、現代では「子育ての失敗は許されない」風潮が社会に蔓延しており、「子育てに失敗した親にはなりたくない」という強迫観念が各家庭を抑圧しています。実際には子育てには運の要素も大きく関わり、両親がどれほど優秀な人間でも子供も優秀に育つとは限りません。良くて凡庸に育ち、悪くすれば落とし穴はいくらでもあります。ハイリスク・ローリターンな賭けなのです。
 しかし、こうした事態では、とにかく誰かに責任を負わせなければ皆の気が済みません。ここでも「いじめられた側に原因があったのだ」という言葉が、加害当事者家庭に甘く囁きます。被害当事者側が責任を負うのならば、「うちの子」は今迄通り問題の無い愛すべき我が子であり続けられます。
 そして―――何度も繰り返しになりますが、通常、加害当事者の方が多数であり、被害当事者は一人なのです。学校にかけられる圧力は、加害者側からのものが圧倒的に強くなります。
 
 教育委員会、行政は何をしているのか、と考えられる方もあるかもしれません。本来これらは学校を補助すべき機関なのですが、残念なことに学校とはうまく協力関係を築けていないようです。一つには、「いじめ」の発生という現象が、彼らにとって恐るべき失点だからです。どんな小さな失点も、彼らにとってはあってはならないからです。「覆い隠せる程度の小さな失点なら隠してしまおう」彼らは考え、働きかけます。早期に対処していれば繕う機会も有ったかもしれないものを、隠蔽により、その機会は失われます。失点が顕にならないように、早く無かったことにするように、と現場に圧力をかけます。現場は助けを得られないまま更に高圧力下に苦しむことになります。
 ここで忘れてはならないのは、世間は彼らを「組織」として見ますが、組織を構成するのは一人一人の人間です。彼らもまた圧力に弱く、その前に容易く屈します。
 その圧力とは「いじめを発生させてはならない」加えて「どんな些細なミスも許されない」という社会の圧力です。

 「いじめ」というものは、誰かが発生させようとして発生させるものではありません。気がついたらそうした場の空気が形成されてしまっているのです。「発生」そのものを根絶させることは、おそらく不可能でしょう。
 事態の解決の「決め手」も、万能のものは現状存在しません。一例一例が異なるのですから、一例一例調査して、もつれ凝り固まった糸を解いていくよりほかありません。
 「早く解決させろ」と圧力をかけるのは、事態を悪化させることはあっても好転させることはまず無いでしょう。当事者達は、高い圧力の下でどんどん追い詰められていくのですから、逆効果です。

 これまで、大津の事件について私は全く触れませんでしたが、あれは被害者が生命を落としてしまう、という取り返しのつかない事件であり、既に警察の介入を受けているものだからです。私がとやかく言って被害者が帰ってくるわけでもなく事態が好転する見込みもありません。野次馬のつもりでこの記事を書いたのではないのです。
 私が危惧するのは、「取り返しのつかない事に対する怒り」の声があまりに大きく強く世間を覆っている為、現時点他の場所で「いじめ」の渦中にいる子達、関係者達、また過去にいじめに関わって傷ついた人達が、その圧力下で一層苦しむのではないか、ということです。
 私自身が、数十年前に被害に遭った身ですが、この一連の記事を書いている間も、胸を鷲掴みにされて息が詰まるほどの苦痛を味わいました。思い出したくもないのです。思い出したくもないのに、こういう世間の空気の中では否応なく記憶を鮮明に呼び起こされてしまうのです。

 ここまでの間で何度も「〜しないでください」の表現を多用しました。「〜しろ」「〜しなさい」の声があまりに多く大きいので、そのカウンターとして書きました。
 私は、言論の自由を支持する身ですから「黙れ」とは言いません。けれども、せめて、「言葉」にする前に、「行動」を起こす前に、動機が悪意であれ善意であれ、ご自身が何を求めてアクションを起こすのか、もっと自覚してからにしていただきたいのです。
 ただ叫びたいだけなんですか?
 その後に起こることには何も興味無いのですか?
 自分の声で誰かが苦しんでもかまわない?
 それとも、大津の関係者を追い詰めて追い詰めて自殺まで追い詰めて、ザマアミロと言ってやりたい?―――まるで「いじめ」の加害者のような心理ですね。
 本当のあなたは悪意の塊ですか?
 叶うなら善き人として生きたいとは願ってはいませんでしたか?
 よく考えてください。

