やはり、怒りだ!
全てに対する怒りではない。己の不甲斐なさ、に対する怒りだ。
最初は、何に対する怒りだったか。
フロイト風心理学者の言う、抑圧された性欲だったか
現代風教育学者の言う、鬱屈(うっくつ)とした家庭環境だったか
若者特有の自意識の高さと認められない自我だったか
もう、忘れてしまったほど、私の肉体に浸み込んでいる、怒りだ!
カール・ポパーの反証可能性を持たないとして心理学者、教育学者、若者の自我を批判して洗い流そうとしたけれど、怒りは肉体と離れられなくなっている
つまり、誰にでも何時でも当てはまることなど、何も言っていないのと同じだ、という反証可能性でも無理だった、ということ。
結局人は独り。星と星ほど離れているのが人間である、というニーチェのニヒリズムに涙を流したのが、遠い過去になり、かけ離れた肉体になった
怒りがあるから、道徳風の行動をとろうとする
怒りがあるから、素直な努力が出来ない
怒りがあるから、死ぬのが極端に怖い
孤独の寂しさにふるえて、道徳を放棄し、素直な努力を積み重ね、死ぬのを醒めて見つめることができない
怒り 怒り 怒り!
やはり、怒りだ!
だから、私は夜中に起き出して、この文をたたきつける
理性というものの正体は何か
理性が無ければ、私が生きている、と思ってしまう
しかし、私は生かされているのである。空気は自分で作り出したものではない。
地上も私が踏み固めたものでもない。食べ物、建物、誰か、これら全てがあって創めて、私が生きることが出来る。
事実の正確な認識が理性だとするならば、理性とは「私が生かされている」という認識に導く、導き手の役割を果たす。
であるからこそ、私が血縁もなく、将来、必ず死ぬ、という虚無感に耐えられるのである。
私が生きている、と誤った認識を持っていれば、40歳前後の男性の自殺衝動を抑えることは出来ない
自殺衝動、虚無感から、事実の正確な認識によって、自己の生命の根源を見つめることへと理性は導く
言い換えれば、理性とは、全宇宙を認識し、そして自己の根源と結びつける性質がある。
その結果として、私は生かされていることへの感謝へと、心からの心服にたどり着く
愛する人が亡くなり、血縁者がいなくなり、それでも尚、虚無感や自殺衝動を払底するのが理性である
理性が、神と結びついて語られてきたのも、こうした体感が裏打ちしているのであろう