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「 肉体の死は私の中にある 」
2017年08月15日(火)



向かいのおじいさんが、「おいらは結局、すぐ死ぬだけだから」といった。

その言葉が出てくるまでに、どれほどの深い苦しみがあるか、解らなかった。

その言葉を聴くと同時に、

どれほど軽い人生をしてきたのか、とも馬鹿にするのであった。

1つのテーマを追いかけ、研鑽し、修身をしてこなかったのか、とも。


対象への深い共感、同時に、全ての対象への侮蔑。

この2つが、私の偽らざる本心なのである。


私が肉体の死を怖がる。その根底に全ての対象への侮蔑があるというのは、言うまでもない。

なぜ、私が侮蔑されるべき無活動の状態の陥らなければならないのか、という激しい憤怒が、死を怖がるのである。

この本心を受け止めよう。

死は外にあるのではない。私の内にあるのである。

「 この命に拝礼する 」
2017年08月01日(火)



 布団に入り、口にする。

「硫黄島の英霊の皆様、英霊の皆様、ご先祖様、今日も奇跡の一日の命を頂きました。有り難う御座います 

 八百万の神様、この世の全てよ、皆様のお陰で、私は今日、一日生きていることができました・・・」

 口にしていると、心の中に切なさと共にわきあがってきた。

「1日、1日、死に確実に近づいているんだぞ」

 という声が。

 抑えられない声が。

 どのようにして抑えようか。

「そんなことを言っても、みんなそうじゃないか、我慢しろ」

 と世間の常識で死の恐怖を抑え込もうか・・・いや、むりだ。


「全ての命が忘れ去られる。だから今日一日に感謝していきよう」

 と結論と目的を入れ替えるという錯誤で抑え込もうか・・・いや、もう詐欺的手続きに気が付いている。


「体調が悪いから、マイナス思考になるんだ。早く寝ないからだ」

 と化学の常識で抑え込もうか・・・いや、老年になれば体調が悪くなる。



「じゃあ、この気持ちを書き残そうか。せめて、それしかない」

 と無への放棄に身を任せて抑え込もうか・・・いや、これしか見つからないのだ。


 せめて、子供たちがこの文章を読んでくれたのなら、という自分勝手に思い込むことにしようか。

 それが孝の始まりであり、孝を大切にする根源なのであろう。

 つまり、祖霊信仰とは、自らの死への恐怖と根源で連続しているのである。

 問いは同語反復で終わったが、無限後退、信仰による絶対化、懐疑論としての無根拠しか、死の恐怖をあがなうことができないのかもしれない。
 
 ふーっと一息。一気に書き上げた、深夜2時。明日は8時半から夜10時まで労働。肉体労働もする。睡眠時間は四時間を切った。最後に加えるならば、抑えられない声を聞かせてくれる、この肉体である。極小の睡眠時間で耐えているこの肉体である。


 この肉体に感謝する。

 この精神に深謝する。

 この命に拝礼する。


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