どこまでも自分の奥深くに性(さが)をさらっても滾々(こんこん)と湧き出でてくる。
搾り出しても、理性で煮詰めて吹き飛ばそうとしても、悟性で源泉に蓋をしても何時の間にか漏れ出して蟻の一穴になる。
文化で結晶化しようとも、絶食で根本まで掘り壊そうとしても、私という個性の世界の中に溢れ出し全てを飲み込み、いつのまにか私は性という湖中に沈んでいる。
あれほど嫌悪し、両親や親友までにも苛立ち、罵声を浴びせ、殴り殺し、義憤で脳天が爆発しようとも、性の湖中に浸れば、何とも穏やかな気持ちになってくる。
死の薄膜、思いの強い人が死んだ後に他人との関係に張る精神的な薄膜も、暴力の混乱、レイプや殺しが自らの肉体に向かった後で根源的な他者に触れると生じる混乱も、時、人、空間、芸術などをきっかけに性が安定的な日常生活へと引き込む。
ひりつくような感動も、精神が壊れる歓喜も、眼が暮れる怒髪も、心臓が飛び出す好奇も、地球が凍りついた悲哀も、全てが性の湖中に引き込まれ、穏やかな気持ちなってしまう。
ならば、いっそのこと、その辺の似非詩人の言葉のように「自分を受け入れ」、「苦しまず楽しく」と進んでいけば。
ならば、いっそのこと、古代ギリシャの快楽主義者のように「精神的な快楽だけを」と性があってもブラックボックスにしていけば。
ならば、いっそのこと、世界宗教の後継者による変形のように「性は悪である」と絶対性を持ち込み、単純な二元論で排除していけば。
ならば、いっそのこと、民主制資本主義による肯定のように「欲求こそ発展の始点で、消費こそが性である」と性と欲望の同一視のような衆愚に満足していけば。
ならば、いっそのこと、数々の学歴主義者のように「天才ゆえに理解しうる」というくだらない全能感と、知性そのものを単一に扱う非賢とで、湖中の砂を数えるような作業に没頭していけば。
何故、鰓呼吸なのに窒素と酸素と少しの二酸化炭素の世界の広がりを知ってしまったのだろうか。
何故、性から逃げられないと言うのに性から隔絶した世界の広がりを知ってしまったのだろうか。
何故、斯の様に…
次に動詞を続ければ、また、性が流れ出してくる。
春一番に揺らめく睡蓮のような湖面の上には、個の肉体よりも刹那な広がりがある。
注記:「性(さが)」「滾々(こんこん)」「湧(わ)く」「搾(しぼ)る」「悟性(ごせい)」「蓋(ふた)」「漏(も)れる」「蟻(あり)」「溢(あふ)れる」「苛立(いらだ)つ」「罵声(ばせい)」「浴(あ)びせる」「殴(なぐ)る」「義憤(ぎふん)」「浸(つ)かる」「穏(おだ)やか」「似非(えせ)」「衆愚(しゅうぐ)」「非賢(ひけん)」「没頭(ぼっとう)」「鰓呼吸(えらこきゅう)」「隔絶(かくぜつ)」「斯(か)の様(よう)」「揺(ゆ)らめく」「睡蓮(すいれん)」「刹那(せつな)」
執筆者:藤崎 道雪
食欲と性欲と睡眠欲、そして名誉欲。
個体と社会内の存在として必要な欲求であることは認める。
指折りながら検討してみる。食欲、性欲、睡眠欲、名誉欲、際限なく湧いてくる。湧いてくる事を否定はしない。ただ、湧いてくるように自発的に煽動したり、湧きそうな場所や物事に近づこうとはしないだけだ。捕られないようにしようとか、捕らわれないようにする意識に捕らわれないようにしようとも思わない。
ただ、面倒くさいだけだ。さめているだけだ。捕らわれた自分を奥底で褪(さ)めたように感じるだけだ。否定もしない。肯定もしない。そういう概念枠から外れてしまったのだ。
時々、輝くものに取り付かれ永続したくなる。どんなに安全に気を使っても、食欲、性欲、睡眠欲、名誉欲が決まって邪魔をしてくれる。彼らに対する自分の意識が出てきて、それが可笑しくなったりする。「ああ、まだ残っていたのか」と。苛(いら)つく自分が残っていたのかと、クスリ、とイザベルアジャーニのように微笑む。
浅瀬で幼児やカップルのようにバシャバシャとはしゃぎ回る自分を、大陸棚の方から見上げて微笑んでしまう。微笑が終わると振り返る。続けて一歩一歩、スローモーションのように舞い上がる白砂を巻き上げながら摺足(すりあし)で進んでいく。
太陽光も所有権も家族愛も格闘魂も社会性もドグマも、闇が深くなるに遵(したが)って風化するように粉々になる、その深海の方向へ向かう。
