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●執筆者: 藤崎 道雪 「こいすの聖母」(加筆修正11月28日)
「こいすの聖母」(1)
「こいすの聖母」(2)
「こいすの聖母」(3)
「こいすの聖母」(4)
「こいすの聖母」(5)
「こいすの聖母」注−言葉の読み方や意味など−
●執筆者:いおり「庭」
「庭」(加筆改訂02/11/20)
【執筆条件】
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【1】同一キーワード使用
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ロイヤルパープル、毛布、ゆび
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【2】同じ最初と最後の一文使用
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最初:雨水が樋に跳ねる音が聞こえた。
最後:雨水が樋に跳ねる音が聞こえる。
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【3】同一主人公名(人間に限らず)使用
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ユズ
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「こいすの聖母」付記 −言葉の読み方や意味について−
・「樋」(とい):屋根を流れる雨水を受けて、地上や下水に導くための溝、または筒状の装置
・「跳ねる」(はねる)、・「桶」(おけ)
・「中心窩」(ちゅうしんか):眼球の網膜上で、色を感じる視細胞の錐体(すいたい)が密集している場所
・「耀き」(かがやき):「曜(かがや)き」は日の光を指し、火光を指す。つまり、ラファエルのような太陽神信仰=新プラトニズムではない視点で、観ている。
・「虹彩」(こうさい):眼球内に入る光量を調節し、中央の円形開口部が瞳孔(どうこう)である。一般に東洋人は茶褐色で、欧州人は明るい緑みである。
・「僅かな」(わずかな)、
・「勤しむ」(いそしむ):「勤勉である」と「忙しい」の意味。
・「厭く」(あく):「飽く」よりも嫌気が差すを強調した言葉遣いで使用。
・「剥き」(むき)、・「煤汚れ」(すすよごれ)、・「覗く」(のぞく)、
・「享楽」(きょうらく):おもいのままに快楽を味わう様子。
・「稚拙」(ちせつ):未熟で幼稚な様子。漫画をそう見ている。漫画という形式だけを見て判断する形骸主義で、精神的な老化現象を表すために使用。同内容は他にも多々あり。
・「短絡」(たんらく):物事の本質を考えず、原因と結果、問いや答えなどを性急に結び付けてしまうこと。漫画=子供、稚拙など。
・「挫かれ」(くじかれ)、・「燻る」(くすぶる)、・「溢れる」(あふれる)、
・「湛える」(たたえる):「液体を満たす」と「表情を浮かべる」の意味。
・「曙色」(あけぼのいろ):夜明けの空の色。黄みの淡紅色で東雲(しののめ)色とも。
・「躑躅色」(つつじいろ):ツツジの花のような鮮やかな赤紫色。
・「諦観」(ていかん):全体を見通して、事の本質を見きわめること。悟りあきらめること。超然とした態度をとること。
・「惹く」(ひく):関心を引かれるで、魅了されるの意味で使用。「引く」は一般的な意味で、「牽く」(ひく):物理的で受動的な意味で使用した。
・「頬」(ほほ)
・「観る」(みる):農耕儀礼に由来し、呪的にその対象を支配するの意味があり、女性的な束縛を意味する。つまり、主体と客体で分けた際、主体に意識がある意味で使用。「見る」は、一般的な意味で使用。
・「慈愛」(じあい)、・「溺れる」(おぼれる)・「阻まれる」(はばまれる)
・「眺める」:遠くをみることを眺望というので「観る」に近い言葉と捉(とら)え、受動性を含んだ場合に使用。
・「棚」(たな)、・「推奨」(すいしょう)、
・「テトラード」:色彩調和論の秩序の原理に基づく色の4色の選び方。19世紀以前は、クロームグリーンやビリジャンのような緑らしい絵の具がなく、近代絵画でよく見られる赤-黄-緑-青という配色は殆ど見られなかった。
・「イッテンのヘクサード」先のテトラードに白と黒を入れたもの。単にヘクサードは、6色配色を意味する。
「拙い」(つたない)、・「纏まり」(まとまり)、・「益々」(ますます)、
「膾炙」(かいしゃ):[膾(なます)と炙(あぶり肉)は味がよく万人に好まれることから]広く世の人々に知れわたっていること。
・「衝動」(しょうどう)、・「盲目」(もうもく)・
・「荘麗」(そうれい):同音語「壮麗:規模が美しく」に、「厳(きび)しさ」や「洗練」の意味を足すため「荘(おごそ)か」を使用した。造語。
・「足蹴」(あしげ):足で蹴ること。ひどい仕打ちであることを比喩的に言うこと。
・「惰眠」(だみん):なまけて眠ること。何もせずのらくらと日を暮らすこと。
