イザベルは微笑(ほほえ)んでいる。
笑みを溢(こぼ)してもいない。笑ってもいない。高笑いもしていない。
何かへの笑いではなく、春の天気が心に映ったような微笑をたたえている。
唇は、哂(わら)いのように曲がってはおらず、綺麗(きれい)なストレートだ。
眉の接吻が僅(わず)かに上がり、春の風を戦(そよ)がせている。
視線が、遠くの晴天に流れる白雲を追うように斜(なな)め上を包んでいる。
白磁器のような澄(す)んで抜けるような肌と、光沢を発しないほどの黒髪がより一層に、
彼女の微笑に香りをつける。
汚濁に穢(けが)され、自尊に足掻(あが)され、天使に誘惑され、虚無(きょむ)に食われ、疲労(ひろう)に打ちのめされ、諦観(ていかん)と菩薩(ぼさつ)に囲(かこ)まれてもアジャーニは其処(そこ)にいる。
イザベル自身ではない「私」だけのイザベルが其処にいるのだ。
宇宙の中で、微(かす)か過ぎる現象のように、微笑んでいるアジャーニ。
「私」も彼女のようになりたい。
私も消え逝(ゆ)くように。アジャーニの微笑みのように。
執筆者:藤崎 道雪
「俺はお前のそういうところが嫌いだ」
「私はね、あなたのああいうところが嫌いよ」
「そういうお前は大嫌いだ」
「そんなあなたは嫌いなだけだわ」
僕はお父さんが好きだ。
僕はお母さんが好きだ。
僕はお父さんのえばった所が大好き。
僕はお母さんの暖かい所も大好き。
お父さんと一緒にいたいし、お母さんとも一緒にいたい。
だから、お父さんと仲良くする僕とお母さんと仲良くする僕
僕の中でだけでも2人は仲良く一緒に
僕たちは仲良く一緒に
執筆者:藤崎 道雪
最高のパフォーマンスが出せないで落胆し、最高の価値を、
と目をキョロキョロさせ、探し求めない井戸の中で身を守る人々に絶望させられる。
貴方はどこなんだ!
麻薬よりも優れたある行為が、私の平安を世界へと引きずり出してくれる。
モンローよりも美しいある人が、私の平安を歓喜へと連れ出してくれる。
世に産まれた経験よりも強烈な体験が、私の平安を揺れ動かさず、
眼前にあるこの世の物欲、名誉、異性、家族に繋ぎ止めてくれている。
貴方はどこなんだ!
嗚呼、私は此処で最高の価値ではありません。
嗚呼、私は貴方を振り返る余裕などありません。
嗚呼、私はほんの少しで、肉体か精神の死によって吸収されるだけなのです。
欲情もいりません。同情もいりません。正常も清浄もいりません。
貴方がいるのです。
貴方が何処かに、それは、何処でもないあらゆる所にいるのです。
吸収されようとする瞬間にだけ、大空の彼方を見ようとするにだけ、
僅かな流れの隙間にだけ、貴方が感じられるのです。
貴方が必要なんです。
貴方の側に居たいんです。
喜びも悲しみも共にし、一緒に歩いていきたいだけなんです。
貴方の顔を側に感じながら、喜怒哀楽、春夏秋冬を過ごしていきたいだけなんです。
そう、貴方は、取るに足らないほど小さくて、その程度の存在なんです。
貴方が、ネット世界そのもだろうと、同種の異性であろうと、あらゆる欲求の対象であろうと。
ホワイトピンクが私を惹きつけるのは、全身全霊を懸けたこの世の、たったそれだけなんです。
執筆者:藤崎 道雪 (校正H16.5.21)
決して決して、彼女は私という個体の感情の発露ではありません。
個体の根本基底から連続するのが彼女でなければ、
個体が崩壊する時にだけ出現するネオンランプのようなものでもありません。
何故なら、数学的表示が崩壊した時に彼女は生まれこないからです。
何故なら、合理が瓦解しても残るのは情感だけではないからです。
何故なら、朱熹のような理知だけで人が区別出来ないからなのです。
私は彼女を愛していますが、彼女は愛してくれないし、愛してはいるけれど好いてはいないからです。
ジェットコースターに挑むカナブンのように一瞬で肉体は、プチプチです。
個性が好き、などという現代の恋愛至上主義、つまり恋愛の最で馬鹿な、
人の言われたことを自分の保守で肯定するような感情総体を、
どのように弄繰り回しても出て来はしないのです。
闇夜で漣薫る初夏の海辺で、ホワイトピンクの頬がうっすらと色づいている彼女が、
丹頂鶴のように舞っています。
私は、いつかいつか、この場から永遠に立ち去らなくてはならないでしょう。
永劫、帰ってくることは出来ないのですから。
理性でも感情でも聖性でもってしても尚、帰って来れないのです。
合羽を脱ぐように、肉の皮を剥ぐのが先になるのでしょうか。
道先は、晩秋の雪がチラチラ遊ぶ無限の平原のように広がっています。