肩甲骨に受ける日の光が仄(ほの)かだからこそ暖かい。巻きあがる砂が時間の感覚を狂わせる。何もかもを押しつぶす水圧の生み出す浮力が押し戻そうとする。意識的に遮断(しゃだん)した肉体と脳の回路を内臓が悲鳴をあげながら接続しようとする。
さっきよりはもう少し口の両端を上げながら微笑む。
彼らを否定しようとは思わない。肯定しようとは思わない。捕らわれないようにしようとか、捕らわれないようにしようという意識に捕らわれないようにしようとも思わない。
彼らは其処にあるからだ。
その内に進もうとは思わなくなる。止まろうとも思わなくなる。意識しようとか、意識しようという囚われを意識しようとはしなくなる。
それらは其処にあるからだ。
ただ、観えている。
ただ、深海の闇が、何処までも潜っていけるような暗闇が観えていている方向へ進むだけだ。
注記:原題は「深海を微笑む」 「豆まき」と対比的な言葉を使ったので連続で掲載。
:題名「爛狂(らんきょう)」は未掲載の作品での造語。字義の通り。
:文中「イザベルアジャーニのように微笑む」は、ものかき部2004年03月16日(火)掲載「 イザベル・アジャーニ 」を参照下さい。
執筆者:藤崎 道雪
ならばいっその事、この全てを支え、惑わせ、喜ばせ、自殺に追いやり、人間の進歩を齎し、人生と言う苦しみの楽しみの言葉も作り出した、この錯覚の総体を打ち捨ててしまえば。
顎を上げて快楽に浸り、ヌラヌラと揺れる肉体を眺め、クルクルと回る舌を合わせ、ロルロルとした粘液で終焉を迎えるその四肢を打ち捨ててしまえば。
打ち捨ててしまえば、ぴちょんくんのように単純な形状と色彩、限定されたイメージに。
打ち捨ててしまえば、ぴちょんくんのように愛嬌と純粋、限定された生物の持つ苦しみの連鎖、個体死の必然、環境への対応限界が解放に。
この日本語の限界にも、この人格の肉体的支えにも、この地球全体の年数にも、原子だけで成り立っているという限界にも、全てにも挑戦できるのではないか。
このくだらない文章の形式にも、そして皮肉を言い立てる、この観念の錯覚にも二重の意味で挑戦できるのではないだろうか。
いや、まさに そうである
いや、まさに そうではない
だから私は言い立てるのだ。
言語ゲームなどとは気が優しい。
所詮ゲームだ。所詮観念内だけの問題だ。所詮原子は関係はない。他の生物は関係がない。
言語ゲームなどとは気が優しい。
ああ、苦しい。
また、堕ちていく。
ああまた、こうして錯覚の総体へ堕ちていく。
飛び立とうと飛び立とうと試みて加速する。
けれども、何時の間にか血糊がべっとりと滲み出て地面へと一緒に引きずり込むのだ。
果てしなく広がる大空が綺麗だ。
永遠に優しくなく、言語ゲームにも染まらず、感情を、理性を、聖性を、至高を決して持たない大空が綺麗だ。
だから、私は。
追記:「惑(まど)わす」、「齎(もたら)す」、「顎(あご)」、「浸(ひた)る」、「眺(なが)める」、「粘液(ねんえき)」、「終焉(しゅうえん)」、「所詮(しょせん)」、「堕(お)ちる」、「血糊(ちのり)」、
注記1:原題は「大空のように」 鬼と福が単純に存在すれば、という願いも文意に沿うので改題。
2:文中の「言語ゲーム」はヴィトゲンシュタインの意に沿っても、単純にしりとりのような言葉遊びにとっても、日本語の構成自体ととってもそれぞれが意味があると思われるので限定せず。
執筆者:藤崎 道雪
また、2日間の休日がやってきた。
2階の玄関へ、闇がかかるように上がっていく足取りが囁いた。
「また、2日間か。何をしよう。何をしたらいいだろう。」
今度は口が呟いた。
最近流行のゲームは、1週間前に買ったばかりだ。週末は家の掃除を必ずようにしている。日曜日の夜にはバスケの練習がある。時には昼間試合があって1日潰れる。デートには時々連れ出したりする。
続けて脳が動いた。
また、2日間の休日がやってきた。
20年も前の燃え怒るだけの夢想は、金と生活と安定という言葉に摩り替えられ、地方のしがない中で仕事が見つかった。意地だけで突っ張って親に反抗するためだけに造って、結局、1つの作品に数十万というちっぽけな金すら誰にも出して貰えなかった。今ならその数十万は1ヶ月、23日間の勤務で軽々と稼ぎ出してしまう。
