私達子羊の出産から自己意識形成までの出発点が既に「可能的」「かつ」「必然的」な存在である「べき」という論理的矛盾。
しかし、その論理的矛盾が出発点である、というのには同意したい。
けれども、その論理的矛盾を神学的還元によって信仰に突き進む側面には、眉を顰めざるをえない。
あなたはオリエントとオジエントの対立を、ヨーロッパとアジア、もしかしたらアジアが現在のトルコの一部の地方名に過ぎないことさえ、知る時代にいた。
けれども、貴方は視界に入りつつそれらを見ることをしなかった。
神学的還元が耶蘇教の異端的還元になることを、ルターの宣言、いやローマ帝国による遺棄、西暦11世紀の破門によることを知らぬはずがない。
あなたはどうして、その「地上的なあるもの」によって視界に暗闇を作るのであろうか。
けれども、貴方の「自分自身に対する絶望」へと「地上的なるもの」を還元していく方向は、「絶対的自己」へと進む道なのである。
貴方の死に至る病に私は首を垂れたい。
豊かに実る稲が首を垂れる所以である。
「皆人は死ぬために生まれた」という言い尽くされて日常生活の茶飲み話で出てくる仏教の教訓にはない、実り豊かな絶望があるからである。
貴方が「信仰の問題」として描き出した「生の極限」は、まだその先に突破する道があるとしても。
ここに絶対的自我は現れていく
すべての始まりである無限的な主観が、なぜ主観であることを絶対にやめない主観であり、客観になりえない主観などと措定するのであろうか。
まず、主観と客観の定義を破壊し、その破壊される定義にさえ、あなたの主観が入っている
次に、なぜ始まりである主観が存在するのか、というのをローマ・カトリックという耶蘇教の異端に出発している。しかし耶蘇教にしかそのような考えがない、つまり、出発点とすべき「始まり」として不十分である。
最後に、それらが人間の、あるいはこの世に関わりを持つ、という無限性の否定になるのを忘れ去っている。
見事に忘れ去っている。
もちろん、その忘れ去りさえ、忘れ去って、「普遍的なもの」として扱い、ぬくぬくと栄ている似非儒家ならぬ、似非希哲学家さえいるのであるが。
自然科学の天体の運動を、厳密な理論を踏まえずに、盗作した理論の総体は、プラトンの理論の総体を盗作した、その様と似通っており、同じ手癖でしかない。
その真髄や方法的検討や目的をするすると、大網からずる賢く小魚が抜けていくようにして、さらには、その小魚を大魚であるかのように扱うのである。
小魚を大魚に膨らませて、そこに無形液体有機体詰め込み、けれども、何時の間にかズルズルと抜け出して、商品棚から逃げてしまう。
そして外延化されていない世界をズッズズッズっと徘徊し、辺り一面を全て吸収し消化して、有機体が巨大がしていく。
けれども、その有機体に脊髄となる真髄もなく、定義がないので外界との境、つまり厳密な末端もなく、スライムのように辺りを這いずりまわるにすぎない。
産まれた時から深遠なる目的が与えられず、ただただ、古代ギリシャやローマの理想形への憧憬と生存を揺るがすかのような劣等感などの感情によって支配されている。
ヘブライへの自己同一化の希求や、古代ギリシャへの憧憬、ローマへの劣等感などの情念は、該当肉体を離れることができないように、彼ら一人一人の思想が短い時間で、クルクルと皿回しのように回されては、落ちて壊れる。
その内に皿が壊れすぎて、新しい皿が用意できず、周りの皆が飽きてきてしまい、皿回しという商売がなくなっていく。
皿回しが猿回しになるだけである。
近代哲学が反哲学になる所以である。
もう、最後にして言うまい。
客観や主観の定義の破壊に出発して情念を詰め込めば飽きられるだけである、と。
善や悪などという二区分法の果てに、「絶対的」などは導き出せない、と。
自然科学の発展の真髄を理解しない近代哲学など解体されるだけである、と。
ここに絶対的自我は現れぬ。