※補足として
 一貫して「いじめ」という言葉を使い続けたのは、他のもっと過激な言葉「虐待」「迫害」「犯罪」等を使うと、こぼれ落ちてしまう加害・被害があると考えたからです。
 「いじめ」の中にも、戯れから僅かに逸脱して被害者を不快な状況に置いているレベルのものから、大津のように警察の介入無しには片付かない刑事罰相当レベルのものまで幅広く多様な行為があります。刑事罰相当レベルのもののみに対処して、それ以下は切り捨てる、という姿勢になるのは望ましくありません。
 義務教育は小中で9年ですが、昨今は高校義務教育化の話も持ち上がっています。そうなると12年となります。最大12年間、刑事罰相当に及ばないレベルの軽度ないじめでも継続して受け続ければ被害者の負う心的外傷は計り知れません。
 「受験によって、その環境から脱しろ」というアドバイスも見かけましたが、可能な人間にとっては有効なアドバイスですが、全ての子供にそれが可能なわけではありません。私は一度受験に失敗して環境から逃れ得なかった経験がありますから、希望が潰える痛みはよく知っています。二重の絶望です。
 経済的事情が許さない家庭というものも存在します。公立が選ばれる理由の一つは「授業料が安い」からなのです。

 「いじめ」を解決する決め手は無い、と申しましたが、高い圧力がかかることで状況が悪化するならば、圧力を少しずつ抜くことによって、少しずつ改善することは可能ではないかと考えます。あくまで少しずつです。急激な変化は思いもかけない所に負荷をかけますので。
 内部関係者には、おそらく自力で自分達を救うことはできません。外部からの介入―――警察ではなく、ケースワーカといった形で福祉の方向から、できるだけ早期に手を差し伸べられることが求められているのではないかと考えます。助けを必要としているのは被害者だけでなく、加害者も傍観者も保護者も教師達もです。残念ながら、現時点ではそのような体制の作られた自治体があるとは聞きませんし、今後も作られる予定があるとも聞きません。行政は基本的にはこうした事柄には後手後手ですし、悪手を打ちがちですが、なんとかマシな手を打っていただきたいと望むところです。個人でどうこうできるレベルの話ではありませんから。

 加害者に対しては何を言ったらいいか分かりません。「止める勇気を出せ」と言うのは簡単ですが、勇気なんて出せと言われて出るものではありません。ただ、その環境から抜け出したいと望むなら、助けてくれる人を探してください。
 傍観者も被害者も、です。
 一人で抱え込まないでください。

 今、自殺を考えている方―――。
 私は、どうして自殺がいけないのか、自殺は本当にいけないのか、答えを示すことはできません。
 ただ私の場合は、死に手招かれる度に、その手をとることは、自分のこの世での好きな事、物、人、全部捨てなければならないってことなんだ、と考えました。捨てたくなかったから未練がましく生きています。
 学校を卒業しても、社会には色々とつらいこと悔しいことが溢れています。後遺症はまだ引きずっています。バラ色の未来は約束できません。
 けれど、長く生きた分だけ、好きなモノが増えました。途中で死んでいたら出会わなかったモノが沢山あります。どれもかけがえのない宝物です。
 その事を、少しでも「羨ましい」と感じていただけたら、嬉しく思います。



2012年07月20日(金)
ようこそ異端審問教室

 今回以降は大人の事情を巡って書こうかと思っています。
 先生の事情にするか保護者の事情にするか―――実のところ両者は、ほぼ同時進行で絡み合って事態を収束に向かわせたり悪化させたりするのですが、同時進行で両者の状況を描写するのは非常に難しいので、教室内部で何が起こるか、から先に書くことにします。

 さて、「いじめ」という状況が形成され、被害者・加害者・傍観者という役割がクラス内の生徒それぞれに振られた後、ある程度時間が経過すれば「いじめ」は担任の知るところになります。
 被害者や傍観者から担任に相談が行くかは、日頃の担任と生徒との信頼関係にもよります。勘の良い担任ならば、報告や相談が上がる前に察知します。「いじめ」の場が形成されると教室内の空気が不穏な緊張を帯び、生徒達はどこか挙動不審になり、早い話しがクラスが荒れ始めるからです。生徒との信頼関係も無く勘も鈍い担任の場合は、他のクラスの担任から「あなたのクラスはちょっと……」と指摘を受けるかもしれません。或いは、被害児童の保護者からの訴えで、ようやく事態を知る、というケースもあるかもしれません。
 いずれにしても、事態を知って後の対応が、最も担任教諭の力量が試され、被害者・加害者・傍観者それぞれの命運の分かれ目となるところです。