・「アリタリア航空」:イタリアの航空会社名 アドレス:http://www.alitalia.co.jp/
・「トランジット」[transit] :通過の意味で、目的国へ行く途中に他国の空港に立ち寄ること。また、その乗客。
・「動因」(どういん):物事を引き起こす直接の原因。動機。
・「古典主義」(こてんしゅぎ):古代ギリシャ・ローマの作品を規範とし、理性・調和・形式美を追求する芸術思想。美術ではルネサンスや17世紀の仏画家プーサンなど描く作品に見られるが、普通、18世紀後半から19世紀半ばにかけて興った新古典主義を指す。クラシシズム。
・「稀有」(けう):非常に珍しいこと。あるいは、不思議な、意外なこと。
・「偏り」(かたより)、・「寵愛」(ちょうあい)、・「捌く」(さばく)、
・「現象学的還元」(げんしょうがくてきかんげん):意識に直接的に与えられる現象を記述・分析するフッサールの哲学で、現象そのものの本質に至るために、自然的態度では無反省に確信されている内界・外界の実在性を括弧に入れ(エポケー)、そこに残る純粋意識を志向性において捉えようとすること。簡単に言うと「先入観を捨てて、ありのまま見よう」ってこと。
・「踏む」(ふむ)、・「対峙」(たいじ)、・「痺れる」(しびれる)、・「巡らす」(めぐらす)、・「可笑しい」(おかしい)、・「微笑む」(ほほえむ)、・「鯖臭い」(さばくさい) 、・「歯痒い」(はがゆい)、・「擦る」(する)、
・「銀鼠色」(ぎんねずいろ):明るい灰色。銀は明るいの意味
・「グラデーション」[gradation]: 写真・絵画などで濃淡を段階的に推移させること。ぼかし。濃淡法。
・「素鼠色」(すねずいろ):中明色の灰色。色みがないという意味で、素。銀鼠色よりも暗い。
・「青磁色」(せいじいろ):明るい青みの緑色。支那磁器に由来。
・「花瓶」(かびん)、・「挿す」(さす)、
・「ピラカンサ」:バラ科トキワサンザシ属の植物の総称。橙黄色や紅色の丸い実が密生してつく。
・「呟く」(つぶやく)、・「鼓動」(こどう)、・「漠然」(ばくぜん)、・「悟る」(さとる)、
・「瑞々しい」(みずみずしい):光沢があって若々しい。
・「振り撒く」(ふりまく)、・「浸透」(しんとう)、
・「けだし」:�,泙気靴�、確かに。�△發靴�すると、あるいは。��もしも、万が一。�い�およそ、おそらく。
・「矮小」(わいしょう)
・「神の命令、預言、使命、天命」:「神の命令」は全員に聞こえるような直接的な命令を、「預言」は命令を1人に授けられる言葉を指す。「五徳」は「智・信・仁・勇・厳[孫子]」など、「十過」は、韓信が蕭何に五才十過を語った内容で、「勇があっても死を軽んじるもの。急いで心落ち着かぬもの。利を求めて貪(むさぼ)るもの。仁があって人を殺せぬもの。・・・」である。前の2つは神からの受動的な態度を示すが、対して書くと後者は人の完成によって天に近づこうという能動的な、現世的な態度と見てとれる。この場合は、それら全てを肉体的な感覚に根ざすとみて、歴史的に蓄積されてきたあらゆる態度、という意味で使用している。
・「叩き」(たたき)、・「霧散する」(むさんする)、
・「形骸」(けいがい):元々は、「人や動物の体」の意味。転じて、「内容・意義を失って形だけが残ったもの」の意味になった。
・「外延」(がいえん):論理学で、概念が適応される事物の集合。この場合は、水蒸気の適応される範囲を指す。
・「辿る」(たどる)、・「脆弱」(ぜいじゃく)、
・「悟性」(ごせい):物事を判断・理解する思考力。この場合は、「判断せざる」なので、理解の意味のみになる。
・「司る」(つかさどる)、・「遥か」(はるか)、・「海月」(くらげ)、・「佇む」(たたずむ)、・「牽っ張る」(ひっぱる)、
・「四肢」(しし):両手と両足。
・「同化現象」(どうかげんしょう):色彩学上の用語では、フォン・ベゾルト効果とも。1つの色が他の色に囲まれた場合、他の色に似て見えてくる現象のこと。
・「凹み」(へこみ)、・「包摂」(ほうせつ)
・「瑠璃色」(るりいろ):瑠璃は仏教七宝の1つラピスラズリ(ウルトラマリン)。青い宝石で、西欧ではラファエルロブルーとも言い、キリスト教図像学では、天の真実を象徴する聖母マリアの色。ちなみに赤は天の聖愛の象徴である。
・「据える」(すえる)、・「一足短」(いっそくたん)、・「髄液」(ずいえき)、・「雑踏」(ざっとう)・「暗澹」(あんたん)、・「潜る」(もぐる)、・「栓」(せん)、・「撫でる」(なでる)、
・「末那識」:(まなしき):仏語で、我に執着して存在の根拠となる心の働き。意識がなくなった状態にも存在し、迷いの根源とされる。
・「シースノー」:深海に降る雪のようなプランクトンの死骸のこと。この場合は、末那識が自分の行った行為によって共に心の内に蓄積されていく、という意味で使用。印度ではこの蓄積されたカルマ(業)によって来世に生まれ変わり先が決まると考える。
・「狂う」(くるう)、・「肩甲骨」(けんこうこつ)、・「不恰好」(ぶかっこう)、
