粛々(しゅくしゅく)と死んで行く
原子の結合が壊れ、特有の代謝は停止し、細胞分裂は必ず綻(ほころ)ぶ
自ら望み、他から望まれ、食の争いで、性欲の虜(とりこ)で
環境変化のその果てに
粛々と死んで行く
狂ったように噴出してきた緑樹の七色
桜花が飛び去って集(つど)ったような夕暮れが、さらに暗(くら)みを加えていく
薄白くなった黒いハイヒールの踵(かかと)
姦(かしま)しさと労働で剥(はが)がれかけた紅の半開き
10年以上のクリーニングで出来ただろう、ただ一本の大幅な尻じわ
白桃に震える魂の行きつく先
粛々と死んでいく
粛々と死んでいく
注記:「東施(とうし):西施をもじって作られた「醜女」の意味。「西施(せいし)」:春秋時代の美女で支那の四大美女に数えられる。「東施がひそみを倣(なら)う」とは「身の程を知らずに他人の真似をする」の意。
「躑躅(つつじ)」:常緑または落葉性の低木。山地に自生し、公園や庭園に広く栽植される。葉は互生。四、五月、枝先に先端が五裂した漏斗形の美しい花を一〜数個つける。果実は果。園芸品種が多い。ヤマツツジ・ミヤマキリシマ・サツキなど。[季]春。インターネット版『大辞林』より抜粋
ここでの「躑躅」は、桜=西施、躑躅=東施と捉えている。桜よりも濃く多彩で美しい桃色を集中する躑躅は、見向きもされず花屋でも売られない程低く観られている。桜のように待望もされず賞賛されることもなく日常にあるのが当たり前のように扱われている。躑躅の美しさは、非常に少数の人にのみ特別であるが、それはまるで現代の死のよう。粛々と何事もなかったかのように病院で95%以上の人が亡くなっていく。ニュースにもならず、その死を特別に感じるのは非常に少数の人だけである。視界に入らない死が桜よりもびっしりと集まっているので、表題となる。
執筆者:藤崎 道雪(校正H17.5.8)
耽溺。耽溺こそがその感覚に相応しい言葉なのか。
狂乱。狂乱こそがその行為に対応した形容なのか。
投棄。投棄こそがその事象に応対した語彙なのか。
奇蹟。奇蹟こそがその深甚に合一した用法なのか。
八万四千の流派が伝達する知識と、智慧を不立文字とする1つの別派。
超常現象を不立口頭とした諸子の第一位と、抹殺され順位外まで落ち込んだ功利主義者。
排一神的字義主義者の悩む「悪の問題」と、神秘主義者すらも包摂する「善の問題」。
幾万通りの言葉の、形容の、語彙の、用法の奥底で実存性を与える、その感覚。
その感覚。
まさに、その感覚。
与えられた機能、による感覚。
永遠の命が欲しい、11次元を観たい、精神のみの認識が欲しい。
欲しい、欲しい、欲しい、のだ。
永遠の命がないゆえに、4次元から飛び出せないがゆえに、物質によって司られているがゆえに。
大いなる、巨大な、膨大な、気絶しそうな矛盾ではない。
それすらもまた1つの、そう与えられた機能、による感覚の1つに過ぎないのだ。
春暖かく柔らかい日差しが花に入り、白肌に薄桃がほだされるように。
連れられるように新緑が枝葉や水面などに鮮やかに咲き乱れ、じきに薄桃色に儚さを与えるように。
執筆者:藤崎 道雪
花が散り逝く 見事なり
華を散らせぬ 見事なり
( 鈍色の河流の上に、春の日差しを集めたようなピンク色のもう1つの流れを眺めて )
執筆者:藤崎 道雪
ありがとう ありがとう
全てを与えてくれてありがとう
ありがとうを言う私も与えてくれてありがとう
人生という客になれたのでありがとう
だから ありがとうの後には何にーもありゃしないんだね
ありがとう ありがとう
執筆者:藤崎 道雪
激しさ。人を喰らい尽くす欲望と殺人の攻撃衝動が分岐する地点まで。
刹那さ。永遠の初恋への哀愁と不治の病で肉体が蝕まれる絶望が分岐する地点まで。
嬉しさ。肉親に包まれる抱擁感と社会から絶賛されて自らが広がる錯覚が分岐する地点まで。
平明さ。知的好奇心のワクワク感と数々の合理によって世界の観え方が一変する賢明が分岐する地点まで。
それらの地点まで
それらの地点まで
それらの地点まで
ギュッと利き腕のこぶしを握り締め、何度も握りなおしてはその地点を想う。
全てを凝縮しようと、何度も何度も。
注記:辛夷(こぶし〉モクレン科の落葉高木。山地に多く、庭木ともする。葉は倒卵形。早春、葉に先だって、香りのある大きな白色六弁花を開く。花弁はへら形。秋、集合果が開裂して赤い種子が白い糸で懸垂し、種子はかむと辛い。蕾(つぼみ)を鎮静・鎮痛剤とし、香水の原料とする。コブシハジカミ。ヤマアララギ。[季]春。infoseek辞書より抜粋
執筆者:藤崎 道雪