溢れいでる幼子の鳴き声
姦しいいでる風邪の大汗
「父母の遺体」に感謝をす
「人間だから風邪をひける」
「人間だから幼子がうまれる」
「有り難う御座います」
感謝しながらもぼやける意識に絶対的自我を味わっている
付記:「父母の遺体」は森信三『修身教授録』の『考経』、「わが身は父母の遺体」の又引きである。
感謝に立脚していない、あるいは感謝が足りない、という批判を頂いたことがある。
「大よそわが身に降りかかる事柄は、すべてこれを天の命として慎んでお受けするということが、われわれにとっては最善の人生の態度と思うわけです。」
「われわれ人間にとって、人生の根本目標は、結局は人として生をこの世にうけたことの真の意義を自覚して、これを実現する以外にはないと考えるからです。」
「これ『孝径』に「わが身は父母の遺体」と言われているゆえんであります。」
あるいは、喘ぎしかない、苦しみしか書いていない、という批判も。
しかし、上記の内容と何ら異なることは述べていない。
確かに、喘ぎ、苦しみを書き連ねている。それは表面であり、内容ではない。言葉の奥にある真意でもない。
もう一遍、上記の内容を、生命の存在形式で読み直して欲しい。同時に数々の批判さえも検討し直して欲しい
われわれが、天命として人に生まれた因縁が生命の存在形式なのである。次に感謝が出てきている。
根本目標もまた存在形式の自覚であり、日本風仏教の視点で血縁関係述べているに過ぎない。
絶対的人間もまた、人に生まれた因縁が引き起こす存在の形式を描き出したに過ぎない。
人は記憶のない時代、つまり肉体のみの時代から、自覚が出てくる時代になるという、自覚を他者と統合する時代が出てくるかもしれないという、統合を世界と合一させる時代が出てくるかもしれないという、存在の形式である。
そして、これらの時代の何れにも関わらず、肉体が全てを絶対的に引きずりおろすというのが絶対的人間であり、これもまた生命の存在形式に過ぎないのである。
付記:引用文は、森信三著『修身教授録』 第1章から第3章からそれぞれ一文である。