・「真赭」(まそお):天然の朱色。中国の辰州で産する辰砂色とも言い朱色の顔料として古くから用いられてきた。有毒。日本では赤土の素焼きの色。最も好きな色でもある。
・「ロゴス」(Logos;ギリシャ語):言葉、意味、論理、理論、理法など多義的な言葉。キリスト教では神の言葉。また、それが形をとって現れた三位一体の第二位格であるキリスト。ロゴス-キリスト。
・「撚れる」(よれる)・「無粋」(ぶすい)、・「可憐」(かれん)、・「儚い」(はかない)、・「福与か」(ふくよか)、
・「天真」(てんしん):自然のままで飾り気のない無邪気なこと。
・「強烈」(きょうれつ)、・「足枷」(あしかせ)、・「砕け」(くだけ)、・「混濁」(こんだく)、・「顧みる」(かえりみる)、・「足掻く」(あがく)、・「踠く」(もがく)、・「屈辱感」(くつじょくかん)、・「明瞭」(めいりょう)、
・「予震」:本震の後に起こる余震ではなく、本震前のゆれを指す。
・「哀愁」(あいしゅう)、・「喧騒」(けんそう)、
・「供犠」(くぎ):神に生贄(いけにえ)を供える儀式、またはその生贄。ジョルジュ・バタイユの思想では、無為への生贄こそが人間の至高へ到る方法で、重要視された。
「ああ、そうか」
ロープ際まで来た時に誰かが音を出した。
私が出したようだ。
「ああ、そうか」
続けて出したのも、私自身のようだ。
何がそうなのだろうか。絵に集中出来ていないでいる。
都会の雑踏に阻まれて地下水に潜れずに、「椅子の聖母」を見てしまっている。
先のようにしてみても、いかに力を抜こうとしても、主体的ではなく見てしまっている。何かに邪魔されて、地下水にまで降りて見ようと出来ていない。見ているのに見てしまっている。完全な客体でもなく主体でもなく、客体の主体でもなく、理知的に統御できていない主体の客体とでも言うべき誰かが、ロゴスを出していた。
絵画の前にあった白い撚れて太いロープは視界から消え、黄金の無粋な枠も消そうとして必死に見ようとした。何かがゆらゆらと浮かび上がってきた。オレンジ色で桃色の何かが。
「ああ、そうか」
今度は私がその音を出した。
これは、いや彼女は、いや聖母は、別れた女性に似ているのだ。いきさつが多かった中で子供産んで、途端に、可憐さと儚さと引き換えにしたあの目になった女性だ。卵形の顔に福与かな長髪、小さな唇、同身長で私より長かった手。長いこと忘れていた1つ1つを、直観に照らし合わせるように眺め出した。
「そうか、そうか。」
1つだけ異なるとすれば引き締まった鼻だけで、全く彼女に似ていた。高知の馬路村出身なので、一時、名産品の「ユズ」というあだ名をつけられていた彼女だった。上半身に対して下半身が豊かで、すらりと背の高いのにも関わらず、可憐さと天真さが同居していて、30幾許かを超えていたけれど強烈に惹かれていった彼女。仕事の乗ってきていた時期に出会い、足しになっていたというのに、子供を産んでから足枷になった思い出も浮かび上がってきた。
「ああ、そうか」
聖母の持っている賢さと情愛の深さは、足枷として発揮されたのだな、と理知的な私が続けてその音を出した。今になって、仕事の切り離れた老人になって、老害で理性的な知識など砕け散ってきたヨボヨボになって、やっと今、彼女の足枷が解った。遠視した絵画のように合理性を超えた何かを、老人ホームでの意識の混濁が理性や重々しい知識をぶち壊して、やっと性の持つ性へと、素直に触れられるようになったのだった。
私は、ヨハネだった。
聖母と聖子の右横にあって、2人に全く顧みられないヨハネ。ラファエルロの聖母子の中で2人が抱き合い頬を寄せているのは「テムピの聖母」と「椅子の聖母」しかなく、そして最も接触している「椅子の聖母」。そして2人とも視線を合わせないという絶対的な情愛で結ばれている唯一の1枚は、ユズと息子の象徴だったのだ。どのように足掻いても踠いても、最もシンプルな正三角形の内部には到達出来なかった。私がどのように愛情を注ぎ込んでだとしても、子供の前に崩れ去ったという敗北感は、三角形の一点でしかないという屈辱感は、身を任せる気持ちを失せさせていったのだった。聖ヨハネは、聖子がロゴスであったと、本性上神ではなかったが神によって神的な地位に高められたのだと、明瞭に語った。赤子をそのように解釈しようとして、けれどそうした理知的な三角形は、垂直線に後から合わせた正三角形でしかなかったのだ。
私の体は、小刻みに震え出した。
また、精神的な主体が、物理的な客体に影響を与えようとしているのか、いや、その2区分が、理知的な2区分が崩れ出そうとする予兆の予震なのかもしれない。
「椅子の聖母」に心底で惹かれていたのは、私がヨハネでしかなかった哀愁と、その三角形を縮めてぶち壊そうとした過去の思い出を、象徴していたからだったのだ。黄色の三角形をずらして、イエスの位置を聖母から永遠に引き離そうとした。けれど、ずらせたのは服装に過ぎず、黄金の三角形よりも4色配色のテトラードの方が強くて、聖母子は情愛を保ったままだった。パウロのようにマリアの後を受け継いで、死後何十年後に、宗教を創立することも出来なかったのだ。過度の期待と服飾しか接点がない副役に結果的に甘んじるしかなかったヨハネが、この私だったのだ。「椅子の聖母」はありありと見せ付けている。