 勘が良く比較的生徒の信頼を得ている担任に恵まれた場合は、とりあえずの事態の悪化は防がれます。担任が被害者と加害者の間に割って入り、明確に被害者を保護する姿勢を見せれば「傍観者」も担任の姿勢に倣い、曖昧にですが被害者と加害者の距離を遠ざける行動をとるようになります。生徒の信頼を得ている担任が統括するクラスにおいては担任が最も「力の強い存在」になるのですから、生徒は担任の姿勢に従うわけです。加害者側は被害者に対して加害行動をとる機会をあまり持てなくなり、被害者は校内でのある程度の安心を得られるようになります。
 加害者が完全に加害行動を止めるかどうかは、「いじめ」がどの程度進行しているか、にもよるでしょうし、加害者の性格にもよるでしょう。私は、幸か不幸か「そちら側」に加わる機会にあずからなかったもので、加害「集団」の心理についてはよく分からないのです。ただ、咎められなければ増長し、咎められれば逆恨みの危険があり、「集団」である為に「一抜け」すれば「裏切り者」として「仲間」から攻撃される恐れがあり、それを恐れているだろう、と、想像するのみです。或いは加害者に対するケアの方が、被害者に対するケアよりも困難であるのかもしれません。
 担任があまりクラス統率力に恵まれていなかった場合は、被害者を保護しても「傍観者」の同調までは得られず苦戦するかもしれません。それでも、放置するよりはマシです。「いじめ」のエスカレートに対するある程度のブレーキとなり、被害者の生存率は上がります。運が良ければ、時間稼ぎの間に、被害者が学校から脱出できる最大の機会「卒業」を迎えることができるかもしれません。
 残念ながら、担任の介入によっても、劇的に事態の解決を迎えるという例は、有ったとしても極めて稀でしょう。一度、被害者・加害者の関係が形成されると、余程に幸運な事件が降って湧きでもしない限り、互いに対する認識というものは変化しないからです。
 「仲直り」というものを大人はしばしば子供に対して求めますが、「仲直り」が可能なのは対等の立場での喧嘩の場合に限られます。被害者・加害者の関係は対等ではありません。ですから「仲直り」は、まず不可能と考えてください。子供は大人の求めに応じて演技しますから、求められれば表面上は「仲直り」を演じてみせます。しかし双方の間に在るわだかまりは解けないまま残りますから、問題は表面上の演技に覆い隠されたまま水面下に沈み、「仲直り」演技によって被害者と加害者を共犯関係に結びつけた上で、次の段階に進行します。これは「悪化」に進む一例と言えるでしょう。
 担任が生徒達の前で一言でも、「被害者」に「非が有る」と漏らせば、事態は急激に悪化します。被害者を攻撃することに公然と許可を与えられたようなものだからです。

