毎日が飛ぶように過ぎていく。 今は専業主婦という立場で時間にゆとりのあるはずなのに 一日があっという間に終わるように感じている。 読書に編み物に韓国ドラマにプールにと自分のしたいことの合い間に、 最低限度の家事を適当にこなしているが、こんなに一日が早くていいのだろうか・・と ふと心配になってくる。
もしも、もしも私がそこそこ長生きできる遺伝子をもっているにしても、今までの生きてきたのよりは残された人生のほうがはるかに短いのだから。
今の私の思いを息子と娘に伝えたいとか、平凡ななりの生きた証しを残したいとか何気に逸る気持ちを持て余していることも事実だ。
五年先、十年先には私はどうなっているのだろう、という漠とした不安もあって落ち着かぬ日々だ。
朝起きて 夜に寝るただそれだけの我が日々に尽きぬ思いあり
きょうは 先日終了した平成の大修理で唐招提寺でお仕事された大工の棟梁のお話を聞いてきた。 奈良は文化財の宝庫で大工の棟梁だけれど、文化財保護の意味もあって公務員という立場になっているそうだ。 唐招提寺の大修理は約十年という長いプロジェクトで、解体から組み立てのほとんどに携わられたようだ。 約2時間ほどのお話だったけれど、情けないことに私の能力(脳力)ではここに抜粋だとしても書くことができない。 ただ 印象に残っているのは元禄と明治にも大修理が行われていて、ことに元禄の大修理のときには補強する意味で少し屋根の勾配を上げたそうだ。 だから 『天平の甍』 は 奈良時代の終わり頃に創立されたときとは少し違っています、とのことだった。 それと 仏様がおられた後ろのほうの壁際、扉八双金具下から鮮やかな彩色文様も発見されたとかで赤と緑が主の美しい文様も再現されてあった。
晩秋の古都に相応しいお話で きょうはいい日だったなぁ、と感じ入っている。
雨上がり 和上を偲ぶ苔光る
きょうの日は 万葉びとに いざなわれ
つわぶきが ひっそり咲きて 寺の庫裏
きょうは先日、平成の大修理が終わった唐招提寺に行く。 とは言っても お寺の中には入らなかったので唐招提寺界隈というべきか。 連休の初日ということもあるのだろうが観光客が多い。 私たちは 今は田んぼやあぜ道になってしまっている昔の小路や条坊を歩いていたが、そこにも観光客の人たちがいて 「唐招提寺へはどう行ったらいいのですか」 と訪ねられたりした。 大伴旅人の歌碑があったり、藤原清河の娘に関係したらしい臍恩寺跡があったりと、往事を偲ぶものはそこそこ残されている。
歩きながら 先日その平成大修理の落慶法要に合わせて放送されたテレビ番組を思い出していた。 永井路子さんの『氷輪』を題材にした鑑真和上と一緒に仏教布教にやってきた蒼眼の僧如法の物語だった。 鑑真和上は日本に来るのにとても苦労したけれど、日本に来てからも苦労の連続だった。 その頃から日本人と言うのは何でも初めはわぁっと飛びつくくせに すぐに醒めてしまう国民性だったようだ。 そんなことをつらつら思いながら晩秋の景色とともに半日を遊んだ。
きのうは冷たい雨の一日だった。 そんな中 ご近所さんが引越しされた。 ご主人と奥さんのふるさとである岐阜県へ帰っていかれたのだ。 ご主人は68歳とかで奥さんもそれに似た年齢で、あと三年先や五年先だと今のように動けるかどうか分からないので思い切って田舎に帰ります、とのことだった。 両親はもういないけれど空き家になっている家があるし、お墓のこともあるのでと話されていた。
冷たい雨の中での引越し作業に きっと日頃の行いが悪かったのでしょう、と笑って話されていたけれど 私にはお別れの涙雨のように思えた。
パート仲間だった友達も、ご主人のお父さんをこの秋に亡くして、住む者のいなくなった家を処分して馴れ親しんだ奈良を終の棲家に決めたからと、向こうの家の片付けに忙しい日々を送っている。
そうだね、私たちそろそろ身体が健康なうちに終の棲家のことも考えておかなくてはいけないね。 私らの年代はどの人も子供に迷惑をかけたくないと口を揃えたように言う。 夫婦二人でいる間はいいけれど、問題は病気になったときや一人になったとき・・。 我が家のように年金だって二人合わせないと生活できない額だというのに、さてもさてもどんな老いの生活設計をたてていこうかしらねぇ。
寒いような 暖かいような・・・そんな日々が続く。
私のこころと一緒だと思いながら 夜には必ずのように 「あぁ きょうも終わった」 と思う。
身体のあちこちが痛くて 正にポンコツなれど それでも何とか生きていることも事実だ。
