カンラン
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あんまりお腹が痛いので
悪いやつと一度じっくり話をつけるため
大きく開いた口からお腹の中に入っていってみた
どんなに意地悪なすがたかたちのやつかと思えば
見たことのある小さな子が体育座りをして
口をへの字に固めて
指先で地面になにやら落書きをしていた
5本の指で描かれた川がずずずずずっと
のびていくたびに
わたしのお腹が痛むことなんて
まるで考えつきもしないだろうその様子に
わたしは
何も言い出せず
お腹の中にその子を残したまま
いつものように薬をのんでごまかすことにした
おんなじときを過ごしたということ≠おんなじ記憶が残っているということ
笑っているということ≠楽しんでいるということ
ことばを交わすということ≠知りたいと思っているということ
一歩進むということ≠距離が近づくということ
心に残るということ≠覚えるということ
考えずにはいられないということ≠考えさせられるということ
ビーズのブレスレットに
しっかりつかまっていたはずの
からからの葉が
落ちていた
落ちた瞬間を見たのか
落ちているのを見つけたのか
どういうわけか思い出せないでいる
からからの葉
もとのみどりに戻れなくて
鮮やかな落ち葉色にも戻れない
からからの葉
それでも私にとっては
大切なおぼえがきです
どこかでトンネルを見たような気がするんだよ
これを抜ければ一気にひらけた世界へ!という
それまでの道のりをしめくくるには
ちょっと間の抜けた感じのするトンネル
みどりのこんもりゆるやかな山に
掘られた
こっちの道とあっちの道を繋ぐトンネル
まわりにはピンクの花がゆれてる
どこかで見たような
これから見るような
見たら「あっ!」と声を出しちゃいそうな
小さな小さなトンネルのはなし
見かけたら声をかけてください
一緒にトンネルのむこうがわへ
おとなの人に
「いい子だね。」って
ほめられたくて
ほめられたくて
うずうずしている
あの
おさえこんでも
おさえこんでも
溢れ出るような
染み出すような
こどもの
どぎつい
生命力
生命感が
とてつもなく
いやなとき
卑しいと感じてしまう私は
どうしたら
私に欠けているものは取り返しのつくものなのでしょうか
2002年05月25日(土) |
5月25日の過ごし方 |
まだ大丈夫,大丈夫・・・ と思っていた奈良美智展がとうとう終盤に入ってきたので
午前中にもぞもぞと布団から抜け出して 現代美術館まで行ってきました。
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普段路面電車にしか乗らない私は たまにバスを利用すると すごくどきどきします。
どこで降りたらいいのかもわからない状態のくせに 一番後ろの席に乗り込んでしまいました。
よりによって買い物袋をたくさん下げたおばちゃん2人が 出口への道に蓋をするかのように座ってしまいました。
あー。 どうしよう。
次で降りるべきなんだろうなぁ,と思ったところで おばちゃんたちのおしゃべりはのりのり。
あー。 次こそ降りよう。
電車では 「お降りの電停が近づきましたらお早めに出口にお越し下さい。」 なのに,
バスのアナウンスでは 「バスが完全に停車するまで席を離れないで下さい。」 って言ってる。
でもここに閉じこもっていては降りれそうにない。
ということで走行中の不安定な車内で おばちゃんに一度席を立ってもらって抜け出しました。
ふらふらしてましたね,ごめんなさい。
ということでバス停を一つ歩いて戻って 山の上の美術館に向かいました。
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私はあんまり お人形さんだとか ぬいぐるみだとか 女の子が「きゃぁ,かわいいー!」って 声をあげるようなかわいらしいものが好きじゃない。
昔っから。
だからうちにもそんなものは転がってたためしがない。
けど奈良さんの描く女の子は 見てるとちょっと切なくなる。
「ほんとはさみしいんでしょ?」 って言われてるような気がする。
見透かされている感じ。
鋭い目にぎくりとさせられて, 淡くてやさしい色彩にほっとさせられる。
矛盾。
弱いところを人前にさらすのがこわい私。
ときにきつい顔してんだろうなぁ,って 自己嫌悪に入ってしまうけど, それも自分でいいじゃない,って 絵の中の女の子に ぽんっと言われるような そんな気がします。
『Fountain of Sorrow』 しずかに流れ落ちるなみだの噴水。 館内がしぃんと静まった瞬間に ぽちゃん・・・ぽちゃん・・・と ひかえめに響く水の音にしばらく聞き入った。
常設展も見てから美術館をあとにする。
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吹く風でかたちを変化させる大きなオブジェの前で ちょっと休憩。
美術館の中を歩いた後ってなんでこんなに疲れちゃうんだろ。 距離的には大したことないはずなのに。
そんなことをぼけっと考えていたら 隣のベンチに座っていたおじさんが ゴルフクラブを手にオブジェのそばへ。
背伸びして ゴルフクラブを上に高くのばして オブジェを動かそうとしてる。
風だけじゃなく おじさんの力をも借りたオブジェは おじさんがいなくなった後も くるくるくるくる そのプロペラ状の翼をまわしていました。
他の人がいともかんたんそうにやっていること, 自分ができないことに気付いて ショックを受けて 信じられなくて 悔しいおもいをしたこと, ありますか?