この私は、天使の輪だけで聖母とつながれ、三角形で情愛の垂直線を支えるしかなかった。そして突っ走り、薄暗い排ガスの被ったような老人ホームに辿りついて、止まった。それが解ると、ゆっくりと意識の外延は立ち枯れてきて、肩が数センチ落ちた気がした。
頬に生暖かい流れを感じた。脳の髄液と胸の地下水が混ざり、溢れ出したかのように止めどもなく流れ出した。先ほどまで、原因がわからずに絵に集中出来ていないでいたけれど、流れ出した地下水が都会の喧騒を押し流し、裸の私やっと地下水脈へと戻ってこられた。ロープの前にいる女性が一旦は驚き、そして「分るわよ。」という微笑を意識して出した。漁婦を思い出したが、それも体液が押し流し、視界には狭まりだしTVのノイズのような影が左右から差してきた。
「ああ、そうか」
また、誰かがその音を出した。
もう、その形は知っている。
視界が暗くなり、供犠としての小刻みが揺れる中で、音だけの世界が広がってきた。
廊下に垂れる涙滴だろうか、それも肉体が、精神的な興奮を、刺激を、欲求を、欲望を染み渡らせ、絶対的な暴力に変化させてしまったのだろうか。震えながら徐々に暮れていく世界の中で最後の感覚が消えていき、流れていきだす。
雨水が樋に跳ねる音が聞こえる。
ささっと食事を済まし、財布とハンケチだけを持って、さっさと、美術館へと歩き出そうとした。不思議と鼓動や緊張はなかった。絵画には何かがあるのだ、というえも言われぬ漠然感が肉体を磁力で引き寄せようとしていた。自発的に向かってきた勢いが、絵画からの引力にはっきり換わったのが、朝起きてからだった。肉体はもう、精神的な興奮を、刺激を、欲求を、欲望を染み渡らせ、絶対的な暴力に変化させてしまったのを悟った。この老体が過去、青年として瑞々しさを振り撒いていた事など誰が信じようか。肉体の絶対的な暴力は、成長させそして奪っていく。最後の最後には全てを奪っていく。その高みに異常な精神的興奮は浸透していったのだった。この引力は、永久磁石が一生涯磁力を失わないように、肉体が滅び去るまで作用しつづけるだろう。けだし、精神的な防壁を解いた就寝前や運動の後、風呂上がりには必ず浮かび上がってくるだろう。
フィレンツェに連れてきた精神的な欲求が矮小に縮んでいったけれど、空いた心に何も入れずに部屋の鍵を掛けた。一歩一歩進む足は、動く歩道の上のように無駄も疲れも無く、地図を暗記しているピッティ宮殿に向かっていく。神の命令、預言、使命、天命という肉体の絶対的な暴力を象徴するかのような言葉が、消えては浮かんできた。確かに行かなければならない、という暴力に、何故、どうして、如何に、利害、五徳、十過などは叩き壊され霧散していく。それは絶対的な暴力を何とか現世に留めようという形骸にしか過ぎないのだから。外気の寒さに反応してか、暴力の喜びに反応してか、ほんのりと蒸気が世界に満ちていき自己の拡大が感じられるようになった。円形に放射していく蒸気の外延が「椅子の聖母」のある場所まで辿りつくと、道を曲がり左右に体を向けても常にその地点の方向と距離が意識の上でザワザワと波立っていた。
もはや、そこには精神や理性という脆弱な形は入り込む余地がなくなっていた。判断せざる悟性のような形だけが、道路や建物の認識し、入館料の支払いを僅かに司った。
見えていけ、見えていく、見えてきた。
飾られている場所は既に頭に入っていたせいだろう、殆ど無意識のように引き寄せられていった。他の絵画は壁紙によって色彩が強調されるか、弱められるかしているのに、ヘクサードを使った「椅子の聖母」は、壁紙や内装に強弱をつけられることなく完全に独立して、絵画の歴史や経緯、そして画法や構図などを遥かにして1つの高貴さを際立たせていた。理性的な思考で理解し味わう歴史、画法、構図などは認識して始めて優美さや感銘を与えるが、ぼんやりと海月のようにふわふわと寄せては還す波の上にあって、牽っ張られたのは、色彩の艶やかさであった。
遠くから眺めると、聖母の肌と聖子イエスの四肢はターバンの明るく白と同化しているように見え、椅子の装飾棒とヨハネの暗めの肌、ターバンの文様と上に巻かれた天使の輪が黄色に見えている。文様の黄色系である茶色が、ターバンの白さと同化現象を起こして明度を上げ、遠視には黄色に見えるのだ。ターバンの文様と天使の輪を頂点に、椅子の装飾棒と、ヨハネの肌と同じくその上にかかる天使の輪が左上がりの正三角形作り出し、聖母子の右下への斜辺を暖かく支えるように挟み込んでいる。ターバンから底辺へと下る垂直線が聖母の体の中心線と重なっているように観えた。また、中心線だけを観れば聖母の肉体は、聖子を受け止めている右下へ傾いた凹みのようにも観え、首と足の側辺の中心に聖母子の腕が平行に並んでいるように観える。何重にもなってイエスは聖母の手よってしっかりと受け止められながら、色彩では服の黄色によって正三角形に包摂されている。さらに、黄色の服は垂直に下っても聖母の下半身である瑠璃色の左右どちらにずれることなく中心に腰を据えている。
