こんなにも胸が苦しくなる
両手で胸を引き裂くように掻き毟っても、壁に肩も腹もぶち当たるほど転がっても、止められない苦しい胸
けれど、この苦しさは、何かの過去の体験の、想像による拡大ではないのだろうか
幼少期の、核戦争への憤りではないだろうか
父が社会から圧迫され、それがヒョイと私の胸に飛び込んだ、その残滓ではないだろうか
墓の下の納骨された白い棒、その前の動かなく生々しい冷たさ、という連続経験ではないだろうか
こんな過去の経験の想像的拡大は、夜中に走り出して汗をかけば忘れてしまうだろう
肩をぶつけ、胸から血を流して、肉体的苦痛を増大させれば忘れてしまうだろう
そう、肉体的自我が禅的自我を最後の最後で捕獲するように
死こそが想像的拡大を続ける統括的自我、禅的自我を最後の最後で捕獲するのだ
まぎれもない真実が日々の生活の中にあったのだ
もっと腹を空かせれば死の想像などどこかへ行ってしまう
もっと睡魔が襲って来れば死の想像などどこかへ行ってしまう
まぎれもない真実が日々の生活を成り立たせている
その真実が、メビウスの輪のように肉体的自我と禅的自我の関係なのである
私の存在とはこのようなものだ
肉体を持つ人としての道程から脱しえない
脱したと想っても、メビウスの輪の裏側に行っただけなのである
付記:メビウスの輪は「からごころ」を参考に。ただし、「からごころ」は欧州や印度などでも当てはまるという意味で普遍化できると考えている。
娘が殺された、とニュースで流れた
三人称の死が肉親の死に置き換わったら、世間の関心を装う歓心から狂乱の寒心になるのだろう
娘との過去を想い出し、想い出してはより寒々しく、氷突き刺すような吹雪が吹き荒れるだろう
手は悴み、心は塊り、字は破れ、涙は嗄れる
ただ、それだけのこと
娘との過去は自我の消去だけのこと
己の肉体の死による自我の崩壊という地平で眺めたのなら、幾何があろうか
こうして書いている私は、娘の殺害で気が狂うだろうか
ロシア風に晒されて、世間の寒心に曝されて、私はどのようにするだろうか
心乱れ、想像を絶する地平にこそ、絶対的自我への潜戸がある
しかし、その先に進むことは叶わない
潜っては、必ず引き戻されるのだ
私の自我の出発点である肉体が、私の心を摑み、そして両足を引きずり戻すのである
眠気という肉体が睡眠へと
空腹という肉体がイラつきへと
停止という肉体が永久の無へと
無を有と関連づけ、虚無と比較し、超越したかに奢り高ぶった禅的自我さえも引きずり戻すのである
娘の死がどれほどであろうか