また帰って来たロンドン日記
(めいぐわんしー台湾日記)
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2004年11月21日(日) |
【映画】盲井(Blind Shaft)中国第6世代の映画 |
うちの学校の「現代中国映画演劇」コースで出てきた映画。 監督は第六世代の監督 李楊(リー・ヤン)。
この映画は、今まで見たどの中国映画とも違う印象を与える映画。 学校の先生いわく、「自転車泥棒」に始まるニュー・リアリズムNew Realismの 流れを汲むという話だったが、なるほどなるほど。 最後にカメラが上を向き、煙突を映し出すシーンで終わるところなど、 なるほどそのものといった終わり方で、おれは好きだ。
この映画を解説したページとしては以下がある。 http://www.kanlema.com/inpaku/chinamovie/chinamovie04.html なかなかよくまとまっていて、いい解説がしてある。 (「詐欺師が最後に自殺してしまう」という記述があるが、 おれが中国語字幕つきで見た限り、これは事実と違うと思う)
学校でもらった見るべき映画の一覧の中にこの映画を見つけ、 インターネットで検索してみると、なかなか関連の情報がない。 上記のページを発見して、この人の文章を読んではじめて、 この映画をすごく見てみたいと思った。 果たして、見てみると素晴らしい映画であった。
この映画、張芸謀の「英雄(HERO)」を破って、 ベルリン映画祭の銀熊賞を獲得している。 おれは「英雄」も好きだが、やはりこの「盲井」にはかなわないと思う。
中国ではもちろん、映画審査委員会の検閲を通ることができず上映禁止。 うちの先生(中国人)いわく 「この手の映画は、中国では絶対に検閲を通ることはあり得ない」とのこと。 ただ「(映画で描かれているような)こんなことは中国では起こりえない」と言う共産党と、 監督が表現しようとしていることは、あまりにも次元が違いすぎる。
中国政府が「存在すら否定」しているらしい売春宿が出てきたり、 「社会主義好」と言う歌を「資本主義好」にしてバーで替え歌にする場面など、 表面的に理解されている中国、もしくは共産党が正当、 またはこうあるべきとしている中国とはかなり温度差がある。 そのこと自体が感覚的に珍しいが、 逆に言うと、中国だろうとどこだろうとどこでも起こりうる、 人間や社会の矛盾や葛藤をありありと描き出している、とも言えるかも知れない。 残念なことにこの映画は日本でも上映はされていない様子。 ただ、この手の映画が、たとえ検閲を通らないにせよ、 中国で増えていくことをとめることはできないだろうと思う。
この映画は、先生からDVDを借りて、繁体字中国語字幕つきで家で見た。 字幕は「繁体字中国語」「簡体字中国語」「英語」の3つから選べる。 それにしても、こんな訛りの強い中国語、しかもスラングなのか何なのか、 英語の「fucking」よろしくことばの途中途中に 「鶏巴(じーばー)」ということばがほとんどすべてのセリフにはいる。 「鶏巴」というのはもともとは「おちんちん、ちんこ」と言う意味で、 日本語に訳すと「くそったれ」とか「くそ〜〜」と言う風になるのだろう。
しかも本当に訛りが強くて、それがなおさら現実感を感じさせる。 つまりはリアリズムを感じさせるのだ。 字幕を見ても、「何」に当たる「甚麼(シェンマ)」という漢字が出てこず、 口偏に校舎の舎と言う字〔ロ舎〕が使われていて、 最初は広東語に訳されたの字幕かと思ってしまったぐらいだった。 ということで、字幕なしでは到底理解できない中国語だったが、 本当にいい映画だった。 こういう日本語にまだ翻訳されていない映画を見る時に、 ああ、中国語を勉強してよかったなと思う。 近いうちに日本語翻訳版が出ることを祈るばかりだ。 中国映画ファンの皆さん、機会があったら是非とも見てほしい。
2004年11月20日(土) |
NLPコンフェレンス |
今日はNLPコンフェレンス(The NLP Conference)に参加してきた。 今週末二日間の日程で、ロンドンはべーカーストリートBaker Street近く、 リージェンツ・パークRegent's Park内の リージェンツ・コレッジRegent's Collegeを会場に開催されている。
俺はといえば、申し込みが遅かったため土曜日の日中は満席で参加できず、 今日は夜の部のみの参加となった。
今日受けたのはShelle Rose Charvetさんの 「魅力的なプレゼンテーションIrresistible Presentation」というもの。 プレゼンターはカナダ人で久しぶりに生の北米英語を聞いた。
講演の途中3回程、ほかの参加者と組んで実習する場面があったが となりに座ったイギリス人と組んでみると、 日本に十年住んでいたらしく、果たしておくさんも日本人だった。
この実習は「タイムライン」についてのものであったが、 「過去、現在そして未来に至る時間軸が、 (西洋では)自分から向かって左から右に延びている」
過去 →→ 現在 →→ 未来 左 真ん中 右