ラファエルロはルネッサンスを体現したその人であり、弟子たちに作品を任せるようになって低下したギリギリの時代に作成されたとされ、それゆえ、直前に作成された「椅子の聖母」は、芸術の最高潮と言われている。色彩の観点から見られてきた、いや、構図や画法など合理的に分析されてきた芸術の最高潮という評価は、文章化されてきていなかったけれど浮遊する遠視によって現れてきた黄色の三角形や垂直線をも含んでいたのだろう。ルネッサンスらしいヒューマニズムの最高度を持つとされる作品は、世紀を超えて地域を超えて、言語を超えて、聖母が人間らしい母の情愛と感じられる。ただ、聖母もまた、構図や画法や体のバランスを考えて合理性や理性や神の似像を意識した姿勢ではない。現実の女性はそのような知性から最も縁遠くあったとしても、その到達点は普遍性を有し、時空を超えて情愛を感じさせている。それは知性の対象である両目や構図などを一足短に飛び越えてきたのだろう。だから、聖母に現実的な深い母の情愛を、時間空間を超えて感じてきたのだろう。
その両目や頬の接触だけではなく遠視して初めて、聖母子の深い情愛が広がって飛び出していた髄液が今やっと、頭部へ戻ってきた気がした。海月のように浮遊する意識が黄色の配色によって、やっと、上陸してきたようだ。私は数秒だろうか、佇んだ。
3ヶ月間もの間、私を惹きつけてやまなかったのは、無意識にあったその三角形だったのだろうか。今朝から磁力を生じさせ、トランス状態に入り込ませたのは、色彩の正三角形と垂直線、凹みと平行線だったのだろうか。だからこそ、私は遠くから「椅子の聖母」を眺めているのだろうか。心の底はこれで全て消え去ってしまったのだろうか。1つのミッションは終了だったのだろうか。
自分自身の心を聞くために、呼吸を整え、体を垂直にして力を抜き、十数年ぶりに目を閉じて胸の奥に裸で入っていった。
「いや、・・そうだ、・・けれど、・・・」と無駄な知性の世界のざわめきが聞こえてきたが、都会の雑踏が無音になっていくように、遠のいていった。都市の暗澹とした地下道へ潜っていくと、水が溢れ出し耳に栓をして顔面に冷たい流動性を撫で付けてきた。底に何も動きがなければ地下水が静穏だったのだが、末那識のように降り積もったシースノーが微音を立てながら音波を発していた。海底から聞こえるスクリュー音のように、「ゴォーォーン・・・・ゴォーォーン・・・・」と定期的に重低音で身体を貝が閉じるように回折してきた。
何であるかは分からなかった。色彩が惹きつけて来た1つであったのも確かな理由だった。美術史家達の知識や構図の解析、歴史的経緯や影響関係も少々惹きつけられてきた。けれど、それ以上に私を魅了してきた何かが、あったのだ。
あと数歩、あの先に。
そして、最も遠い一歩も要らない胸の心底に。
体に力を入れて「椅子の聖母」に近づけば、はっきりする何か、何ものかがある。
老いて足腰も不十分になった私を、狂わせた何かがあるのだ。
地下水から浮上し頭上へと舞い上がった。
目をゆっくりと開き、体に力を戻した。腰が尻の力で重心を数ミリ上げ、上半身も肩甲骨を閉めた。視界が広がり黄金で出来た不恰好に大きい額と、後ろに広がる薄い真赭色の壁紙に腰から下の水色だった。
私は数歩すすんだ。
アリタリア航空で直接イタリアに乗り付けても良かったのだが、何となく、何となくだが、直接過ぎて理知的過ぎて、聖母像を見に行くには合わない気がし、トランジットを選んだ。パリのドゴール空港で乗り換えの間、3時間の休憩が持てたので、軽食コーナーでサンドイッチと紅茶を頼みながら、「椅子の聖母」のおさらいをした。それが、これまで私の中を3ヶ月間も占拠しつづけ、突き動かしてきた動因に対する敬意の儀式に感じられた。
最盛ルネッサンスを代表する画家は3人いる。
レオナルドとミケランジェロとラファエルロ。ダビンチは古典主義の完成に手を貸し、ミケランジェロは古典主義を解体するマニエリズモを生み出し革新面で著しいが、2人の素晴らしい点を独自に吸収した総合的な芸術性で、ルネッサンスを最も代表する画家がラファエルロである。代表作はローマにある「アテナイの学堂」で、壮大様式の達成として最盛ルネッサンスの作品の中で際立っている。この作品の後、多くの依頼がローマ法王庁から来るようになって、肖像画や宗教画を多数残している。また、彼の自画像を見ると、温和でデリケートな感覚を備えた容姿で、貴族的趣味や礼節を完璧に身に付けていて、生前から人気を集めていた稀有の人であった。理知的なレオナルド、情熱的なミケランジェロのような偏りがなく、調和のとれた作風はラファエルロのこうした性格に由来しているという。しかし、カトリックの寵愛と建設関係の仕事に従事したり、作品に50人を超えた弟子達を多投するようになると、ラファエルロの作品に対する評価が絶対的でなくなってくる。それが丁度、「椅子の聖母」を描いた1515年以後でであった。1520年に37歳で生涯を熱病のために閉じてしまったラファエルロは、1514年、15年が芸術的に最高潮と言われている。作成時期は明確ではないが、様式などから「椅子の聖母」は丁度、この時期に作られたらしいと見られている。