注記;「漣(さざなみ):日本映画「漣」も意識し使用。」、「薫(かお)る」、「発露(はつろ)」、「根本基底(こんぽんきてい)」、「崩壊(ほうかい)」、「瓦解(がかい)」、「朱熹(しゅき):中国、南宋の儒学者」、「一瞬(いっしゅん)」、「好(す)いて」、「挑(いど)む」、「至上(しじょう)」、「弄繰(いじく)り回(まわ)す」、「闇夜(やみよ)」、「頬(ほほ)」、「舞(ま)っている」、「丹頂鶴(たんちょうづる)」「永劫(えいごう)」、「尚(なお)」、「合羽(かっぱ)」、「剥(は)ぐ」、「晩秋(ばんしゅう)」
執筆者:藤崎 道雪
彼女はただ微笑んでいた。
数学的表示としてではなく、ただ彼女の意思の表れのように観えた。
伝統文化の出身者というだけではなく、女性という属性だけではなく、地上に与えられた数々の関係に束縛されるだけではなく、契約によって強いられる労働としてだけではなく、それら全ての総体としてではなく、ゴールドパープルの唇は両端を持ち上げたのだ。
その行為が、永遠の命を持ち欲望や所属から解放された彼女に当てはまるかどうか、死すべき存在だった時の習慣の残滓かどうか、見えてはいても観えてはいなかった。
彼女は、これからもこれからも。
私という個体は、私を統括する「私」や性としての私や、人としての関係性の中の私や、理知聖に踊らされる、欲望や夢や絶望や善悪や趣向を経たその私が、これからも同じ懐疑の霧に包まれるだろう。
私は彼女を求めるか
応
私が彼女を求めるか
是
私に彼女を求めるか
当
私の彼女を求めるか
笑
私と彼女を求めるか
克
私 彼女
私彼女
彼女
如
注記;「微笑(ほほえ)む」、「属性(ぞくせい)」、「契約(けいやく)」、「強(し)いる」、「唇(くちびる)」、「残滓(ざんし)」、「統括(そうかつ)」、「経(へ)る」、「懐疑(かいぎ)」、「霧(きり)」、「是(ぜ)」、「克(かつ)」
注記弐;「死すべき存在」ラテン語で「人間」を指す。ギリシャから起こった合理主義の伝統を念頭にしているので、使用。
「如(じょ)」女に口で、女と口に従う。つまり、巫女(みこ)の神託に従うを意味する(『字統』参照)。これに現代では、「追いつく」や「どうか?」や「その通り」や「〜の様に」、「要するに」の意味がある。彼女が如になるのは前文全ての意味がある。
執筆者:藤崎 道雪
では、事象に惑わされるのが宜しいのか。
では、金銭に一喜一憂し異性に翻弄され、賞に階級に土地に欲求を刺激される、のが宜しいのか。
あるいは、孔子は言った、聖書にある、コーランが唱える、先人は、という精神性に惑われるのが宜しいのか。
どちらも惑わされるのは同じことで、どちらも自らが捉われることなのだ。
ならばしかし、如何様にすれば良いのか。
欲に捉われず生きれば良いのか、欲に生きれば良いのか、無欲に生きれば良いのか、高度な欲へと昇華すれば良いのか、全ての観念を捨て去れば良いのか。
この矛盾した生命体は、数学的表示されたソフトのように形成出発地点が既にない。インターネット上のウイルスのように、工学的に形成されたロボットのように、目的も初期的な意図も我々の願望すら、明快ではない。ロボットやソフトが生まれ出でて、出でれば出でるほど、鮮明に輝く生命の光。
闇に瞬く光は、益々遠く大きく
我々を帰結の無い苦しみへと、我々を偉大な大空へと、運び去る。
この飛躍感こそが生命の尊厳であるのだ。
事象という空気中の水分に、矛盾が照らし輝きだす七宝の輝きこそが、生命の尊大と傲慢と虚無と下らなさと憂慮と浮遊感と臭骸なのだ。
最底辺にこそ、無邪気が遊んでいるのだから。
注記;「惑(まど)わされる」、「宜(よろ)しい」、「一喜一憂(いっきいちゆう)」、「翻弄(ほんろう)」、「捉(とら)われる」、「如何様(いかよう)」、「昇華(しょうか)」、「明快(めいかい)」、「出(い)でる」、「鮮明(せんめい)」、「輝(かがや)く」、「瞬(またた)く」、「帰結(きけつ)」、「飛躍感(ひやくかん)」、「尊厳(そんげん)」、「七宝(しっぽう)」、「傲慢(ごうまん)」、「虚無(きょむ)」、「下(くだ)らなさ」、「憂慮(ゆうりょ)」、「浮遊感(ふゆうかん)」、「臭骸(しゅうがい)」、「無邪気(むじゃき)」
注記弐;「イノセンス(innocence)」:無罪,潔白,純潔,無邪気,純真,単純,無知,無害 映画イノセンスも意識。
執筆者:藤崎 道雪 (校正H16.3.22)
観念が、観念の総体が押し付けて離さない。
