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「 希哲学としての記述 ー永遠の生という錯覚ー」
2018年04月15日(日)

 感覚を鋭くするものとして、共同体の祭りや儀式、座禅や瞑想などがある

 感覚を固定化するものとして、言語や製造物や文字や会話などがある

 感覚を鈍らせるものとして、全能感を生み出す数々のものがある

 私達は、真理を語る時、内省し直観した瞬間に感覚が鋭くなっていくが、それを固定化しようとして、言語や文字などに頼ろうとする。

 しかし、それを内在化して固定化しようとするや否や、それは新たな障壁となって感覚を鋭くすることを拒否し続けるのである

 私達が構造によって自己を規定しようという哲学がいるが、彼の直観の瞬間にはそれは感覚の鋭くするものとして、存在してたであろう。

 しかし、それが構造を経て他者へと共有されるとき、それはもはや感覚の固定化したものなのである。カントのように他者との共有は、実は感覚からすればあり得ないものなのである。

 死というものが、バタイユのようなものであれば、それは感覚を鋭くするものとして扱われよう。

 しかし、死が固定化するとき、それは感覚を鋭くするものから離れるし、バタイユはそのことを強く打ち出しはしなかったのである。

 インターネットやスマートフォンなどの機器が私達の感覚を固定化し、そして全能感で満たしていくとき、そこには私達にとっての死は存在せず、感覚は鈍くなるだけなのである。

 そのようにして、私達は死から遠ざかり、永遠の生を生きるかのように錯覚するのである


付記:前記「 人類不偏の本質 −心の老い−」を前提とする

「 人類不偏の本質 −心の老い−」
2018年04月01日(日)



 「早く死んじまってもいいんだ」

 老人が他人に質問されて、付け足していた。

 「早く死んじまいてい」、「生きていても、もうしょうがない」
 
 いくつもの類似のことばたち

 本質は同じ、1つから出ている。

 わきあがる肉体の感情や感覚に身を任せるのが、楽だ、ということ

 対極には、

 神経質で繊細な、無感覚、ということがある


 桜を見て、きれいだな、という肉体の感情

 対極には、

 ここに居ていいのだろうか、桜が咲く、また死に近づいた、このままでいいのか、ということがある


 神経をすりへらした結果の、楽だ、に身を任せた人々

 肉体に負けて心が老いてしまった人々

 それが老人問題の本質である

 そして、人類不偏の本質であろう


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