そのうち思い出せる一番古いおはなし。
わたし,どんくさい子でした。 できないことだらけでしたし,今もそうです。
さかあがり
二重とび
のぼり棒
などなど
それは数え出したらきりがないぐらい。
それでは,一番古い話をします。
幼稚園の頃のことです。
お遊戯のときにひとりだけスキップができませんでした。
みんな何も考えてなさそうに自然に飛び跳ねまわるあの光景。
うらやましいのとかなしいのと いろんな気持ちがぐるぐる混じりあった状態で見てました。
わたしがやると, ツーステップなりそこないみたいになってしまうのでした。
先生から報告を受けたお母さんは 笑い泣きしながら 夕方のリビングを軽快にぐるぐるスキップしてくれました。
後について行くんだけど,どうしても同じようにできない。 それに変に力むもんだから,疲れて疲れて持続しない。
少し練習をしては, ソファの上で甲羅に閉じこもった亀のようにまるまって・・・ というのをしばらく繰り返していました。
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スキップ・・・ 最近してないけど,できるかな。
ところで誰が生み出して, お遊戯のスタンダードに立ち上げたんでしょ。
そして,できない子ってやっぱりめずらしいんですかね?
誰にも気付かれない癖ってありますか?
外面的なことではない,いたって内面的なこと。
私の癖は,人に話しかけることです。
話の内容はいたって簡単なことです。
「○○さん,××だね。」ぐらいのものです。
ひとことだけ。
風が真っ正面から吹き付けてきたとき,
ベッドの上に寝転がっているとき,
散歩してるとき,
本を読み終わったとき,
気付けばぼそっと頭の中で話しかけてます。
相手は,もういない人の場合が多いです。
いつも同じ人なわけでもなく,
誰に話しかけるかはそのときにならないとわかりません。
多分小さな頃はお母さんに話しかけてたんだと思う。
それがいつの間にやら別の人に代わっていったんでしょう。
そしてこれからもきっと代わっていく。
そのときにならないとわからないけどね。
きらいなもの まめ。
このわたしのきらいな食べ物については, 職場,お食事会,飲み会,などなど いろんなところで深く追究されます。
前回の歓送迎会でも グラタン皿の中にまんべんなく散りばめられたまめを慎重によけてるところを 上司に見つけられてしまい, そこからまめ問答が始まりました。
凝り性の方や, 熱い方につかまった場合, 世の中に存在するありとあらゆるまめについて 食べれるか食べれないか,えんえん質問攻めにあいます。
そうです。 すべてのまめがきらいなわけじゃないから きっとややこしい話になるんです。
すきなまめ:えだまめ,納豆,ひじきに入ってる大豆,あずき。
きらいなまめ:グリンピース,甘くて大きなまめ,その他大勢。
こんなだからぶぅぶぅ言われるんでしょう。 「なんで?同じまめなのに。」とかそんな風に。
けど最近知ったんですが, えだまめって,大豆らしいです。 私にとっては結構な衝撃でした。 まったくの別まめだと信じてましたから。
・・・これは常識なんでしょうか? ううん,きっと知らない人も多いはず・・・?