と言う話を元にして、その時間軸を自分の手を使って表現する時に、 自分ではなく相手の位置に合わせて表現する --つまり、自分と反対に表現することで、 相手にはっきりとしたイメージを分かりやすくもってもらえるという話だった。 つまり、問題点を解決する場合には問題点を「過去の位置」に、 そして、目標を「未来の位置」において説明し、 自分が人の前で説明する時は、聞いている人から見て 左から、過去・現在・未来となるように説明するということ。
過去 →→ 現在 →→ 未来 左 真ん中 右 問題 → 目標・解決 彼女によると、アメリカで行われた「強い印象を与える講演者の特徴について」 の調査で、聴いている人が指摘した特徴で共通してでてきたものとして、
楽観主義的 Optimism 自信 Confidence 中心にいること Dominance Proactive 意気込み Enthusiasm 暖かさ Warmth 十分であること Competence 支えになること Supportiveness
の8つを挙げていた。Proactiveについては 今の時点ではっきり意味がわからないために訳していない。 彼女いわく、アメリカ人はproactiveなのが好きな人々だから、 調査はそれを反映しているというようなことを付け加えていた。
もちろん、これは西洋文化の中でのことであって、 日本にそのまま輸入できるものではないが、 「楽観主義」というのには、少しうなってしまった。 俺にもっとも足りないもののように思えたからだ。
さて、二人目に組んだ人は、後ろに座っていた典型的な おしゃべりなイギリス人男性で、 時間軸について説明し始めたはいいのだが、 (彼は何回も時間軸に関する講習を受けてきたといった) やはりこっちが言おうとしていることを聴かない(笑 こっちが話していても、最後までこっちの話を聴かず、 俺のことばの上に彼のことばをかぶせてくる。(苦笑
どうして多くのイギリス人が、英語が母国語でない人と話をしている時、 相手のことばを強引に遮ってまで自分の言おうとすることを言うのか、 これはいつまで経っても謎のままだ。 「積極的傾聴positive listening」というNLPの基本スキルを 学んでいる人ならなおさらそういうことをしてもらっては困る、、、 と思うが、ま、のんびりやっていこうか。
今日会った人をもってイギリス人の代表とせしめることはできないし、 基本的に、文化の中での「傾聴」と言うものに対する位置が違いすぎるので これから多くの人を観察して、調べていくとしよう。
そうだ、今後機会を見つけて、この手のイギリス人に会った時には直接聞いてみよう。 そういうことができるのもNLPならではだ。 きっと彼らには彼らの行動を支えている信念があるのだろうし、 そうでもして理解しないことには、 こっち(俺)が尊厳を大事にされていないと感じ、不愉快になるばかりだ。 理由がわからない俺は納得のしようもないが、いまのところは 「英語が母国語の人の不自由さ」ぐらいに思っている。
明日は、James Lawley, Penny Tompkins両氏による 「自己欺瞞と自己否定Self-Deception, Self-Dilusion & Self-Denial」 John McWhirter氏による 「モデリング・チェンジModeling Change」 の二つのプログラムに参加予定。 両方ともプラクティショナー以上の人向けの内容で、 NLPを通じた交流ができることを望んでいるので どんな人々が来ているのか、本当はすごく期待している。
ありのままの自分であろうとして、人と衝突してしまうことがある。 これをどう処理するかは、俺が子供の時からの課題だった。 「ありのままいるとはどういうことかも含めて」。
今日は久しぶりに、そういうことがあった。 イギリス人二人、中国系オーストリア人、イタリア人と俺で パブで話をしていたのだが、おれとマイケル(中華系オーストリア人)が 時々中国語で話をしているのが、イタリア人の彼は気に入らなかったらしい。
簡単にいってしまうと、彼の言い分は、 自分たちはイギリスにいるのだから英語で話をするのが当然で、 自分がわからないことばで話をされるのは礼儀がないということらしい。 「彼は話から除外されている」というのだ。
「俺」は多分、多言語環境になれているし、 外国語で行われるほとんどの会話は、その人数が三人を超えた場合、 そのうちの一人が特別俺に気を使うか、 おおむね共有されるトピックを話していない限り、 話から「除外されている」と感じることは多いし、それに慣れもした。
個人的にそのイタリア人に対して、 そう感じさせたことを残念に思うことはあっても、 そこでイタリア人に「彼が客観的に除外されており」 だから「英語で話すべきだ」と言われる筋合いはない、 と言うのが俺の言い分だ。
こんなことは、放っておけばいいのだが、 どうしてか、こういうことがずっと気になる。
特に、それが「客観的な事実」であるようにいわれた時に それは、多分俺の何かと反発する。
そういうことを解決するためにも、 俺はNLP(神経言語プログラミング)を学んできたし、 また学び続けてもいる。
NLP的に言えば、それが客観的事実として表現されていようが、 俺のように「主観的」なものであるというふうに思おうが、 その人の「信念・価値観」が表現されているという点において、 その話が正当かどうかという次元の話ではなくなる。
ただ、どうして引っ掛かるのかというと、 そこで自分の「尊厳」が脅かされていると感じる自分がおり、 相手と「ラポール」(信頼関係)をつくる以前に、相手の言動に対し いやおうなく「反応」してしまう自分がいるということだ。