夜明けの空も 夕焼けの雲も 私の感傷の手助けをしてくれるのだ。 そして いつものように幾重にも重なった山の稜線を見たいと思う。
霜月や 手仕事終えて 伸びをする
何ゆえにこころ騒ぐや 高き空
ここ数週間、パソコンの状態がきわめて不安定で困っている。 プロパイダーにもパソコンのメーカーにもセキュリティの会社にも電話してサポートを仰いだけれど、いい状態が長続きせず毎日、きょうは機嫌よく動いてくれるだろうかという祈りにも似た日々を過ごしている。
先週 息子も「おかんのパソコンは何や?」 と言って 履歴やファイルの削除とデフラグだか何だかしらないけれどちょこっといじっていたけれど効果はない。 パソコンは故障していないし、プロパイダーとはちゃんと接続されているし、一時的にセキュリティを外してもインターネットに繋がらないことがたびたびある。 プロパイダーの担当者もこんなにいろいろやってみて効果のないのも珍しいようで電話の向こうで何度も「う〜〜ん・・・」という声が聞こえた。 要は接続が不安定のようで超素人のおばちゃんである私など、日によってパソコンがストレスになりつつある・・。
これは大人のおもちゃだと思わないでもないけれど、読書や編み物やその他のことを調べるのにこんなに便利で楽しいものはない。 今では近くで買えないものだってネットでなら欲しいものが見つかって、クリックすれば家まで届けてもくれる。 若い人より私のように足が悪くなってきたようなものには少し大げさでも救世主のようでもある。
きょうも祈りつつパソコンに向っているけれど、最近の多くの書き込みのように消えることなくこれが無事にオンラインに乗ってくれますように・・。
きのうの日記の蒸し返しではないが 私だって40歳前半まではとても元気だった。 たまに頭痛を起こすくらいで自慢じゃないが風邪をひいても寝込むことは一日とて無かった。 子育ては若いからできるのだといまさらに思うのだが、車の免許を持たないものだから買物だってあの当時は不便なところに住んでいたから、娘を背中に負ぶい眠り込んでしまった息子を腕に抱き、まるで重しのようにその腕に買物袋をぶら下げてエンヤコラと家に帰ってきたものだ。
それがいわゆる更年期といわれる時期に、娘のことで私にとっては晴天の霹靂ともいえるような事態が起こりそれが体やらこころの不調に拡がっていって今日の日になったのだと思う。 その時 人の一生なんて死ぬまでは何があるかわからない・・まさかという落とし穴のあることも知った。 娘には娘の人生のあることは強く認識しているけれど、ここ何年かの娘を思う日々の何と空しいことか。 大声を上げて泣き叫びたいところだけれど、それも娘に届かなければ意味がない。 娘を抱きしめ私も抱きしめられたい。
過ぎてしまった7年は取り戻せないし、そんな日々がまだ繰り返されるのか 32歳…… 今さらに 私が32歳のときは元気イッパイ子育て満載の至福の時だった……と つくづく思うのだ。
パートに行ってた頃 すでに孫のいた何人かのパート仲間が 「孫が来て一日相手してとても楽しい時間を過ごしたけれど 帰っていった後はどっと疲れが出てしんどい」 と よく言っていた。 今朝の私は正にそれ!! 孫は体重もやや標準以下でそんなに重いほうではないけれど、動き回るので落とさないようにと力を入れ過ぎているのだろうか、しばらく前から痛んでいる肩の付け根というか腕が今朝はやたらと疼く。 折からの寒さも手伝っているのだろうけれど何気に辛い痛さだ。
それにしても私は何と軟弱な体なのだろう・・とつくづく思うのだ。 南田洋子さんや円楽さんや、76歳くらいで亡くなられる訃報を聞いたら我が人生もあと二十年あるかないか・・・。 寝たきりや認知障害が出てきても80・90と生きるかもしれないが、健康で暮らせる健康寿命が私にはあと何年なのか。
人は必ず死ぬ、としても ほとんどの場合死に方や年齢は選べない。 病上手の死に下手、とか 生き様は死に様、とか 三日往生(ピンピンコロリ)とか、 よく人は話題にするけれど 私はどうなのか、である。 プールに行っても 年金や病気の話は必ず出る。 人生の秋や初冬にさしかかったら いかに死ぬかにつきるようだ。 孫はあんなこともこんなことも出来るようになったという前向きの話ばっかりだけれど、我々はあれもこれも出来なくなってきたという後ろ向きの話題になってしまう。 何と惨酷なんだろうと思う。
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