ここでノートを閉じて、2杯目の紅茶を頼みにいった。本当にフランス人というのは聞いていた通り頑固で、英語ですら答えようとしはしない。漁船から降ろされた魚を捌くような黒ゴムの前掛けをしている太っちょの小母さんは愛想がなく、視線を合わせずに、もっそりとフランス語で答える。
「ウィー、ムッシュ・・・」
むっつりしながら、国際空港だというのに全く愛想がない国民性だ、と思った。絵画そのものの歴史を振り返るのは、作品を観てからにしようと考えていた。知識で感情が曇らないように、現象学的還元が出来るように、他人の評価や知識ではなく純粋に作品が私と向かい合うように、と思って。これもまた、大阪で決めてきたルールであった。ルールを決め、1つ1つの手順を踏んで偉大なものに対峙していく時に生じる快楽は、若い頃から体中を痺れされてきた。徐々に老いて他の快楽が低下してくると益々、私の脳を占領した。
ビニールの中にはいったレモンを2杯目の紅茶に垂らす時に気がついた。そういえば、今回も無意識の内に人生の活きて来た経験が支配していたのだった。思えば、老人ホームで出不精になっていたのも偉大なものへの対峙が見出せなかったからかもしれない、と続けた。
ならば、対象は偉大なものならば何でも良かったのか。今から見に行こうと向かっているあの絵画でも良かっただろうか。いやそうではない、と心の底が「コポリッ・・・・」と呟いた。何かある、何か初めての何かがある。仕事はまだ来ていたのだから、けれどあの時、仕事に偉大さを、魅力を感じなくなって引退を決めたのだから。それを打ち破る何かが、あの母子像にはあるのだ、と目を細め思考と巡らせた。視線を鋭くしたようで、どうもその先には漁船がいたようで、プィと横を向いて、無言の答えをよこした。アテンダントといい、つくづく人のあやというものは可笑しくて可笑しくて、微笑ませてくれる。
その日の夜はフィレンツェにバスで入った。ホテルの内装も、道路も町並みも皆、鮮やかな茶色で古びた良き時代を懐かしがっているように見えた。気分は悪くなかったが、合理的でスピーディーな老人ホームと何処か似た匂いがして、ちらりと日本を思い返した。部屋に入ると荷物も解かず、靴も脱がず、テレビも点けず、ノートに飛びついた。湿度の高い鯖臭い日本が染み込んだような街に来て、「椅子の聖母」が近くにあるというのに見に行けないという歯痒さ、何度も何度も逃げるように読み、端が擦り切れてきた文字列を追ってしまった。
1回読んでは靴を取って脱ぎ、2回読んではオーバーをとり、3回読んでは水を摂った。落ち着きを取り戻し、風呂をいただき、入館時間を確かめて早目に床をとった。
朝起きると、カーテンを閉めなかったせいで鈍い曇天の日差しが、窓際にある銀鼠色のソファーにグラデーションした素鼠色の影を降ろしていた。手前のテーブルの上に載っている青磁色の丸い花瓶に挿された数本のピラカンサは、ソファーの上に赤紅色を広げていた。
「腹が減った」、起きて最初の言葉であった。
かれこれ空港のサンドイッチから18時間近く食さなかった。ホテルの料理らしく高カロリーで野菜の少ない料理が所狭しと居並ぶ朝食バイキングには、高級感を出したいんだが誰にでも入って欲しいんだか分らぬ日本のホテルを思い出した。画一性という安心感で塗りつぶされる平和な世界の性は、民族を超えるようだ。日本が彼らをただ真似ただけなのか、などというどうでも良い思考を、いや、「民族を超えるものにしか訴える以外方法はないのだったな」と仕事を思い出して2言目を呟いた。久しぶりの海外で、往年の勘を思い出してしまった。
「椅子の聖母」は、トンドと言われる円形画の持つ表現の可能性を極限にまで追求した絵画だそうだが、私は何かそれ以上のものがあるように感じられた。本の最初にあったモナリザやピエタを眺めてみる。モナリザは深くともけれど、やはり一面的な感情しか引き出されない。ピエタは何か遠い世界の話がして、神秘性のような美しさしか感じられない。この絵は母性的な愛情を描いていながら、荘厳さや形に出来ないでいる色々な感情で惹きつけられる。何なのであろうか、結局閉館時間までそんな思念をグルグルと回したり、絵画を眺めていたりした。
出不精で勧められても施設から出なかった私が翌日も外出するというので、職員の人は珍しがったし、「女が出来たんじゃないか」と言う奴もいなくはなかった。11月の消灯後、しょんべんを出そうとちぢみあがっている時に、他の写り方や解説も読んでみよう、という気になったのだ。同じ図書館の絵画の棚に当たってみようと思って外出願いを翌朝、食事前に提出した。それから、間もなくして府立図書館などにまで出かけていった。職員の人が推奨する趣味には当たらないと思うが、歩くすら大儀だったのが気楽になり、平気で新しい場所に行った。調べて見ると覚えきれなくなったので、ノートを作りメモをした。聖母子像の題材は、右のページと同じ恋人フォルナリーナという説や、偶然田舎を通りかかった時に見かけた母親と2人の子供が題材であるとか、色々あるらしい。けれど、それらは全て神話で成立事情は何一つ分かっていないというのが、美術史上の定説らしい。