こういう時に、「いや俺が悪かった」と謝ってしまうのは 非常に後味が悪いものだということを俺は身をもって知っている。 それは結果として自分を卑下してしまったと感じることになるからだ。 かといって、以前の俺のように、「非生産的な議論」(笑)を展開するのも すっきりとした関係や気分を得るには、 ほとんど意味がないということもよくわかっている。 それは自分が傲慢で尊大だと感じることになり、 同時に自己評価が下がってしまうことにもなるからだ。
少し話は飛ぶ。直接今回のことには関係がないが、 想い出したので、ここに書いておくことにしよう。 先日クラスメイト(こいつはヨーロッパ人だが)が 道路を横断する際に、自転車に乗っていた人に 手で突き倒されて鉄柱にぶつかりけがをした。 さらに不幸なことに、こいつは転倒した際に自転車の人につばを吐きかけられた。 大学の近くだったので、彼から電話を受けた俺は、 動けないでうずくまっている彼を病院まで運んだ。
彼は一時通りすぎたが、引き返してきた自転車の男に、 不注意だった自分も悪いが、突き倒してつばを吐く必要があるのかと問い、 彼の自転車を蹴ってしまったという。 彼は怒りのあまりに自分が自転車を蹴ってしまったことを 非常に情けなく思っていると言った。
俺は 「やっぱり、こんなに道徳の低い国には永くは住みたくない」 と思った。
こういう風に嫌なことを感じるのは、 これがイギリスだから起こりうることなのだろうか? それは一つの原因ではある。 こういうことは、うちのクラスメートが言うように 「どこでも起こりうる」ことではあるが、 礼儀など人間関係を最低限円滑にすることに関して 文化的に非常に高い日本で育ち、それに重きを置いている人間にとっては、 日常的に不愉快なことが起こる確率は、やはり日本よりは確実に高い。 自分の道徳観や価値観からすると、ロンドンに住む人々の言動は往々にして 俺に「堪え難い」と感じさせるに十分ではある。
ただ、今回のイタリア人の発言のようなことで、 自分が、自分の尊厳を守るためとはいえ 「望まない反応」をしてしまうようなことは、日本でも起こりうる。 そして、それは自分自身の心の余裕や、 日常生活でどれだけ自分が自分を大事にできているのかということと 大きく関わると俺は思う。
ここにおもしろい記述を発見した。 「中国二つの悲劇-アヘン戦争と太平天国」と言う本の中にある記述で、 おおまかに言えば、中国が列強に開国を迫られ、 アヘン戦争を経ていかに変化していったかを述べている。 ちょっと長いが、抜粋してみる。
「戦争に敗れ賠償金を支払う。その負担が重税となって下層に転嫁される。 戦争に敗れ輸入品が増加する。自分の作るものが売れなくなって他人の品を買わされる。 なるほどこれが事実ならば、外圧である。しかし負担に堪えられるならば、 購買力を十分持つならば、これは圧力にならない。 圧力が圧力として受け取られるには心理的にも外国勢力と国内勢力との因果関係に納得されるような事情が必要である。 しかもそれは二重の作業を経て歴史となってくる。 すなわちアヘン戦争後の中国人が、国内の諸困難を先ず、外国の打撃のゆえに 帰する被害心理が一つと、さらに今日からもその因果が妥当だとする 観察心理が一つである。いずれも事実の取り上げ方と解釈の仕方に違いはないが、 重点の置き所によって、その問題の展開に相違を生じるようである。 果たして外圧は内部矛盾を激化して内圧をもたらした もっとも大きな条件と考えてよいであろうか」
そのあと中略して、中国の手工業がイギリスの機械製品にいつまでも 頑強に抵抗した事実をもって、外圧の打撃が当時の人士や後世の歴史家にとっても、 極めて心理的な作用をもったに過ぎなかったということになるだろう、と。
外圧や被害心理、頑強な抵抗ということば。 負担に堪えられるなら、購買力を十分に持つならという表現を ちょっと違うことばに置き換えてみると、 自分と外部、自分とほかの日本人、自分と西洋人、自分と中国人 そして、日本と外国、日本と西洋、日本と中国と各層のレベルが 自分の中で大きなつながりを持ってることに改めて気づかされ、 非常に示唆に富んだ内容だなと思った。
2004年11月17日(水) |
とっても食べたい日本の食べ物 |
最近フラットメイトの影響もあって、自炊しております。 この前は鳥の唐揚げに初挑戦。 ニンニクがぴりりと効いたおいしいのができました。 しかもついでに豚カツを揚げて、カボチャの煮付けも作りました。
今日は残った豚カツを「カツとじ」にしてみた。 これも初挑戦ながら、まぁまぁの出来栄え。 プラス、十代によく作っていた上海料理をうろ覚えで作ってみました。 この料理は卵と枝豆、トマトをさっと炒め合わせる夏の料理。 赤、緑、黄色という彩りも鮮やかで美しい料理です。 今日は枝豆がないので、ドワーフビーンズで代用。 どうしても卵とトマトが食べたかったのです。 なかなかよくできました。
ご飯はイタリア産のあきたこまちに、国産無農薬玄米と 十六穀米をブレンドして鍋で炊いております。
しかししかし、ちゃんと料理をすればするほどに どうしても食べたいものが、、、。 今日学校からの帰りに、最寄りの地下鉄駅からうちの部屋に戻る途中 ここ何週間かずっと食べたいと思っていたもののにおいがした!!
