また帰って来たロンドン日記
(めいぐわんしー台湾日記)

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2005年01月16日(日) ネズミ!!!

ヨーロッパでは中世にはペストの大発生があって、
ロンドンでも人口の何割が死んだとかなんとか、そういう話を聞いたことがある。
たしか「ロンドンでもっとも恐ろしい」がキャッチフレーズの
「ロンドン・ダンジョン」というテーマパーク(?)の展示からだったかな?
いわゆる黒死病ですよ!!
これ、ネズミが媒介するんですよー。

わが家で、なんと先月に引き続き2回目のネズミを目撃。
前回はキッチンだったけど、今回はトイレにいた。
うーん。前回キッチンはきれいに掃除して、消臭もして
(ネズミは自分の付けた臭いで行動範囲を確認するらしい)
できる限りのことをしたけど、トイレとどこかで繋がっているんだろうなぁ。
昨日地下鉄の駅で「その食べかすがネズミを増やす!」みたいな
ポスターを見たばかり。うちでは解決したから人ごとだと思っていたのに、、、。
荒い配管とかすき間とか、建物の構造上の問題なんだろう。

ここはやはり大家に相談して、殺鼠剤をもらうしかないのか、、、。
そうやってネズミに「ここは恐いところ」ってわかってもらおうか。
見た目はかわいいんだけどなぁ。
うーん。ロンドンだなぁ。


2005年01月12日(水) 穏やかな冬

今年のロンドンは心なしか暖かく感じる。
びゅーびゅーとGale(ゲール=強風)が吹き荒れるというふうでもなく、
比較的穏やかな感じ。

さてさて、今日は久しぶりに髪を切りにいってきた。
さっぱりとして気分がいい。
家に帰ると、昨日中華街で買い出しした材料で料理。

今日の献立は、

玄米ともちきび入りご飯。
ギョウザ・スープ
豆腐チャンプルー
ほうれん草のおひたし

と相成りました。
もちキビはこの前行った沖縄で買った波照間(はてるま)産のもの。
これが玄米とよくあって、なんとも美味。
もちキビとはよく言ったもので、もちもちして触感がとてもいい。
これを白米と一緒に鍋で炊く。

ギョウザ・スープ。じつは昨日、中華街で買い物した後、
ソーホーで台湾人の友達と会ったのだけど、その際友達のひとりが
イスの背もたれにおいてあった冷凍ギョウザを
知らずにおしりで踏んづけていたらしく、
溶けて押されて、家に帰って袋から出した時には似て非なるものになっていたという話し。
おかげで6ポンド50ペンス(1300円)もした1キロのギョウザから
1キロのぐちゃぐちゃな白い物体に変化したというわけ。
しょうがないので、一体化している白い塊を4等分ぐらいにして、別々に冷凍。
その一部を解凍して、小さく角形に切り分けスープにしたもの。
具はズッキーニ(courgette)と白菜(Chinese leaf)、もやし(beansprouts)
今回は前のフラットメイトが置いていったOXO(オクソ)という
スープストック(コンソメのようなもの)のチキン味を使ってみた。
以前は「まずくて大嫌いだった」けど、気にならなくなった(ラッキー☆

豆腐チャンプルーは、昨日中華街で買った日本語で書いてある木綿豆腐。
ネギ(spring onion)ともやしとSPAM(スパム)というランチョンミート。
このランチョンミート、沖縄ではすごくポピュラーな食材で「ポーク」と呼ばれている代物。
これが癖になる味で、ロンドンに売ってるかなと思ったら、スーパーで売っていた!!
じつはこのチューリップ(TULIP)と言う会社デンマークの企業。
この前はこのSPAMを使って朝から沖縄料理(?)「ポーク玉子」を作ったりしてた。

最近自分で料理するようになってから、最低限のイギリス暮らしがだいぶ楽になった。
食べ物のことで困ることがないというのはらくちんだ。
イギリスではつまり自分で料理するのがいちばん安くてうまい!!

さて、出来たご飯を食べようとテレビをつけるとどこかで見たような
恐怖映画っぽいおどろおどろしい映画。
あ、これ「The Others」と言うイギリス映画だった!!
フランスとの海峡にあるジャージー島かどこかが舞台だったはず。
なかなか変った設定で、最後にどんでん返しになるわけだけど
けっこう良くできた映画だと思う。

そういえば、一昨日はテレビでアメリカ映画の古典「ミシシッピー・バーニング」を見た。
15年ぶりぐらいに見た。俺はジーン・はックマンが好きなのだ。
なかなか複雑な気持ちになってしまった。
感じ方も15年前と変ってしまったなぁ。


2005年01月06日(木) 時間の連続性

いつごろから記憶の中で時のつながりがはっきりしなくなってきたのだろうか。
小学生のころは、昭和何年に自分が何年生で、その年には何があったという風に
細かく配列を覚えるように記憶がはっきりとしていた。
それを聞いて大人たちが「よくそんなにはっきりと覚えてるねぇ」と言った。

当たり前のことに大人たちがなぜ必要以上に大げさに驚いて見せたのか、
今となっては、大人たちにとってはそれが当たり前のことではなかったのだろうと
納得するほかない。

時が連続していると感じるために必要なものはなんだろう。
地理的な連続性だろうか? 継続する確固たる信念だろうか。
はたまた生活を共にする人々、家族だろうか。

時間が一つのつながりとして連続して継続することを、
もはや当たり前に感じることが出来ないということを知った。
そして、もしつなげて感じたいのなら
おれはそれを自分でつなげていかなくてはいけないということを
今日あらためて知ったのだ。

自分が何のために生きているのか、、、なんていうことを考えてしまう時
そんな時は失われた時間をつなげる時なのかも知れない。


倉田三平 |MAILHomePage

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