ということで まとめてみると・・・ 「大豆とあずき以外のまめがきらい。」なんでしょう。
ただし,もしも, えだまめがさやからきれいに取り出されて つぶつぶてかてかのまめ状態でお皿に盛られていたとしたら, きっと私は手をつけません。
まめつぶ嫌いなんですかね,私。
そうは言っても 噛み応えがあるものが好きな私は, あんこに関しては こしあんよりもつぶあんが好きです。
ね。 あたまこんがらがってくるでしょ。
ぷぅぅっと吹けば砕け散ってしまいそうなほど
繊細な張りをみせるこの世界に
永遠に混ざり合うことのない
マーブル模様の混沌に
日々不安の胞子が生まれるたびに
薄らいでいく空気の中に
「新しいいのちを送り込みたい」
そういう気持ちってすごいなと
まわりでいのちが増えてく度に思ってしまう
けど
その10秒後に必ず
そういうことってきっと
頭で考えるんじゃなくて本能の仕業なんだろうな
と思い直す
私にはまだよくわからないもの
人から
「ちょっと待って。」と言われた。
歩いているときに
後ろから
耳に入ってきた声。
ながいことひとり歩きしすぎたかな。
ときに誰かと歩くと
足と心が
ぎくしゃくする。
ちょうど
右手と右足が同時に前に出るような
そんな不自然な感じで。
雨雲のあいだをぬって街ぶらぶら。
職場も目と鼻の先だけれど, 平日はうろうろしたい気持ちは不思議と沸き起こらない。
最近またお香熱。 蜜柑と林檎のお香を買う。
ストレスがたまってるのか 欲求不満なのか はたまた気分がよろしいのか 自分でもよくわからないままに あちこちちょこちょこ立ち寄っては買い物した。
最近茶色が好き。 結構苦手な色だったけれど, 髪切ってからかなぁ・・・好きになった。 鏡の前で自分にあててみても 以前感じたような違和感がなくなった。
帰り際,空でひとやすみ。 アイス・ヘーゼルナッツ・オ・レを頼んだら 小さなお皿に クッキーとラムネとジェリービーンズがついてきた。 嬉しい。
どれぐらいぶりだろ, 口に入れた瞬間固くて しばらくころころしてるとやわらかくなってくる。 最後に奥歯でぐにぐに噛んだら 歯にくっつくあの感じ。
最後に赤いのをひとつ口にそっと入れて 左のほっぺの内側に入れたまま お会計してごちそうさまでしたと言って 外に出たら すっかり夕方の空に変わってた。
電車の中から見た平和大通りの空が ちょうど ジェリービーンズに染められた 私の口と同じような色だった。
おかしの家の話はとっても残酷
私の小さなかくれがは
電車に乗って5駅さき
いやなことがあっても
やぁらかいスポンジにくるまれば
忘れることができた
何もかも
一瞬だけ
すぐに飛んでいけた
走っていけた
その場所は
もうないんだけどね
ぺたっぺたっぺたっと
一歩ずつ
大きな音をたてながら
うっすらみずたまりができた
コンクリートの歩道を
歩く
ときどきリズムを変えながら
歩く
私は足のうらぜんぶで
あちこちを歩いていたい
おきにいりの場所も
はじめての場所も
すてきな音にさそわれるように
すてきなにおいに引き寄せられるように
深いこと考えず
行ってみよう
自分の中で連呼していることばがあるのなら
それは
自分がそうしたいって願ってるってことなんだよ
と
自分がわからなくなってきた私に
友達が教えてくれた
自分の中で生まれることばを
いつもいつも
ぽこぽこ浮かんでは消えるひとりごととして
ほったらかしにしていた私は
少し
追い風を背中に感じたような気がした
ついさっきまで暖かく背中を刺していた陽の光が
友達と別れた途端に
陰り始めるかえりみち
早く帰らなきゃ
早く帰らなきゃ
早く
早く
家へと急ぐかえりみちは
いつもより遠く
いつもより長い
ランドセルの金具がごとっごとっと重たい音をたてる
ぼんやり暗くて静まり返った家の中
ほんのちょっと前まで夕飯の支度をしていたような
お母さんのいないキッチン
ポーちゃんまでだらりとしていて
私のひとりごとのような訴えかけにも耳を心持ち動かすだけ
だんだんと暗くなる窓からの光を
少しでも長く浴びようと
カーテンと窓との間に入り込んでいるうちに
カーテンは私の涙を拭うタオルハンカチになる
涙の染みがこんなに大きくなってるよ
早く帰って来てよ
そんな不安な夕方を呼び覚ます夕方が
いまでも時々あります
きれいな色した落ち葉を見ると
思い浮かぶ人がいる
今日のような雨降りの日にはより一層
2002年05月09日(木) |
思いの先,もう一歩先 |
明け方に友達からメールが届きました。 長い長いメール。
7回に分けて送られてきたうちの何度かは目が覚めたような気がします。
相談をもちかけられた当初から 私には暗い雲がむくむく大きくなっていくような そんなあまりよくない予感がしていました。
だから気持ちの準備みたいなのはあって。
愚痴をこぼしていること 私が眠っているはずの時間に長いメールを送ること
そんなことを彼女は気にしているようでした。
でも でも