それは、実はカップヌードルです!! そんなもの食べなくても、、、と思うのだけど、 どうしても食べたい。 中心部に出て、日系のお店に買いに行けばいいのに、 それも無精で行かないんですね。
で、やっぱりカップヌードルが食べたいです。 どん兵衛(きつね)もたべたい、、、。
はいはいホームシックです。たまになります。 「日本の食べ物が恋しい、、、」っていうこともあるんだけど、 なんだろう、今回はちがうなぁ。 もちろん日本食が食べれるにこしたことはありません。
ただ今回はちがう。 なんだろう、なんかことば的に安心したいっていうか、 英語につかれたんですね、きっと。
なんなんだろう、この多言語的環境が気持ちいいと思うこともあるけど、 なんか、とてつもなく面倒くさく感じることもあるのですよ。 「あーめんどくせー、なにいってんのかわかんないよー」って。(笑
うーん、やっぱりいろいろ考えるけど、 将来的な環境としては、 やっぱり英語や中国語や別の言語が周囲にあってもいいけど、 基本的には日本語を中心とした環境、生活環境が望ましいかな。 日本語が基本にあれば、ほかに何語を話してもいい。 ただ、絶対に日本語が中心。 それは何人にも侵されたくない!! って、そんな感じかな。
気がつくと、去年よりストレスは少ないものの、 同時にあまり熱心でない授業とかも目立ち、 お、いかんいかんと気を引き締めるのでした。
とにかく、あと7、8ヶ月頑張れば待望の学位が取れるわけで、 もう、そういうイメージ、卒業式のイメージに 思いをはせるしかないね。もう少しじゃん?
ちょっと近未来旅行。
イギリスで大学を卒業するのは、 思ったよりもずいぶんと大変だったけど、 いやぁ、よくやったよなぁ。 そう思ってみれば、なんちゃってながら英語もずいぶん上達した。 友達もいろんな国にまたがり、ずいぶん増えた。
英語で本を読むのも、日本語で読むほどリラックスしないけど、 内容が興味のあるものだったら読めるようになったなぁ。 英語のテレビや映画も文字放送の英語字幕があれば だいたいわかるようになったなぁ。 っていうか、あの文字放送字幕で見る映画がすごく楽しい。
正直な話し、中国語科だと楽に卒業できると思ってたけど、 いやぁ、なかなかそうでもなかったなぁ。 「多言語環境」が好きだからとか、 西洋の東洋理解ひいては日本理解をも了解できるとか、 いろいろ言って、イギリスで中国語をやり始めたけど、 やっぱ、大変だったなぁ(笑
もちろん、他文化、多言語に対する柔軟性は高まったよなぁ。 フランスにも8ヶ月住んだりして、今から思えば、 ほんとよくやったよなぁ。 中国と考え方からなにから文化的に全く違うイギリスで 中国語を英語に翻訳するなんて、本当におもしろい体験だった。
こんな感じかな。 ま、これだけ大きなことで、 自分で何かを決めてそれを成し遂げて、しかも資格がついてくる っていうことははじめてだなぁ。 あ、今年NLPプラクティショナーの資格をとったのもそうだけど、 それと比べても、期間もぜんぜん長いし、海外生活だし。
とにかく卒業したら、ものすごくすっきりとするんだろう。 ものすごい達成感が生まれるだろう。 そして、その達成感は、 俺自身が将来にもっともっと多くのことを達成していくための 大きな第一歩になるのだろうな。
今回のホームシックは、俺にそんなことを気づかせるために 起こったのかも知れない。
2004年11月10日(水) |
【映画】 パルプ・フィクション |
【Allcinema Onlineより】
パルプ・フィクション (1994) PULP FICTION メディア 映画 上映時間 154 分 製作国 アメリカ 公開情報 松竹富士 初公開年月 1994/09 ジャンル アクション/犯罪
監督: クエンティン・タランティーノ Quentin Tarantino 製作: ローレンス・ベンダー Lawrence Bender 製作総指揮: ダニー・デヴィート Danny DeVito マイケル・シャンバーグ Michael Shamberg ステイシー・シェア Stacey Sher 原案: クエンティン・タランティーノ Quentin Tarantino ロジャー・エイヴァリー Roger Avary 脚本: クエンティン・タランティーノ Quentin Tarantino 撮影: アンジェイ・セクラ Andrzej Sekula 編集: サリー・メンケ Sally Menke 出演: ジョン・トラヴォルタ John Travolta ビンセント サミュエル・L・ジャクソン Samuel L. Jackson ジュールス ユマ・サーマン Uma Thurman ミア ハーヴェイ・カイテル Harvey Keitel ザ・ウルフ ティム・ロス Tim Roth パンプキン アマンダ・プラマー Amanda Plummer ハニー・バニー マリア・デ・メディロス Maria de Medeiros ファビアン ヴィング・レームズ Ving Rhames マーセルス エリック・ストルツ Eric Stoltz ロザンナ・アークエット Rosanna Arquette クリストファー・ウォーケン Christopher Walken クエンティン・タランティーノ Quentin Tarantino スティーヴ・ブシェミ Steve Buscemi ブルース・ウィリス Bruce Willis ブッチ
