ものかき部

MAILBBS

「 やはり、怒りだ! 」
2017年09月15日(金)



 やはり、怒りだ!

 全てに対する怒りではない。己の不甲斐なさ、に対する怒りだ。

 最初は、何に対する怒りだったか。

 フロイト風心理学者の言う、抑圧された性欲だったか
 
 現代風教育学者の言う、鬱屈(うっくつ)とした家庭環境だったか

 若者特有の自意識の高さと認められない自我だったか

 もう、忘れてしまったほど、私の肉体に浸み込んでいる、怒りだ!


 カール・ポパーの反証可能性を持たないとして心理学者、教育学者、若者の自我を批判して洗い流そうとしたけれど、怒りは肉体と離れられなくなっている

 つまり、誰にでも何時でも当てはまることなど、何も言っていないのと同じだ、という反証可能性でも無理だった、ということ。

 結局人は独り。星と星ほど離れているのが人間である、というニーチェのニヒリズムに涙を流したのが、遠い過去になり、かけ離れた肉体になった


 怒りがあるから、道徳風の行動をとろうとする

 怒りがあるから、素直な努力が出来ない

 怒りがあるから、死ぬのが極端に怖い


 孤独の寂しさにふるえて、道徳を放棄し、素直な努力を積み重ね、死ぬのを醒めて見つめることができない

 怒り 怒り 怒り!

 やはり、怒りだ!

 
 だから、私は夜中に起き出して、この文をたたきつける

「 理性とは −虚無の払底と自己の生命の根源− 」
2017年09月01日(金)



理性というものの正体は何か

理性が無ければ、私が生きている、と思ってしまう

しかし、私は生かされているのである。空気は自分で作り出したものではない。

地上も私が踏み固めたものでもない。食べ物、建物、誰か、これら全てがあって創めて、私が生きることが出来る。

事実の正確な認識が理性だとするならば、理性とは「私が生かされている」という認識に導く、導き手の役割を果たす。

であるからこそ、私が血縁もなく、将来、必ず死ぬ、という虚無感に耐えられるのである。

私が生きている、と誤った認識を持っていれば、40歳前後の男性の自殺衝動を抑えることは出来ない

自殺衝動、虚無感から、事実の正確な認識によって、自己の生命の根源を見つめることへと理性は導く

言い換えれば、理性とは、全宇宙を認識し、そして自己の根源と結びつける性質がある。

その結果として、私は生かされていることへの感謝へと、心からの心服にたどり着く

愛する人が亡くなり、血縁者がいなくなり、それでも尚、虚無感や自殺衝動を払底するのが理性である

理性が、神と結びついて語られてきたのも、こうした体感が裏打ちしているのであろう



BACK INDEX NEXT

複製、無断転載、二次配布等を禁じます。
All Rights Reserved©ものかき部

My追加