「 凡人徹底(ぼんじんてってい) 」
中年になると、回りの人と争いたくなるそうである。そうなって来てしまった。
『こころの処方箋』 河合隼雄著の一文で、昨夜のストレスに目が開いた感じがした。
「しかし、われわれ凡人はなかなかそうはいかないのだ。
立派なことを言っても、そのとおりには出来ないし、おまけに好きなことが出来なかったという不満もたまってきて、誰かれに当たりたくなってくる。知らず知らずのうちに近所迷惑なことをしている方が多い。」63-64頁
昨夜は、立派なことを言って相手を攻撃する愚痴を聞いてもらい、俺は一所懸命やっている、とアピール(自慢)し、不満をぶちまけた。近所迷惑そのものである。
その原因は、私が私自身を凡人と徹底して思っていない、知っていないからである。自己に対する無知、自分だけは違うという高慢さにあった。河合隼雄先生にして、「われわれ凡人は」と言っている。私は河合先生に遠く及ばない。しかし、「凡人」と言い切れていない。「もうひとつ忘れてはならないことがある(64頁)」と河合先生は言う。
「何か仕事をしながら、やっぱりあの好きなことをしておけばよかったとか、いやだなとか思っているときは、心のなかに生じる摩擦のためにエネルギーを消耗するものである。このために、あまり仕事をしていない割に疲れるということになる。」65頁
ギクリ、とした。
「あまり仕事をしていない」、仰られる通り。
「していない割に疲れる」、仰られる通り。
ふ〜む。
原因は、私が凡人であるとっ徹底して思えていないからである。原因は相手ではない。凡人のように、ほどほどで手を打てないことによる。仕事を抱え込み、不満で回りに迷惑をかけ、心の消耗から仕事が停滞している。凡人徹底。早く次のやるべきこと、楽しいことに移ることにしよう。
付記:「凡人徹底」は、引用した河合隼雄先生の『こころの処方箋』「やりたいことは、まずやってみる」と鍵山秀三郎先生の名言「凡事徹底(ぼんじてってい)」を合わせた言葉です。
ここで、感覚を固定化するものとして、時間と空間というものが挙げられる
時間によって感覚が鋭さを鈍らせるのである。それは思春期に持っていた世界に対する感覚の鋭さ、死に慄くことへの感覚の鋭さである。
この感覚の鋭さを摩耗させる行為が、日常生活にあり、同時に日常生活があるからこそ、鋭さを保つこともできる。
内戦や大戦によって荒廃した国土において、意識を保つのは戦争を客観視し、日常生活を送るという二重性である。意識を保つのは目の前の荒廃という現実だけ見つめることでは生じえない。そこには感覚の鈍さが忍び寄り、ついには死の恐怖から目を逸らされてしまうのである。残虐なだけの兵士は戦争だけを見つめることで生みだされる。この目の前の現実に取り込まれた、と言いなおしてもよい。同時に、戦争が日常生活化することで残虐さの感覚を鈍らせることもできる。逆に、戦争と日常生活が二重化することによって、残虐さの感覚を鋭く保ち続けることもできる。
つまり、下着を身に付けるのは、それを解放した時の感覚の鋭さを求めるがためである。ここで付け加えたいのは、下着を身に付けている時は感覚の鋭さを保ち続けるられることが、可能性を持ち得る行為である。必ずしもすべての人が持ち得る訳ではないが、感覚の鋭さを内在化しようとする人だけが持ち得るということである。
また、この二重構造は、言語の分野でもあり得る。「からごころ」のように二重構造を持っている日本風心性は、感覚の鋭さを保ち続けえる心性なのである。
しかしながら、実際の行為として「からごころ」に沿う行動をしていても、その無自覚さから、感覚の鋭さにさえ気が付かない人々もいる。
ここで指摘したいのは、言語、コード(規則、文法等)や、反社会的な行動、そして死の恐怖と日常生活などの二重性によって、感覚の鋭さを保ち得られるという点である。
感覚の鋭さを単に「青春性」と呼び変えてもよいことを付け加えておきたい。