【Allcinema Onlineの解説】 監督デビュー作「レザボアドッグス」でも時制を越えた展開を見せたQ・タランティーノが、さらに大きく時制を交錯させて複数のエピソードを繋いだ異色のバイオレンス・アクション。強盗の計画を立てているカップルを導入部に、盗まれたトランクを取り戻そうとする二人組のギャング、ビンセントとジュールス。ボスの情婦と一晩のデートをするハメになるビンセント。ボクシングの八百長試合で金を受け取るボクサーのブッチ。誤って人を殺し血塗れになった車の処理に右往左往するビンセントとジュールス。ギャングのボス、マーセルスを軸としたこれらの物語がラストに向けて収束していく。錯綜する時制の処理は思ったほどのまとまりではないが、スピード感溢れる暴力描写と、与太話で構成されるセリフの数々は充分に面白い。2000年のカンヌ国際映画祭でパルム・ドールに輝いたこの作品で、タランティーノ節は完成された。個性溢れるキャストも大きな魅力だが、実質上の作品の主役ビンセントに扮するトラヴォルタが、それまでのブランクを吹き飛ばす存在感で素晴らしい。
【俺のかんそう】
この映画、今年の春に うちのクラスメートの友達と映画の話をしている時に
「パルプ・フィクションは見たことある?」
って彼が言い出したのがきっかけ。
「いやぁ、名前はよく聞くよね。有名な映画だよね?」
などと返事していたら
「え?? 見たことないの? 絶対見てると思ったよ」
やたらとがっかりした様子(笑)で、そんなにいい映画なのかと問うと
「この映画を見てるかどうかは、一種の『常識』みたいなもんだよ」
と興奮して語り始めたので、なんか妙な気分になった。 だいたいこいつの口から、たかだか映画ごときのことで 「常識common sence」なんてことばが出てくること自体が おかしかったけど、実際この映画を見てしまうと 彼の発したことばのおかしさが、 映画を越えて、どこかしらこっけいでさえある自分の中で 最後にはつながったしたような気がした。
日本に帰った時にレンタルで借りてきてみることにしたのだけど、 なぜか「日本語吹き替え版」以外は貸し出し中で、 久しぶりに、外国映画を日本語吹き替えで見た。
うーん。 なんなんでしょう? まいっかっという感じで借りてきた吹き替え版だったけど、 結果からいうと、これは日本語吹き替え版を見て正解だったと いうほかない。 とにかくサミュエル・L・ジャクソン役の吹き替えがすごくて 一時間ぐらい思考停止状態になっていた。
「ねぇ、この調子でこの映画2時間も続くわけ??」
と、目を白黒させながら聞く俺に、 以前この映画を見たことのある相棒のマキリは そばで料理を作ってくれながら
「そうだねぇ。だから、なんでをわざわざこんな映画見たがるのか、、、」
という感じ。 でもそう言いつつも、この人、 「レザボア・ドッグズ」が大好きで、 昔、ロンドンのレスター・スクエアにある格安映画館 「プリンス・チャールズ・シネマ」にこれを見に つれていかれたことを思い出すよ。 で、彼女は「パルプ・フィクション」はあまり好きではないらしい。 「『レザボア・ドッグズ』とどこが違うの?」っていじめたくなる(笑
さて、パルプ・フィクションだけど 話も佳境に迫る頃、サミュエル・L・ジャクソンの吹き替えが 特に、あの聖書の一節を繰り返すあの調子が、 もう、俺にとってはどうしようもない程気持ち良くなっていた。
「おまえにぴったりのことばがある。 いいか、よく聞いとけよ。 羊がどうのこうの、、、、。(笑 その時、神は言った、どうのこうの(笑」
よく覚えてないんだけど(笑)、そして
「いいかぁ、よーく耳の穴かっぽじって聞いてろよ。」
みたいなことを、実際は言ったかどうかわからないけど、 もう俺の中では、ほとんど、昔の香港映画 「ミスター・ブー アヒルの警備保障」のような 広川太一郎のすごいアドリブばりにおもしろかった。
というのも、海外生活が長く、 日本語の吹き替え版って言うのがすごく久しぶりで、 ものすごく新鮮に感じたんだと思う。 そう考えると、日本に帰った時は、できるだけ、吹き替え版を見よう! 「レザボア・ドッグズ」も吹き替え版で見たらかなりおもしろいかも(笑
あ、そうそう。 で、このサミュエルが、最後に本当に「足を洗って」しまうあたり。 なんかかなりいけてるような気がする。
最後にまじめにひとこと(笑 人はこういう風に、人からみれば意味不明なことをきっかけに 全く変ってしまったりするわけだね。 「変りたい。変りたい。でも変れない」 って言う人が、ある時突然、 急に寡黙になったり、急におしゃべりになったりして、 本当にそれを実行してしまう。
おれは、そうだな。 彼の変化をモデリングしてみようかな。 そういうところが、素朴で、素直でかわいくて、 そして、すごくダサくてかっこいいのかも知れない。
2004年11月09日(火) |
【ほん】 『慟哭』 貫井徳郎 |
このほんは、今年の夏札幌に行った時に、 確か、あれは、小樽築港の元マイカルサティーの一風変った 本屋兼雑貨屋みたいなところで買ったんじゃなかったかな? そうでなければ、琴似のツタヤ書店だったかも知れない。 とにかくあの時は『鋼の錬金術師』にはまってた。 何か、すごくいいよねあの話し。 『等価交換』って言うことばもいい。 そして、何でも自分で決めるんだという主人公エドの雄姿に なんと勇気づけられることか。 「魔方陣グルグル」「彼氏彼女の事情」に次ぐ 俺にとっての大ヒット作です。
