自我の宣言から拡大に至りて矛盾する自我を、「絶対的」自我などと呼ぶことは出来ぬ
ランメナウの貧困が、貴族の援助を受けて、自我の宣言と拡大に至りて、矛盾したかのように。
己の社会的成功の体験を、己の思想的主義として相対化していない自我など、「絶対的」と呼ぶことは出来ぬ
つまり、外延化されていない世界をウロウロと排外して、無形液体有機体のように全てを吸収し拡大していっても、それは空間そのもの、時間そのもの、時空間自体を取り込むことは出来ないのと同じである。
その挫折で、世界内に「絶対的」他者をおいても同じこと。
その「絶対的」他者の措定に、己が入り込む、いやいや、己の持つ空間、時間、時空間的限界が入り込む。
どうしてそこに気がつかないのか。
プラトンに出発したカントを学びながらプラトンの真髄を理解しえないのか。
外延たるこの世界に「絶対的」自我など存在しえぬ
内縁たる茫漠たる世界にしか、「絶対的」と措定しえぬ
神など、この世界の創造でしか措定しえぬからである
この意味で、神、創造神、唯一神、理性神、善なる神など、この世界を基底としてしか、通してしか理解しえぬのである
この世界と基底するものなど、神など、「絶対的」であろうはずがない。
この世は「相対的」でしかないからである。
つまり、この世から隔離され、異なる原理で支配され、再現性も方法的検討も数値化さえ拒みうる内的世界にしか、「絶対」は存在しえないのである。
その内的世界の「絶対」は、この世の、つまり、肉体の瞬間的な暴力によって破壊されうる繊細さにしか、存在しえない。
エネルギーと物質の傲慢さと強固さと強靭さという、この世の原理で支配さていないからである。
肉体的自我から、遠く離れ隔絶した地位に立つ魂的自我。
しかし、肉体的自我が魂的自我をたたき壊すときに現れる、「絶対的」矛盾。
その表れが「絶対的」でなくてなんであろうか。
付記:フィヒテ批判とも言えます。
外延化されえる自我は、肉体的自我、精神的自我、統覚的自我、魂的自我がある。
生来与えられた自我は、肉体的自我、精神的自我の一部であり、
後天として出る自我は、精神的自我の残りである。
本能による三大欲求から、名誉欲や理性が生まれる。
生来与えられた精神的自我の一部から、後天として出る自我が生まれる所以である。
統覚的自我は、他者の蓄積、智慧や知識や製造物の検討によってのみ生じ、
検討をしないものには生じえない。
魂的自我は、統覚的自我の突破によってのみ生じ、しかし、それは生来与えられた肉体的的自我に従属する
空腹、睡眠、死などの肉体的自我が、魂的自我を瞬間に従属させるのである。
この自我の矛盾関係を、絶対的矛盾とし、
特に突破によってのみ生じ、かつ従属している魂的自我を、矛盾の根源と観て、絶対的自我とする。