 ところで、教師というものは、当然「教員になる為の勉強」と「訓練」を受け、資格を得てなるものです。
 しかし、その勉強と訓練は主に「授業を行う」ことができるようになる為のものであって、子供同士の人間関係の調整の訓練は受けていません。人間関係の調整などというものは教科書では学べません。人間は一人一人異なるものです。殊に子供は欲望に正直かと思えば大人を欺くところもあり、難しい相手なのです。実地に場数を踏んで覚えていくしかないのですが、それでは時間がかかり過ぎます。先生の卵が実際の子供に揉まれるのは、僅かに教育実習の期間のみです。
 このような状態でなるものですから、通常、新米の先生の能力は低いものです。稀に生来、交渉能力に長けた人というのも居るようですが、そういう人ばかり選っていては、先生のなり手の絶対数が少なくなり、教育を受けられない生徒が溢れてしまいます。数を充たす為にはある程度は能力の低い新米教員でも補充せざるを得ず、能力が低いことを責めたとろこで急に能力が高くなるわけではないですから、能力の低いものは低いなりになんとか現場を回していくしかありません。
 教師も人間ですから対人プレッシャーというものを感じます。経験浅く能力の低い者ほど、これの対処に苦慮します。相手が子供でも人です。大人よりも厄介な人かもしれません。クラスを担当すれば数十人からの対人プレッシャーに毎日長時間向き合うことになります。素直に従う生徒ばかりではありません。反抗的な子もいます。子供は大人の能力を敏感に読み取りますから、能力の低い新米教員は担当生徒にナメられ、授業を予定通りに進行させるだけでも苦労します。生徒の保護者からもプレッシャーはかけられてきます。帰宅後の時間も、多いように見える休日も、持ち帰り仕事で潰れてしまいます。特に問題が持ち上がっておらずとも、能力の限界まで発揮するよう求められます。学校教員のうつ病罹患率は高いと言われています。非常にストレスフルな仕事なのです。
 そこに「いじめ」という、非常に対処の難しい問題を持ち込まれ、「これをなんとかしろ」と圧力をかけられれば逃げたくなるのが人情です。「先生なのだから逃げてはいけない」という倫理的な問題は一旦置いてください。「逃げたくなる」のが普通の人間としての自然な心理なのです。
 繰り返しますが、「いじめ」は通常、加害者が多数で被害者は一人です。どちらも教師に対して圧力をかけてきますが、加害者側からかけられる圧力の方が大きいのです。生徒からナメられている場合は「傍観者」は支えにはなりません。ここで教師が圧力の大きい側に屈して発せられる言葉が「いじめられる側にも原因がある」です。多数を相手に説得するよりも、一人に要求を呑ませる方が容易だからです。
 そして、いじめられる側に原因が有るならば、その原因を取り除けば「いじめ」は解決する、という理屈によって事態は最悪の方向に転がります。担任教師をも加害側に取り込んだ「いじめ被害者矯正プログラム」が発動するのです。このプログラムが実行に移された時、前日に触れたように「傍観者」も【場の機能】においては「加害者」として働いてしまうのです。

 私は、いじめられていた当時、直接的物理的攻撃も色々受けたのですけれども、どんな身体的な痛みよりも苦痛だったのが「君の行動と性格を矯正しなさい」と求められた日々でした。
 「もっとハキハキ喋りなさい」「皆と仲良くしなさい」「表情を明るくしなさい」「笑いなさい」
 つらい最中にいるのだから言葉も詰まるようになるじゃないですか。好きでもない、話題も合わない相手と仲良くなんかできるわけないじゃないですか。こんな環境で明るく笑えるわけがないじゃないですか。
 クリア不可能な課題を与えられて、クリアできず、毎日ホームルームの度に「課題はクリアされなかった」とクラスメイトに告発され、ごめんなさい、ごめんなさい、と謝り続け、この儀式が終了するまで帰宅もできず、その日帰れても次の日にまた同じ繰り返しなのです。
 あれは小さな法廷でした。現代の法律ではどんな凶悪犯も弁護人を付けてもらえるのに、何も凶悪犯罪なんかしていない、ただ不器用で暗い顔した口下手なだけの子供が弁護人一人付けてもらえず被告人席に引きずり出され、判決は必ず有罪なのです。
 何より恐ろしかったのは、「終わりが見えない」ことでした。
 直接的物理的な攻撃というのは、痛いのはその時だけなのです。また次もあるかもしれないけれども、逃げられるかもしれない。けれども、登校したからにはホームルームからは逃げられないのです。ホームルームが始まれば、あの一方的な法廷に引き出されてしまう。
 「終わり」は、学校はいずれは卒業するものですから「有る」んですけれども、子供ですから一日一日が非常に長く感じられ、苦痛で更に引き伸ばされて感じられ、果てしなく遠く思えたものです。

 ―――そのうち私は朝になる度に熱を出して体調不良を訴えるようになりました。典型的な登校拒否のパターンです。
 うちの親は、父は通知表の結果が少しでも悪いと激怒して手を上げるような、怖い、いささか横暴な人だったのですが、その時は全く怒りませんでした。母も、登校しろとは強いず、私の訴えのままに学校に電話し、「体調不良の為に休む」と、連日連絡を入れてくれました。
 両親には学校での事は話していなかったのですが、それ以前から若干は勘付いていたようです。担任から連絡が有った時には一戦以上交えていたようです。
 両親が守ってくれたおかげで、学校から逃げることを許してくれたおかげで私は、なんとかその時期を乗り越えることができました。
 もし、登校拒否を叱責されていたら、親からも登校を強いられていたら、卒業までの毎日を一日も欠かさず弁護人の居ない被告人席に引き出されていたら、どうなっていたか想像もつきません。