さてさて、漫画はおいといて、貫井徳郎の『慟哭』です。 こういうのをミステリーというのか、推理小説というのか、 とにかくこういうたぐいの本といえば、 思いつく限りでは、多分、 中学生の時読んだ松本清張の『点と線』か 敢えていうとすれば、横溝正史ぐらいだろうか。 いろいろたぐりよせれば、ほかにも読んでるのかも知れないけど、 うーん、あんまりなじみのない世界だった。 田口ランディの『コンセント』とかはこの部類には入らないのだろうか? なんか、そういう分類のことを考え出すと、 ハウスだかテクノだか、なにがトランスでなにがブレイクビーツで R&B(こちとら60年代の方が親しみがあるよ。)にいたっては 全くわからない、まるでロンドンのクラブシーンみたい。
そうそう、『慟哭』です。(笑 「北村薫氏をして、書き振りは《練達》、読み終えてみれば《仰天》、 と驚嘆させた、巧緻この上ない本格推理」なのである。 北村薫氏がどういう人なのか知らないのだが、 本屋の平積みの推薦文もおもしろそうで、思わず買ってみた。
読み終えたあとの感想としては、 いやぁ。これやっぱりすごいわ(笑 読み始めたらやめられず、一晩で読み終えてしまった。 視覚的なイメージを鮮やかに描き出す、文章の筆致もさることながら やっぱり構成にあるんだなぁ。 そんなこと考えもしなかったよ、と言う感じ。 おもしろかったですよ、ほんと(笑
2004年11月08日(月) |
【映画】ブリジット・ジョーンズの日記 |
【Allcinema Onlineより】
ブリジット・ジョーンズの日記 (2001) BRIDGET JONES'S DIARY メディア 映画 上映時間 97 分 製作国 アメリカ/イギリス 公開情報 ユニヴァーサル=UIP 初公開年月 2001/09/22 ジャンル コメディ/ドラマ/ロマンス
《公開時コピー》 全世界で500万人の女性の心をつかんだ 超ベストセラー待望の映画化!! 未修整。未検閲。未婚。
監督: シャロン・マグアイア Sharon Maguire 製作: ティム・ビーヴァン Tim Bevan ジョナサン・カヴェンディッシュ Jonathan Cavendish エリック・フェルナー Eric Fellner 製作総指揮: ヘレン・フィールディング Helen Fielding 原作: ヘレン・フィールディング Helen Fielding 脚本: ヘレン・フィールディング Helen Fielding アンドリュー・デイヴィス[脚本] Andrew Davies リチャード・カーティス Richard Curtis 撮影: スチュアート・ドライバーグ Stuart Dryburgh 音楽: パトリック・ドイル Patrick Doyle 出演: レニー・ゼルウィガー Renee Zellweger ブリジット・ジョーンズ コリン・ファース Colin Firth マーク・ダーシー ヒュー・グラント Hugh Grant ダニエル・クリーヴァー ジム・ブロードベント Jim Broadbent ブリジットの父 ジェマ・ジョーンズ Gemma Jones ブリジットの母 サリー・フィリップス Sally Phillips シャザ シャーリー・ヘンダーソン Shirley Henderson ジュード ジェームズ・キャリス James Callis トム エンベス・デイヴィッツ Embeth Davidtz ナターシャ セリア・イムリー Celia Imrie オナー・ブラックマン Honor Blackman ジェームズ・フォークナー James Faulkner
【あらすじーAllcinema Onlineより】 日本を含む世界各国でベストセラーとなったヘレン・フィールディングの同名小説を映画化した爽やかコメディ。30代の独身女性をヒロインに、仕事に恋にダイエットに悪戦苦闘しながらも常にポジティブに生きる等身大の女性像を描き同世代の女性の強い共感を得る。主演はこの作品のために体重を6キロも増やして挑んだという「ベティ・サイズモア」のレニー・ゼルウィガー。ブリジット・ジョーンズ、出版社勤務のOL、32歳。独身。彼女は新年にあたってひとつの決意をする。「日記をつけ、タバコとお酒を控えめにし、体重を減らして、恋人を見つける!」そして、「ハンサムな上司ダニエルには気をつける」――はたして彼女の誓いは無事達成されるのか?
【感想】
これ、うちのフラットメイトが誕生日プレゼントかなんかにもらった ビデオを見たもの。 ビデオなので字幕がなく、 いつもテレビ放送されている映画を 文字放送の英語字幕付きで見るのが、 一番のリラックスになっている俺にとってはちょっと残念。
が、まぁ、だいぶ話題になっていたし、 ヒューグラントはまぁまぁ好きなので、見てみた。
うーん、なんなんでしょう。 やっぱり、けっこうことばが重要な映画なのかなぁ。 細かいところは何を言っているのか、よくわからないので、 ちゃんと吹き替えか、日本語か英語もしくは中国語の字幕付きで 見直すと、感じが変るかも知れない。
「そのままの自分でJust as you are」 っていうところはすごくいいなと思った。 なんか、そのままでいることで もともとある魅力がより引き立つというか。 ま、美人じゃないけど、キュートな魅力って感じかね?
同時に、何か照れ隠しに 今「天然」な女の子が受ける時代なんだよ!! とかって、何か冗談で宣伝をしてしまいたくなるような、、、。
エンディングを除けば、まぁまぁいいと思うんだけど、 なんであの男がニューヨークから帰ってきたのか、 なんで、もとの彼女を捨てたのかなどなど、 「新しい日記帳を買いに来たんだ」と言うのはおもしろかったけど、 やっぱりエンディングがちょっと強引に感じられた。
どうなんでしょう? ことばがわかると、ちゃんと説明されているのかな?