そんな絵画の素晴らしさには関係ない知識もあれば、勉強を始めた色彩学から観てみると、赤、黄、緑、青、という秩序だった法則に乗っ取っているらしい。4色配色をテトラードというそうだが、背景の黒、そしてターバンの白を加えるとイッテンのヘクサードという6色配色になるそうだ。色彩学が確立していなかったけれどラファエルロは、ヘクサードを使っていた。ただ、ラファエルロの他の作品でも、3色配色や4色配色のように秩序だった作品はごく少なく、画面上の色の面積割合からすると彼の作品の中でも「椅子の聖母」しかないようだった。
よくよく観てみると、ダビンチは構図に関してはずば抜けているが、色彩からみると拙く見える。ルネッサンス期を代表する3人のもう1人ミケランジェロも「聖家族」以外は、色数が少なく面積なども非常に貧しく感じられる。その「聖家族」も1つの色で明暗をつけ過ぎていて、1つ1つの色が目立ちすぎてしまい全体としての纏まりに欠けてしまっている。多色配色がミケランジェロでは逆にゴチャゴチャとした印象を強めてしまっているのだ。「椅子の聖母」は明暗で振り返っても大きな差がなく、ヘクサードが綺麗に当てはまる。ヘクサード以上の7色配色などは1つ1つの色の明瞭性がなくなるため、配色名がないそうだが、ラファエルロは「椅子の聖母」を、円形図の最高の構図とギリギリの色彩を使って表現していた。
そんなことが分かりかけてくると、そして何度も眺めていると、益々、のめり込んでいった。
細々とした年金生活者ではなく預貯金はかなりあって、どうしても観たくなった絵画を見ようと決意をした。曙色に染まった聖母の頬、白々としたターバン、緑青色の重厚なストール、本物はどんな色なのだろうか。椅子の棒がロイヤルパープルよりも濃い躑躅と金、それに、絵画全体が放つオーラはどのようなものであろうか。絵画のテーマにまでなったラファエルロの神格化やルノアールの絶賛を引き出した最たる絵画は、最盛ルネッサンスの最高潮とまで膾炙される絵画は、どのようなものであろうか。いやそのような他人の評価よりも、私の中での関心が日に日に高まりを押さえきれずに、搭乗する決心をした。専門家の意見は私の中で、時に否定され時に肯定されつつ心の底にある関心を間接的には刺激していた。場所はフィレンツェ、ピッティ宮殿内ガレリア・パラティーナ美術館。アルノ河とローマ門の丁度間にある。連絡を30年か4,50年もとっていない親類以外、身寄りがなく、衝動を抑えきれずに翌日、飛行機のチケットを入手した。
関西空港から飛行機に乗り込みソファーに座ると、最初に聖母子を見てから3ヶ月が過ぎているのに気がついた。3ヶ月間の盲目さを一瞬恐れたけれど、己の肉体が「聖母子像」に供えられる貢物のような気がしてきて、嬉しさに打ち震えてきた。何もしがらみも責任も無くなった老体が、あのような荘麗な方へと奉げられるのなら、こんなに幸せなことはない、と感じたのだ。既に地位や金や女は飽きてきて、魅力は失せていた。そこから得られる利益もどうでもよかった。何も見返りのない世界への投げ出しに、と思った刹那、体がガタガタガタと小刻みに震えた。今ではフライトアテンダントとかいう水商売のねーちゃんが、「大丈夫ですか」とスマイルを贈ってきた。「ああ」と語尾を下げて足蹴にしても、許される商売。離陸前で飛行機が怖いと思われたのだろうが、一生飽きるほどの名誉や金が得られない水商売には言っても理解できないと想い、優しく足蹴にした。水分を取り毛布を借り寝ることにした。
飛行中の「ゴゴゴゴゴ・・・ゴゴッ・・・」という音や気圧の変化で、うつらうつらしながら、あの聖母子の絵が浮かんでは消えていった。ただ、円形の枠が無くなり一面の黒い背景の中で、聖母子がゆっくりと動き出していた。彼女らの変わり様を喜びながらも、荘麗さとは何かしらの異なりを感じながらも、浮遊する惰眠に流しこんでいった。
(最初に題材となる「小椅子の聖母」をご覧下さい。 ただし、発色等を美術書に近づけるために、明暗やガンマ値などを多少弄(いじ)っております。画像は Arts at Dorian様サイト内ラファエロ頁から出典させて頂きました。 なお、当画像は著作権を侵害するものではありません。 詳しくはこちらの頁やCRIC様にてご確認下さい。)
雨水が樋に跳ねる音が聞こえた。
TVのノイズのように、桶のような丸みを帯びた上に描かれた絵に、灰色と黒白の短い斜線が降り注いでいた。
ゆるり、ゆるり、と気が帰ってきて、色彩が香り出してくると、木枠に描かれた最も有名な絵の1つであるラファエルロの「椅子の聖母」が、色を感知する眼球の視細胞が集まる中心窩に向かって水晶体が焦点を結びだした。
絵そのものが耀き出す静かな荘厳さに、うら若き母親と2人の子供からインスピレーションを得たという嘘っぱちや、彼の恋人がモデルになったという確証のない記憶の断片が引き出されてきた。ラファエルロが持つとされる普遍的な美から懸け離れ、後付けされた理性的な知識が、眼球の中にある窓のような虹彩にかかった雨粒と肉体が放つ熱で生まれた湯気を、斜めに拭き取り出してくれた。「死ぬん」と僅かな音が続いた。