 私は、「いじめられる側にも原因がある」と言い「その原因を取り除くように」と要求した担任教諭に対して長く憤っていました。現在は、担任の置かれていた過酷な状況というものも察しがつくようになり、彼の事情が理解できてしまったので、今更個人に対してどうこうという気持ちもありません。
 けれども、あのようなことは繰り返されてはならないと考えます。繰り返されてはならないことが今も繰り返されているのではないかと案じています。
 誰であろうと、例え私をいじめていた加害当事者であっても、或いは私をあそこに引き出した担任教諭であっても、あんな、最初から有罪と判決の定められた、弁護人の居ない、閉ざされた法廷の被告人席に引き出されてはならない、と、切に想います。

 まだ続きます。
 この後は明日以降に。



2012年07月19日(木)
迫り来るセガール!? 沈黙の加害者…ナノカ?

 タイトルはほんますいません。正直、こんなことでもしないとやってられない話題なんです。
 予告では保護者とか先生とか、と書いてましたが、大事な事がまだだったので、その話をします。大事な事―――それは、「いじめ」という負のゲームの外周を囲む「傍観者」について、です。

 いつからでしょうか「傍観者も『消極的な加害者』である」という言葉や論説を見聞きするようになったのは。私がいじめ最前線に立っていた頃には無かったものですね。本当に彼らは「加害者」なんでしょうか?
 私個人の感想から先に申しますね。
 「加害行動とってないやつが加害者なわけないでしょ」
 「いじめ問題」の議論の歴史というのは(実際には、きちんとした議論なんてまあ、されてないと思うのですが)、一方で、「いじめ加害者を如何にして擁護するか」という目的に沿って言を弄する歴史でもあったと、私は認識しています。よく言われる「いじめは、いじめられる側にも問題がある」という言葉も、その代表例ですね。これについてはまたどこかで触れるかもしれませんが、今は置いておきます。今回は「傍観者」についてです。
 「傍観者も『消極的な加害者』である」にも、加害者を擁護しようというニオイを私は感じます。責任を分散することによって加害当事者の加害責任を軽くしようと、そんな印象ですね。或いは、被害当事者の八つ当たり的側面も有るかもしれません。そりゃぁ、もう、苦しい最中で得られるものならどんな助けだって欲しいし、「助けてくれないなんて、なんて冷たいんだ」って、思っちゃいますよね。そして、苦しんでいる人間というものは、当たり前ですが、苦しんでいる間は常に不機嫌で、機会が与えられ相手が与えられれば当たり散らしてしまうものなんです。そうした事情を鑑みれば「傍観者も『消極的な加害者』である」という言葉は、加害当事者・被害当事者双方の都合、欲求の合致によって作り上げられたもの、とも見えます。
 とんだとばっちりです。
 そもそも、「いじめ」という状況を作ったのは「傍観者」ではありません。
 「いじめ」は、人が作るというよりも、不幸なきっかけによってできる状況である、と、前日に書きました。不幸なきっかけが生じるまでは、傍観者は「傍観者」なんて名称の代物ではなく、只のクラスメイトです。「いじめ」の発端にすら関わっていないのではないでしょうか。気がついたら自分達の至近で、しかしあずかり知らぬ理由で「いじめ」が発生しており、気がついたら、その外周で「傍観者」の役割を与えられていた。そんな事は望んではいなかったのに―――。
 そして、大事なことなのですが、「傍観者」は被害当事者を助けもしないけれども、加害行動に加担もしないのです。加害当事者が不在の間、周囲に「傍観者」しか居ない間は、被害当事者は加害行動に怯えずに済みます。加害当事者の姿が見える間は暴力に怯えて息もできないほど竦んでいても、周囲に傍観者しか見えない時には、少なくとも息を吐く余裕ができるのです。これは非常に大きな差です。
 また、「傍観者」の特徴として、彼らは「加害者」にもなりたがらないし、「被害者」にもなりたがらない、という点があります。「被害者」になりたがらないのは当然ですよね。誰だって痛い苦しいツライ思いなんかしたくありません。「加害者」になりたがらない、というのは、彼らが、その時点では「他者の苦痛を快楽とは感じていない」という性質を表します。他者の苦痛を快楽と感じるタイプであったなら、傍観などせず、加害に加担していることでしょう。
 「他者の苦痛を快楽としない」人間にとって、耳目に触れる距離で、他者が虐待されている状況というのは、不快です。精神的苦痛、と言い換えても良いかと思います。その精神的苦痛に黙って耐えるよう強いられている「傍観者」は―――視点を変えれば『間接的な被害者』とも言えるのではないでしょうか?
 ではなぜ、自分にとって不快な状況を変えようとしないの?
 そう、疑問に思われるかもしれません。
 理由はあるのです。
 先に述べた通り、彼らは「加害者」にも「被害者」にもなりたくありません。しかし、状況を変える為には、どちらか、或いは双方に接触して干渉しなければなりません。ところが、残念ながら、彼らの実態は、特別力が有るわけでもなく、知恵が働くわけでもなく、知識もたいして持っておらず、特殊な訓練など受けていない「只の子供」です。迂闊に「いじめ」の力場に近寄ると抗えずに巻き込まれて「加害者」か「被害者」のどちらかの立場に堕ちてしまう危険が非常に大きいのです。「傍観者」が最も恐れるのは、「巻き込まれる」という、この事態です。