え? これって、もしかしてノッティング・ヒルの監督と 同じ人だったりして(笑
2004年11月07日(日) |
【映画】『黄色い大地』『詩人の恋』 |
学校の「現代中国演劇映画」コースで見た映画
まず、中国第五世代と言われる記念碑的映画と評される映画 学校ではRoot-seeking Movementと言うコンテキストで出てきた。
『黄色い大地(黄土地)』 陳凱歌(チェン・カイコー)監督、 張芸謀(ジャン・イーモウ)撮影
実はこの映画、学校でみんなで見る時に休んでしまったため 先生にビデオを借りて家で見たら、なんと字幕がなく、 完全には理解できなかった一片。 というわけで、特に感慨がないのだけど、 映像はなかなかおもしろい。 ただ、いわゆる「共産党は何もしなかった」 「田舎の民衆(女性)を救えはしなかった」みたいな論評は 今更おもしろくないなという気がする。
次は
『詩人の愛・妻と愛人(顧城別恋)』(英題はThe Poet)
と言う香港映画。 少年時代に文革を生き延びた前衛詩人の半生を 事実に基づいてつづる映画。 主人公の古城(グー・チェン)は少年時代に、 父が反革命分子として処断され、三角帽をかぶせられ、 紅衛兵に家を蹂躙され、書物を焼き払われた記憶を持つ。 彼の詩は、前衛的な作風が若者に受け、海外でも高い評価を受ける。 その後、蕾謎(レイミー)夫人とニュージーランドに移民する。 遅れて夫人は、古城の愛するもう一人の女性、 李清(リ・チン)とを北京から呼び寄せる。 ここから三人が暮らす「エデンの園」をめぐる 『芸術家』古城の夢と狂気の三角関係が展開するのだが、、、
珍しく自分であらすじを解説してしまった。 この映画、最初なんの知識もなく見始めたのだが、 珍しく見入ってしまった。 去年、中国文学の授業で彼の前衛詩を何篇か習っていたので、 途中で出てくる彼の詩を聞いて、「あー、あの人の話しか、、、」と 思いながら見た。 ただ、最後の方になると、思っていた以上の破滅的な展開となり、 はっきり言ってげんなりしてしまった。 ただ、それだけ俺にはインパクトのある映画だった。
何か知らないが人ごとではないという気がして、 ひやひやしてしまう映画だった。 原因が文革であろうが何であろうが、 子供時代に受けたトラウマは、何とかして癒して、 本当に安全で安心できる、健康な人生を送れるはずだ。 だれだって、そういう人生を選ぶことが出来るはずだ。 そんな風に思った。
主人公役のスティーブン・フォンの演技はなかなか良かった。 この人『美少年の恋』と言うゲイ映画にも出ているらしい。 李清役の森山文子っていったい?? セーラームーンのミュージカルのひと?
2004年11月06日(土) |
【ほん】 辺見庸「ゆで卵」 |
辺見庸「ゆで卵」 角川文庫版。
うちのフラットの本棚にあったほん。 以前に住んでいた人の置き土産だろう。 ある日フラットメイトが読んでいて、何となく読み出したほん。
実のところ、表題作の「ゆで卵」は、あまり感じが好きでなく、 途中で読むのをやめた。 あとの短編が好きだ。
うーん。こういうたぐいの話は、今までにあまり読んだことがなく、 最初はすごく違和感があった。 昔は手に取りさえしなかったようなほんだったが、 辺見さんの、情景が浮かんでくるようなあざやかな筆致に なんとも惹きつけられてしまったようだ。
で、このほんが何を俺に訴えるのかといえば、 たぶんそれは「自己肯定」なのだろう。
自己肯定が多ければ多いほど、 俺は外向的で、自分自身ともラポール、信頼感を保ち やりたいことに正直で、どんどんなりたい自分になっていくのだろう。 自分がそういう風に思えることは 今の俺にはものすごく大事だ。
辺見庸のこの短編集、「女と寝ている情景」がよく出てくる。 こういうの、俺、ふつう嫌いなことが多いんだけど、 この人の場合は、なんかいやな押しつけがましさや、 無前提に共有された、つくられた男臭さをあまり感じない。 それどころか、すごくさらっとしていて好きだ。 エッチなシーンを描くというよりは、 単に状況設定だけな感じがする。 そして、このあまりに当たり前で さっぱりとしているこの状況設定が じつは、これらの物語の中では大切なんだろうなぁ。 たとえば、
「あなたには覚えがないだろうか。 夜中に目覚めて、何時間か前にいっしょに眠りについた恋人と、 何時間か前にしたセックス以外のことをだらだらとしゃべりあうのは、 案外に楽しいものだ。」
で始まる短編「ひと」なんか、すごくいいと思う(笑。 なんか、こういう小説を読んで、 特に多少でもセックスが関わる表現をみて 「自分と近い感覚を持っているのかなぁ」なんて思うことは へんな話、今まで一度もなかった。
本人によるあとがきに
「本書の話は皆、寝物語のようなものである。 寝物語というやつは、とろとろ話し話されるものである以上、 生きる元気にも死ぬ勇気にもつながりはしない。 私の書くものはたいていそうだ。」
とある。そして中略して、
「むしろ、明日はぷいっと休みをとるなりして、 朝寝でもきめこみたくなるのではないか。 もしくは休職したくなるとか、休学したくなるとか、 家出したくなるとか、、、、、。 そうだといいな、と私は思う。」
まぁ、俺がもし、正しく勤めに出ていたりしていれば 彼が望んだような選択をしていたかもしれない。 しかし、辺見さん。 俺は元気が出てしまったよ。(笑
自分の話に戻る。
もっともっと自分のことを肯定すると もっと多くのものが得られるだろうか? 自分の中で、答えは迷わずイエスなのだが、 同時に、どうしても自分がもっとも大事にしているもののなかの もっとも具体的なひとつが失われてしまうような気がするのだ。 それが俺の自己承認をはばむ。 そして成長もはばむ。
ただ、現実としては、 もっと自己肯定しなくても、それは失われるかも知れず、 必要以上に家に閉じこもってみても、 インスピレーションは湧いてこないのだ。 やはり、もっと自己肯定する中で、 大切なものを自分なりのやり方で もっともっと大事にしていくことしかできないのだ。
それは途方もなくせつないことなのだが、 しようがない。 そんなものと、どこかしら似たような感じを 俺は辺見庸の短編から感じたのかもしれない。
ここ二、三日間味覚がおかしい。 前にもこういうことがあった。 学校の近く、行きつけの韓国スーパーで食べた スパイシー・ポーク丼がやたらと辛く感じる。 紅茶を飲んでも、ぱさぱさとして変な感じだし、 いったいどうしたというのだろうか?