「夢を金に置き換えたんだ」と最低に嫌いだった大学時代の貧乏人の臭い奴で、顔も俺より数段いけてない男で、もてなくてオタクな背の低い、耳の大きな一重が言いやがった。
今ならやっと反論できる。
「いや、違うね」と。
「いや、違うね。夢じゃあなくただの意地だ。夢想だ。見てみろ。今の俺を見てみろ。この2日間の休日をどうやって過ごすか。どうやって穴を埋めるか、それに気が重いのだから。TVでもいいんだ。本なんかとっくに読まなくなった。漫画はポンチ絵だ。ラジオは聞きながら何をしていいか分らないから嫌だ。腹が出てきて急な運動もしたくない。つまり新しいスポーツをする気はない。大変だし、料理は後片付けが嫌だし、仕事を奪うのも悪い。掃除はきちんとしているし。そうだ酒を飲もう。腹に贅肉がついたっていい。グルグルと頭が回れば、暇を暇と思わなくなるから。ああ、そうだ酒がいい。煙草だっていいや。この仕事着のスーツについた煙草の臭いは実は良い匂いなんだ。公私のけじめとか難しい副流煙とか、肺気腫になって将来咳き込んで苦しいとかそんなのはどうでもいいんだ。将来なんてない。この、またやってきて永遠にやってくるような2日間の休日は全くもって耐えられないんだから。バスケが出来なくなったっていいじゃないか。もう年だ。もう、いいよ。飛べなくなったし直ぐに筋肉が痛くなるし昔のプレイは出来ないし。」
玄関のドアを開けてから、月曜日の朝に出るまでの2日間、いや、2日半・・・か。
どうやって過ごすかなんだ。
「夢なんてなかったんだよ。幻想に過ぎないのさ。」
「若者が何か幻想すると直ぐに「夢」って一括(ひとくく)りにされて、そんな高尚なもんじゃなかったのさ。今の俺を中年ならではの帰宅拒否症なんて括っちまうのと一緒さ。全く持って幻想なんだよ。」
「そういう奴は、そういう女は、そういう、そう大概の95%以上の俺のようなやつは、他人の心の中なんてどうでもいいのさ。本当の、本当の底の、底の底にあるものはどうでもいいのさ。真実!なんて言葉でオブラートでくるんじまう。どうでもいいんだ。そうやって言葉にして安心するんだから。そうやって目の前の俺に掛ける言葉だとか、どうやって優しく言葉をかけよう、とか、自分の感じた怒りを相手に発するだけだとか、気分じゃないけれど社会的道徳とか自分の基準とかを押し付けてえばったり、親密感を増そうと同情したり、とかそんなもんだ。そんなパターンに入っちまうもんだ。」
「だって俺がそうだもの。」
「だって俺が、俺の中にあるものを探ろうとしなかったもの。」
「高校生?ってだけで夢想を言い張ってた。高校生ってだけで受験だけを押し付けられ、反発しつつも結局、その対立の中から出なかったから。国際交流? オタク? 運動?そんな当たり前の逃げ道だって与えられたものだったもの。自分の中の、底の底にあるものを探らなかったもの。」
「誰だって探っちゃあいないさ。もてるのは楽しかった。漫画も運動も、卒業も旅行も1人暮らしも結婚も出世も仕事も何でもそれなりに楽しかった。周りの人に祝福されたり貶(けな)されたりしたから。何だってそうさ。最近のゲームも他人が開発したもんだ。開発者も会社によって、会社も社会的な要請によって、グルグルグルグルと。専制君主国家だって人民は生かしておかなきゃならない。幾ら嫌でもな。結局気づいてないだけなんだ。」
「性欲も本能で誰にでも与えられたもの。食欲も睡眠欲も名誉欲も、高尚なものを欲するのも芸術も何でも何でも何でも。」
「だから、2日間の休日をどうやって過ごすか。どうやって穴を埋めるか、それに気が重いのだ。休日になれば向かい合わなければならなくなるから。無聊(ぶりょう)なんて楽しめるはずがない。ペチャペチャと感情をかき乱すマシーンが居てくれて、そっちを観て苦しめて大切にして、そうやって他人のために生きればいいんだろうな。他人のために生きるのがいいんだ、あらよく出来た人ね、と周りが言ってくれる。昔の偉い人が仏典が経典が宗教が保証してくれる。これも与えられたものだもの。」
階段のタイルには、鼠色に少しアクアマリンが入っている。それが気に入ったから選んだ。
気がつけばあと、2段しか残ってない。
金属の、スキリ、とした黒いドア。縦長の曇ガラスから家庭が毀(こぼ)れている。
執筆者:藤崎 道雪