 「いじめの転移」という言葉は今、私がでっちあげたのですが、そう呼ぶのが相応しいかな、と思われる現象が在ります。

 またしても私の実体験で失礼いたしますが、これは学校という環境から遥か二桁年離れたネット上の、とあるBBSで起きた小さな小さな事件です。
 きっかけは私ではなく、仮にAさんと呼びますが、Aさんの失言によるものでした。著作権に絡む失言だったと記憶しております。著作権の問題はデリケートな話ですし、「著作権を守る」ことを熱心に口にする、もとい文にする人達も複数、そのBBSに出入りしており、若干の緊張した状況は元からありました。Aさんの発言は、この、「著作権を守りたい」人達の逆鱗に触れてしまったのです。それから後の執拗な文章による攻撃は、当該BBSを開ける度に見てるこちらが頭痛を起こして突っ伏したくなるほどでした。
 実はAさんの発言は―――攻撃していた人達は「著作権侵害を推奨している」と解釈したようですが―――「自作のフリー素材を配布している人達に、著作権管理団体が干渉する事に反対します」という趣旨のものであって、グレーですらなかったのです。若干舌っ足らずな文章であり、デリケートな問題を、神経質な人達の居る場所に投げ込んだわけで、誤解を招いたのも仕方ないな、と、騒動の勃発した当初は私も様子見していたものですが……。何日間その状態が続いたのか、Aさんへの攻撃のコメントでページが埋まり、他の人が他の話題を振る余地もない攻撃者のBBS専有状態も目に余りました(彼らの所有するBBSではなかったのです。いわば他所様の土地を占拠して怒鳴り散らしているようなものでした)し、更にはAさんが自分の失言について謝罪した後も彼らは攻撃の手を全く緩めなかったのです。
 で、つい手を出してしまったんです。
 あれは、端から見たら、馬鹿が馬鹿して地雷を踏んだと見えたでしょう。が、騒動以前は好きな場所だったBBSが怒れる人達の怒声に荒れ果ててしまったのが私には耐えられなかったんですね。「もう、そろそろやめましょうよ」と言ってしまったのです。
 そしたらびっくりしましたね。クルッと矛先がこちらに変わって「そのモノの言い方はなんだ!」と、今度は私が槍衾になってしまいました。
 「モノの言い方」ですが、改まった堅苦しい文章では当たりがキツくなるかと思いまして、できるだけフランクに柔らかく、と推敲に推敲を重ねたものでしたので、非常に残念な結果でした。私の文章がよほど拙かったのかしら、表現力が足りなかったのかしら、と、そういう面でも落ち込みました。けれど、改まった言葉で言ったところで結果は変わらなかったかもしれません。何しろあの人達は「Aさんを攻撃する」という目的の下に一致団結した一体感に酔い痴れていた最中でしたから。そこに私がバケツで水をぶっかけたようなものでしたから、それはもう、不快の極みだったでしょう。
 「モノの言い方」については即座に謝ったのですが聞き入れてもらえませんでした。今度は私への攻撃でBBSが埋まり、冗談ではない、攻撃コメントの収束を望んで横槍を入れたのに、これでは私が居る限り事態が収まらない。ってんで、「文句があったらメールでいらしてくださいね」と、メアドを残して撤退しました。
 最初に攻撃されていたAさんは、まあ、申し訳なさそうなコメントがちらりと見えましたが、私の撤退より前にフェードアウトされました。助け舟は、来なかったですね。
 まだネットだったから、撤退できる場所でしたから良かったです。これが現実の、学校の、クラスの中だったら。逃げ場の無い教室での出来事だったら、と想像するとゾッとします。
 もし学校の教室での出来事ならば―――Aさんは良くて「傍観者」の群れに紛れ込むか、逃げきれずに私と一緒に引き続き攻撃の的になるか、最悪、「攻撃者」つまりは加害者当事者の群れの最下層員として、私を攻撃していたかもしれません。とにもかくにもAさんには私を救出することはできなかったでしょう。それだけは確かです。