そういえば、先月、のどがひりひりして それがどうしても治らなくて、とうとう医者に診てもらった。 俺はてっきりのどが赤く腫れ上がっていると思っていたら、
『のどは少し赤いですが、たいしたことないですね』
えっ??? そんなことって、、、。 医者いわく、もしかして一種のアレルギーかも知れないという。 抗生物質を出すほどもないという。 そんなこともあるのかなぁ。
家でご飯を作る。 生スパゲッティーとかゆでてみるけど、 何か具もよく味がわからないせいで、とんとおいしくない。 久しぶりに作ったみそ汁も、だしを二倍いれたりして それでも味が良くわからない。
確か先週、何かをがりっと噛んで以来、 奥歯の詰め物も調子が悪かった。 舌で口の中の上あごをなめ回すと、 真ん中に溝がくびれているような気がする。 こんなものは昔はなかったのに、、、
少しホームシックなのかもしれない。
2004年11月04日(木) |
【映画】 グッバイ、レーニン! |
【Allcinema Onlineより】
グッバイ、レーニン! (2003) GOOD BYE, LENIN! メディア 映画 上映時間 121 分 製作国 ドイツ 公開情報 ギャガ・コミュニケーションズ 初公開年月 2004/02/21 ジャンル コメディ/ドラマ 《公開時コピー》時代は変わっても、心は変わらない。 監督: ヴォルフガング・ベッカー Wolfgang Becker 製作: シュテファン・アルント Stefan Arndt 脚本: ヴォルフガング・ベッカー Wolfgang Becker ベルント・リヒテンベルグ Bernd Lichtenberg 撮影: マルティン・ククラ Martin Kukula 編集: ピーター・R・アダム Peter R. Adam 音楽: ヤン・ティルセン Yann Tiersen 出演: ダニエル・ブリュール Daniel Bruhl アレックス カトリーン・ザース Katrin Sas クリスティアーネ マリア・シモン Maria Simon アリアーネ チュルパン・ハマートヴァ Chulpan Khamatova ララ フロリアン・ルーカス Florian Lukas
東西ドイツの統一という時代の波に翻弄される人々の悲喜劇を笑いと涙で綴ったファミリー・ドラマ。東ベルリンを舞台に、昏睡中に東西ドイツが統一され、意識を取り戻した母が再びショックを受けないよう、消滅前の東ドイツを必死に見せ続ける息子の奮闘をユーモラスに描く。監督は本作が長編2作目となるヴォルフガング・ベッカー。ベルリン国際映画祭で最優秀ヨーロッパ映画賞受賞をはじめさまざまな映画賞に輝き、本国ドイツで歴代の興行記録を塗り替える大ヒットを記録。 1989年、東ベルリン。テレビ修理店に勤める青年アレックス。彼の父は10年前に家族を捨て、西側に亡命した。一方、母クリスティアーネは、その反動からますます愛国心を強めていく。そんなある日、秘かに反体制の考えを持っていたアレックスが反社会主義デモに参加。その結果、警察と衝突するところを偶然目撃したクリスティアーネはショックで心臓発作を起こし、昏睡状態に陥ってしまう。その間にベルリンの壁が崩壊、統一ドイツは資本主義国家となる。やがて8ヶ月後、クリスティアーネは奇跡的に覚醒するのだが…。
【感想】
この映画、今年の夏に札幌の映画館で見た。 前からみたい映画だったけど、見終わった後にすごい感動があって それを押さえることが出来なかった。
どんな環境で育っても、 その人にとって本当に大事なものは、 その人の周りに作り出すことが出来る。
人にはそれぞれの事情がある。 表面に出てくる言葉や行動がきれいごとであっても、 または、その逆であっても、 人にはその人の事情はわからない。
母が四十年間、東独でこつこつとためたお金が 発見が遅れたため、交換の期限に間に合わず、 ある日突然紙くずになる。
そんなこと考えられるだろうか?
なぜ多くの人達が、母親にうそをつくとわかっていつつも 主人公の少年に協力していったのか。 そういうところにも、何か重要なものが横たわっているような気がする。
うちのクラスメートのドイツ人は、この映画について 「母親にうそをつき続けるなんて、すごく悲しい」と言っていたけど、 そういうような感想はほかの西洋人からも聞いた。 俺にすれば、この映画の感想として、 わざわざ言うことではないだろうと思ってしまうのだが、 ひとつの重要なChristian value(キリスト教的価値観)だろうか? そういう観点で見るとまた違った見方が出来るのかも知れない。
こと、自分のことを振り返った。 十代二十代と、何かを追い求め、仲間を求め、もがき続けた。 そして、俺はこの映画の主人公が作りえたもの、 そういうものを果たして作り出せたのだろうか? そういう風に思うと、やはりひどくせつなくて 涙が止まらなかった。
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