この瞬間でさえ、私は多くの道を選びとれる。
沖縄に移住を計画して、来年から住みだすことができる。本当にできる。
今の仕事をなげうって大阪のドヤ街の喧騒に、明後日からいける。本当だ。
感情で目を閉じて道が1つしかない、と考えるのは容易なことだ。
多くの道から、私しか歩めない道を覚悟して選ぶもの
少数しか進めない道を喜んで選ぶもの
多数が進むからその道を安心して選ぶもの
誰でも選べる身に、ため息をついて選ぶもの
どれもが実は同じなのだ。
感情で目を閉じて選ぶだけなのだから。
理性で目を開いて選びたいと願う。けれど、その理性は限定されたものでしかなく、さらに不十分な限定された理性しか与えられていない。
だから、戸惑ってしまう。
だから、道が分かれる地点で止まってしまう。
後ろから押しだしてくる。時の流れに押し出されて、私はどれかの道を選んでしまう。
感情で目をつぶれば、甘い楽しいことだらけだ。
自動エスカレータで道が進んでいくのだから。
どの道を選んでも結局行きつく先は、食虫植物の甘い蜜の先なのだ。
食虫植物に吸い込まれるハエでしかない。私。
理性など不完全で限定されたものしか持てないのだから、分かれ道の先は1つしかないのだ。
せいぜい、目を閉じないで行き先を見続けるしかない。
迫りくる、巨大化する食虫植物への道を。
免疫力が低下して、2度目の唾液腺(だえきせん)による発熱
だるさに対する、ふつふつ、とした怒り
今日命があることに対する、しっとり、とした感謝
上の2つのどちらを打ち出せば、世間に認められるのか、という功利
怒り、感謝、功利が私の中で混在して、心をかき乱していく
その中に、私だけの個性、の要素は1つもない。
根源において私は個性を持っていない。
どれかの配合割合で個別性が出て来るだけ、なのだ。
配合飼料の割合で肉質が変わる肉牛と換わらない。
さらに、肉牛と私を同一視する明晰判明さ、をもってデカルトのように、魂の救いとはできない。
苦しみがあることは命があること、感謝して、ふつふつと怒り、どうしようかと、意識が飛ぶまで続けていく