言葉にしなかった気持ちや思いは消えていくんだよ
いつの間にか雲が流れていくようにさぁぁっとなくなるときもあれば 消化不良を起こしたときのようにいつまでもすっきりしないときもある
そう思うよ
だから言葉にする力があるのなら 気持ちがそういう方向に傾いたのなら それがそのときなんだと思う
少なくとも私は嫌な気分になんてちっともなってないよ
私はよぅく知ってる
おしゃべりだからね 頭の中での話だけど
あなたの行く手のここそこに
転がる石が見えたなら
それは決して
あなたを転ばせるためではなくて
あなたに何か伝えるべきことがあるんだよ
頭にふっと一瞬浮かんだ
そのものを
そのことを
ひょいっと飛び越えるのは自由だけれど
まっすぐ見つめ直すのも悪くない
だって時間はたっぷりあるんだから
ドーナツ屋さんでもらえるポイントカード 10点ためると景品がもらえるぶん
それをためてる親子が近くの席に座ってて 点数足りないから お母さんがお持ち帰り用にドーナツ買って それでもあと2点足りなくて
近くで食事してた私は もぞもぞしてきて 私の分のカード2枚をあげました
それでもたりなかったらどうしようかと ひとり離れた席ではらはらしていると
無事景品を手に入れることができた親子は すごく嬉しそうで 帰り際に女の子が 私のそばで恥ずかしそうににこにこしながら ありがとうって言ってくれた 何度も
私もなんだか気恥ずかしくて 笑顔をかえしたつもりではあるけど
もっとうまく接することができたらと 不器用さが顔を熱くした
2002年05月06日(月) |
目深に被った帽子で過ごす連休最終日 |
古着屋さんに一歩足を踏み入れた途端に
映画が観たくなって
どうしても観たくなって
なんとなく時間も絶対ちょうどいいような気までしてきて
そのままくるりと店を出て
映画館のある町まで電車に乗るべく
早歩きで
電停まで
人をぐんぐん追い抜いて
祭りの通り過ぎた屋台の前を
小走り
横断歩道渡って
電車に乗って
信号ひっかかれば人知れずそわそわして
映画館にたどり着いた
映画館にたどり着いてみれば
ほんとに上映時間にぴったりで
欲望
衝動
直感
その他もろもろのすごさに
思わず口元が
にっとなる
帽子の下
お茶とビスコッティを紙袋に入れてぶらぶらと海沿いを散歩。
お昼過ぎ。
思ったより波の強い海と生い茂る緑との間に敷かれた遊歩道は
陸のかたちそのまんまに曲がりくねっていて
目も心も退屈しない。
うちの近くの
四角に切り取られたような漁港とは違って,
あの先を曲がるとどんな景色が広がっているんだろう,と
何度も何度もわくわくした。
だからだと思う。
今日感じた新鮮と心地よさ。
きれいに透きとおった白やオレンジの貝殻,巻貝。
左のポケットの中でしゃらしゃらしゃらしゃら。
いい音がする。
電車乗り継いででも絶対また歩きにこよう。
なんだかんだで,もう五月。 鯉の季節です。
私の地元広島では,職場,街なか,電車の中, いろんなところでカープ関連のものを見かけるようになりました。
・・・うち,清掃後の男子トイレ前に敷かれるカープのタオルで作った足拭きはどうかと思う今日この頃です。
カープ,カープという響きで思いつくもの。
・袋づめのいちごのかき氷 ・うどん ・7回,空から降るよだれ,つば,その他もろもろ ・友達夫婦のけんか ・応援歌
この最後に挙げた応援歌なんですが, これ,弟のかえうたです。
小さい頃の弟が,きっとTVか何かで耳にしたんでしょうね。 でも悲しいことに歌詞がよくわからなかったらしく, サビの部分だけなのですが,しょっちゅう歌ってました。
かぁーぷっ,かぁーぷっ,かぁーぷっののしのっ
ひっろしまやまかぁぁぷぅぅぅぅ・・・
こんな具合で。
当時,「ののしの」と「ひろしまやま」について尋ねてみたのですが, そのことが彼のご機嫌を損ねてしまうことから深く追及できないまま, この謎は,今では年に一度か二度,あらわれるしこりのようなものになっています。
ただその時,弟がこだわっていたのは, 「ののしの」ではなく 「かーぷの,のしの」である,というポイントでした。 これはかなり重要なようでした。
一緒に歌っていても, 私の歌い方だとあたかも「ののしの」という独立した一語に聞こえてしまうそうで, その点について何度も何度も注意をうけたのでした。 「のしの」・・・。
そんな弟も,もう大学生してます。
当の本人は, 「ののしの」(正しくは「のしの」?)と「ひろしまやま」についての記憶やこだわりは どこかで落っことしてきてしまったようです。 あああ,もったいないことしました。 つかみあいのけんかのひとつやふたつ覚悟して追及しとけばよかった。
以上,エスのカープばなしでした。
ゆうやけぞらの
くものうえ
むれをはなれたひつじが
ねころんでる
きょうも一とうで
あしたもきっと一とうで
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