向かいのおじいさんが、「おいらは結局、すぐ死ぬだけだから」といった。
その言葉が出てくるまでに、どれほどの深い苦しみがあるか、解らなかった。
その言葉を聴くと同時に、
どれほど軽い人生をしてきたのか、とも馬鹿にするのであった。
1つのテーマを追いかけ、研鑽し、修身をしてこなかったのか、とも。
対象への深い共感、同時に、全ての対象への侮蔑。
この2つが、私の偽らざる本心なのである。
私が肉体の死を怖がる。その根底に全ての対象への侮蔑があるというのは、言うまでもない。
なぜ、私が侮蔑されるべき無活動の状態の陥らなければならないのか、という激しい憤怒が、死を怖がるのである。
この本心を受け止めよう。
死は外にあるのではない。私の内にあるのである。
布団に入り、口にする。
「硫黄島の英霊の皆様、英霊の皆様、ご先祖様、今日も奇跡の一日の命を頂きました。有り難う御座います
八百万の神様、この世の全てよ、皆様のお陰で、私は今日、一日生きていることができました・・・」
口にしていると、心の中に切なさと共にわきあがってきた。
「1日、1日、死に確実に近づいているんだぞ」
という声が。
抑えられない声が。
どのようにして抑えようか。
「そんなことを言っても、みんなそうじゃないか、我慢しろ」
と世間の常識で死の恐怖を抑え込もうか・・・いや、むりだ。
「全ての命が忘れ去られる。だから今日一日に感謝していきよう」
と結論と目的を入れ替えるという錯誤で抑え込もうか・・・いや、もう詐欺的手続きに気が付いている。
「体調が悪いから、マイナス思考になるんだ。早く寝ないからだ」
と化学の常識で抑え込もうか・・・いや、老年になれば体調が悪くなる。
「じゃあ、この気持ちを書き残そうか。せめて、それしかない」
と無への放棄に身を任せて抑え込もうか・・・いや、これしか見つからないのだ。
せめて、子供たちがこの文章を読んでくれたのなら、という自分勝手に思い込むことにしようか。
それが孝の始まりであり、孝を大切にする根源なのであろう。
つまり、祖霊信仰とは、自らの死への恐怖と根源で連続しているのである。
問いは同語反復で終わったが、無限後退、信仰による絶対化、懐疑論としての無根拠しか、死の恐怖をあがなうことができないのかもしれない。
ふーっと一息。一気に書き上げた、深夜2時。明日は8時半から夜10時まで労働。肉体労働もする。睡眠時間は四時間を切った。最後に加えるならば、抑えられない声を聞かせてくれる、この肉体である。極小の睡眠時間で耐えているこの肉体である。
この肉体に感謝する。
この精神に深謝する。
この命に拝礼する。