 実際問題、多少なりとも頭の働く「傍観者」は私みたいに手出しすれば痛い目を見ることを予期します。それを回避しようとします。
 彼らは傷つきたくないのです。この場合の「傷つく」というのは掠り傷程度ではすみません。掠り傷で済むような問題なら、それはまだ「いじめ」まで発展していないのです。「いじめ」の状況が固着してしまった後では、心理的であれ大怪我を見ずには干渉することはできなくなります。いったい誰が、自分が大怪我を負うことを望むでしょうか。また、誰かに「おまえが怪我してこい」と強要できるでしょうか。
 不幸なめぐり合わせで「いじめ」と同居することを強いられた「傍観者」は、常に「加害」に加担させられることを恐れ、「被害」に巻き込まれることを恐れ、更には「傍観者も『消極的な加害者』である」という言葉で重い罪悪感を負わされ、巨大なストレスと対峙させられているのです。

 夢見がちな人は言います。
 「その場に居たなら助けろ」
 「できることをしろ」
 「状況を放置するな」
 と。
 そう呼びかける相手に、期待に応えるだけの力が無い、なんてことは想像もしない。
 自分は現場から遠い安全な場所に居て、力の無い子供たちに無茶な要求をする。
 無責任で、残酷です。

 「行動すれば事態は打開する」なんてフィクションです。
 現実には解決しない事の方が多く、解決した事柄の背後には多大な犠牲が転がっています。子供たちをその犠牲としないでください。
 
 「傍観者」はけして冷酷な心無い集団ではありません。彼らもまた状況に葛藤し、救済を必要としているのです。
 無闇に責め、追い詰めないようにお願いします。

 と書いたところで矛盾するようですが、残念ながら「傍観者」が【場の機能】的には「消極的加害者」となってしまうケースもあります。この件に関しては、更に不幸な状況が、そして大人の介入が絡みます。
 長くなりましたので、また稿を改めたいと思います。

※追記
 「いじめの転移」の例とした私の体験ですが、後に当時のログを思いもかけない場所で発見し、追体験に背筋の粟立つ想いをしながらも、最終的には、Aさんと私を攻撃した人達もけして「悪意の塊」などではなく、たまたま過剰に攻撃的になってしまっただけの、どちらかといえば「善き人でありたい」と願って暮らす「普通の人」であることを確認しました。彼らの名誉の為に、ここに記します。
 と、同時に、どうしようもない事態というのは本当に、「不運」によって生じてしまうものだと痛感しました。



2012年07月18日(水)
残念ながら「いじめ」は本当に「あそび」なのです

 この件について、Twitterで自分の体験も絡めてかなりしつこくツイートしてしまったので、せっかくなのでまとめます。ややこしい話なので気長にお付き合いいただけるとありがたいです。やってられっか! て方は、まあ、しょうがないネ☆彡