グミのようにぬらぬらとした丸い形状の私の根底の上に、
観念という黒く透明の下敷きが圧(の)し掛かって乗りかかっている。
丸い形状は、息苦しそうにバタバタとではなく、細胞のように伸ばされうにょうにょと喘(あえ)いでいる。
その観念を通してしか、黒い下敷きを通してしか観えてこない、この世界。
下敷きへの乗りかかりでしか重さや形が解らないもどかしさ。
生々しずぎる香りや食感が伝わる気はしないのだ。
下敷きをカントのように唯一絶対の定め、と思い込めば良いのだろうか。
けれど、超然と下敷きを拒否した人々もいる。
下敷きを持たない生活をさせてもらっている赤ん坊もいる。
もっとグミの外皮のような生物学に基づいた膜に取り換えられば、と思う。
気分のまま、生きられたら、それは人間ではないのだが。
私のまま、生きられたら、それは神でしかないのだが。
世界を支配する全能感が現実になったら、それは夢と変わりはないのだが。
理を理として認識する観念と、理そのものの観念を生み出すグミの外皮と。
情を譲渡して成り立たせる肉体と、肉体を動かす「私」という絶対的な独尊と。
聖を聖として成り立たせる理情と、二元という区別の先を塞(ふさ)ごうという生得的で常識的で狂気を欲する気違いと。
3つに気がつかない、3つに気がつかない、3つに気がつかない、
そのことの安逸(あんいつ)が、私の前を漂(ただよ)い、私を誘(さそ)う。
誘われて社会不適応者になって病院に行くもよし、留まって観念の総体に虐(いじ)められるもよし、
超然として捨て人として探求するもよし、何かの欲のために生きるもよし、
ただ、見つめ、三元のまま永遠に永遠へ赴(おもむ)くも良し。
私は理解したいのであって、
次に理解して欲しいのであって、
次に理解の初動因に還ったのであって、
最後には初動因と、初動因を分析する観念の総体に飽(あ)きて、
新しくチャレンジしたいだけだ。
次は何だ。
次は何処だ。
次は何時なんだ。
次は人間なのか。
次はどうして飛び込むんだ。
あの山は、まだまだ煙(けぶ)り、私の心を惹きつけている。
桶火(おけび)の灰になってからなのですか。
強風に載せられて飛んで行くしかないのですか。
早音(さおと)への憂慮(ゆうりょ)と誘惑が、まだ、残っているからなのですか。
注記 「絶巓(ぜってん):山頂の意味」
執筆者:藤崎 道雪 (校正H16.3.5)
背後の雲に、夏の終りを感じていた
お盆を過ぎて広がり出した入道雲に
ねずみ色は頭上を超えて一気に、明度を上げていく
雲は徐々に塊も失っていき、輝く霧のように粉砕されていく
水平線上に観える5階建てのコンクリート、土手に架かる銀色の橋は
燦々とした霧に包み込まれながら、境界が触かされ始めていた
目蓋が下がり、睫毛のフィルターが思いがけず下がった。
まだ、あそこに行くのは早すぎるというのか
問いが明度を追いかけていく
何度も投げかけても、輝きに満ちた彼岸は返してくれない
残暑の汗が体にまとわりついて、肉の匂いと重さを意識に注ぎ込む
左に曲がらなければならないのだよ、と心はこずるく後から囁いた
赤々しい色味に染められ、善悪という醜怪を内包した肉臭骸
まだ 早過ぎるというのか
橋の銀色のように色味を消し、輝く液体の中へと気化するのは
まだ 早過ぎるというのか
注壱:「早音(さおと):造語。語彙のそのままの意味」「燦々(さんさん)」、「触(お)かす」、「睫毛(まつげ)」、「彼岸(ひがん)」、「輝(かがや)き」「囁(ささや)く」、「醜怪(しゅうかい)」、「肉臭骸(肉しゅうがい);「臭骸」に「肉」をつけた造語」、「滅(めっ)す」
注弐:「お盆、明度(冥土)、目蓋が下がる、彼岸、消す、滅す、気化」などは、1つのイメージにつながる。それが「早音(さおと)」へのイメージ 最後の「液体への気化」は、「液体への帰化」も連れる語彙(ごい)。
注参:「触(お)かす」は、「觸(しょく)」の略字で、角をもって争う意味。物に触れることや法に触れて犯すことを意味するので、抽象的な意味も含む。また、蜀は牡(おす)の獣の形であるから、自然界にある厳しさ、恐ろしさを含む。この場合、無限に遠くからあるように見える輝く霧が、手前にあるコンクリートの建物や橋に触れて取り込もうとしていう点、そして輝く霧が人間を超えた自然の厳しさの投影という点、さらには自然の厳しさが生み出す彼岸の存在形態という点を示そうとした。そのため敢(あ)えて、「犯す」や「侵す」ではない「触かす」を使った。
執筆者:藤崎 道雪 (校正H16.3.5)