 最初に、いきなり釣り全開タイトルですが嘘ではありません。「いじめ」は加害者にとって遊戯の一つです。
 例として、私の体験を挙げましょう。私は小中と、まあ、ゴニョゴニョなことがあったのですが、その中に、「階段から突き落とされる」という事件がありました。素晴らしいバランス感覚に恵まれた私は頭から宙返りなどはせず、足から段の角を滑るが如く最下段まで至って骨が丈夫だったおかげで骨折もしませんでしたが衝撃はそれなりに痛かったものです。最下段から見上げた階段の上には、笑っている連中がいました。「そうか、これは彼らにとって娯楽なのか」と、その時得心したものでした。
 娯楽に加えて、おそらくは、「群れの結束を確認する」「群れの中のヒエラルキーを確認する」という儀礼的な意味合いもあったのではないかと、今にして推測いたします。つまり私を突き落とすという一種の肝試しを行うことで、「群れ」の一員であることを示し、同時に群れの中で優位な地位を維持することが、実行者にはできた、そういう意味合いも持つ行為であったとも思われるのです。
 と言いますのも、「いじめ」という行為は通常、多数によって一人に対して行われますが、その多数の間も、けして平和な友人関係ではないようなのです。「ヒエラルキー」がある、というのは先に述べました通り。表面仲良くつるんでいるようでいて、誰がより優位に立つか、劣位に蹴落とされるか、という確執に鎬を削っているように私の目には映りました。つまり、「いじめ」を行う集団というのは、内実かなりストレスフルで、ターゲットを狩るという行為は、娯楽であると同時に、集団にとっての祭祀であり、ストレスの捌け口でもあったのであろう、と考えられるのです。ターゲットにとってはいい迷惑ですぐゎっ。
 しかし、実はこの構図が、「いじめ」を行うやつ=悪、と言い切るのを躊躇わせる要素でもあったりするのです。
 彼らは表面上仲間であるように見えて絆は無く、信頼は無く、実質は優位劣位を競い合う敵手です。
 私を階段から突き落とした実行者は、その「英雄的な行為」によって群れの中で優位に立ったものと思われますが、それができなければ集団の中の階層をずり落ちていく危機感に苛まれていたものとも推測されます。
 そんな風に彼らは自身のヒロイズムを逐一仲間に対して証明することを強いられ、快楽と不安の入り混じった遊戯を延々と続ける地獄に堕ちていたわけです。遊戯は期間満了を迎えるか、何らかの形で劇的終止符を打たれるまで続きます。私の場合は、主に私の強運のおかげで致命的な事態に至らず期間満了を迎えました。まあ、刑事事件的に「傷害」レベルの事はあったんですけど、内々に無い無いにされました。
 では、加害者は悪魔のようなやつらであったか、というと、そうではなく、負のパワーゲームに取り憑かれた只の人間でした。私は小学校の途中で転校し、転校先でこいつらと遭遇したわけですが、うち一人は最初に接触した時にはむしろ友好的で、笑顔がちょいと可愛いやつでした。二度と会いたくはありませんが。
 始まりは、ほんの些細な戯れで、「いじめ」というより「いじり」だったのです。それがエスカレートしてどんどん歯止めが利かなくなってしまうのです。
 Twitterで何度も書いたのですが、加害者と被害者を分けるのは些細なきっかけ、運命のいたずらみたいなもんです。それが無ければ「いじめ」は発生しなかったかもしれない。或いは、加害者が被害者になったかもしれない。被害者が加害者の立場に立っていたかもしれない。
 私は先に、「階段から突き落とされた時に、これが彼らの娯楽であると得心した」と書きましたが、なぜ得心したか。理解できたからですよ。気に食わないやつを階段から突き落とす、確かに面白そうだ。その思いつきに私も同意しました。そういう黒い欲求は私の中にも存在しました。ターゲットが私でなければ、私自身が加害者になったかもしれない。本気でそう思います。

 ですから、私は、加害者を「人の心を持たない化物」のように見做す事に反対します。
 彼らは、たまたま道を踏み誤った「普通の人間(の成れの果て)」にすぎません。

 被害者も、特別に劣った、或いは優れた、もしくは「聖痕を負った」存在ではありません。
 たまたま貧乏くじを引いてしまった、これまた「普通の人間(の成れの果て)」です。

 よって両者を「特別な眼」で見るのは止めていただきたいと、願う所存です。みんな危うい綱渡りをしている不器用で弱い人間で、綱を渡り切る前にしくじるヤツもいる。そういう話なんです。

 思いの外に長くなったので(こんだけ書くのでもうヘロヘロなので)、稿を改めます。
 次回以降は、「保護者や先生、学校関係者だって只の人間だぜ」の予定です。
 可能ならば「じゃ、どうすればいいの?」まで、書けるといいなぁ(願望)