「小椅子の聖母」とも言われる母子像に触れられたのは、淀川の支流に寄り添うように建つ、照明も薄汚れたような図書館でだった。毎日の単調さに疲れ、かといって勤しむには厭いて、ブラリ、と軽く勧められた図書館に訪れた。昭和30年に架けられたコンクリート剥き出しの橋は、平日昼間でも盛んな車1台1台に、ガタリガタリと反応を示していた。橋を渡りきると手が届きそうなくらいまで接近した図書館の肌が、鮮やかだった茶色に排ガスで煤汚れているのが判った。横に建てられたクリーム色の新しい肌を持つ市民文化施設では、ちょっと覗くと詩吟や演劇などのお仲間仲良しクラブが、予定表に名前を連ねていた。再び、図書館に向かい狭い入り口に続けて、病院のようなモアッとした暗さを、照明灯や図書館員にまで掛け降ろしていた。案の定、本は漫画や歴史小説など幼稚で享楽なものが多く、量も少ない。そうした市が建てた老人ホームは、外装こそ格好良いのだが中身は、図書館と同じ様に何となく薄暗く、稚拙さ短絡的さを改めて見せ付けられ、うんざりした。久しぶりの外出なのに出鼻を挫かれ、よく読む法律関係のコーナーへ向かうのも億劫になった。何気なくぶらついていると絵画のコーナーがあったので、「絵ならば気楽だろう」とパラパラをめくり出した。
「フィレンツェ・ルネッサンス」と題された本を数冊目に取り出し、モナリザ、ミケランジェロのピエタ、ダビデをパラパラと流し、「大公の聖母」という下向きのマリアで、パラリ、パラリへとペースが変わった。小さな「アテネの学堂」に懐かしさを覚えながら、めくる右手を開いて「ラ・ヴェラータ」という画名を確認した。最後まで読みきり、次の本に行こうと逆のページに目を流すと、全身の力がすっと抜けた。
これまで、図書館の照明や市行政に対するチクリチクリと燻っていたのは一気に吹き飛び、円形の「椅子の聖母」へと脳から体液が吸着していくように食い入った。「モナリザ」では顔にしか向かなかった視線が、「ラ・ヴェラータ」では胸元にまで広がり、「椅子の聖母」では、視線が線香花火のように画面の四隅にまでチリチリと飛んだ。
これは何だろう、何が、何だろうか、という思考すら浮かばす、聖母の母親としての情愛に溢れ、優しくて穏やかでありながら世界を見通そうという両目、うら若さと恥じらいを湛える力の抜けた小さな口、少女のような曙色に染まった頬、白々としたターバンの陰影、緑青色の重厚なストールには見事な織が入っていて、聖母を優しく包み込んでいる。左下には椅子の装飾棒が躑躅色と金色で構成されている。赤子は母に体を預けながら、静かに、何も考えていないか、諦観なのか、はたまた知的好奇心なのか、のように視線を右斜め上に外している。聖母の右手のゆびは、左の甲にしっかりと乗って赤子を抱きしめている。その横には2者に全く意識されないでいて、聖母子に手を合わせて慕うヨハネがいる。赤子とヨハネは肌の明暗だけで、髪や眉や鼻頭、口、肌の質感などはそっくりである。
幾つもの驚きを何度も何度も行き来すると、背中をちょっと押された。
通路の狭い図書館だから、1人が本を読んでいると通り難いのは当たり前で、大学生らしいボサボサの格好をした彼は、後ろのリュックが悪気なく当たったようだった。やれやれ、と遠くなるスニーカーを見ながら、視界を見上げた奥の席についた。今度は絵の下にある解説を見る余裕が生まれたが、再び、視線は散らばった。
この聖母は果たして何歳なのだろうか。何故こんなにも気が惹かれるのだろうか。そもそも美しいのだろうか。画面全体に視線が行くのは何故なのだろうか、と少し気を引いた見方になったけれど。
聖母は頬から観ると10代後半に見えるが、母としての慈愛に満ちながら、それに溺れない賢さを持つ両目から観ると25歳前後に見えてくる。一般に10代後半が太く肉付きのよい手になるので、そのようにも観える。毛布のような緑青のストールと単色に近いスカートに阻まれて、顔と手しか聖母の年齢を推測する条件はなかった。
雨水が樋に跳ねる音が聞こえた。
何時から此処に居るのか思い出せない。
何時まで此処に居るのかは考えることを既に止めている。
薄暗い湿った部屋の中で与えられた毛布に包まって蹲る毎日。
わずかな明りの向こうに広がる一面のラベンダー、
ここに連れてこられた時なにやら詳しい説明を聞いた覚えがあるが
思い出せるのはロイヤルパープルという品種だということだけ、
その他は醜く歪んだ話者の陶酔しきった顔が浮び上がるばかり。
「ロ ー ズ」
どこかで声が響く。
これまでにも聞いたその声は、
キンモクセイ、ミント、オレンジ、ジャスミン、
バニラ、ミルク、カモミール、ピーチ、ライム。
声が響いた後、重々しく扉の締まる音がした。
ずるずると何かが引きずられるような音が聞こえ、
やがてそれは暗闇に溶けるように聞こえなくなる。
声が今までより近かったのが妙に気になる。
手が湿っているのがわかった。包まった毛布を力いっぱい握っていることも。
頭が少しぼうっとしていた。
実際、身体に良い環境なわけはないから体力は落ちているのだろう。
頭を膝で抱え込むようにゆっくりと蹲った。温かい。
しばらくぶりの温かさに誘われたのか思い出したことがある。
こんな薄暗く湿った広い空間がある特殊な場所なのに
どういうわけかありふれたものがやけに目立つ。
食事のトレイ、与えられる着替え、そしてこの毛布、
安価で良質を謳う量販店のタグがついていたりする。
おそらく識別名称なんだろう呼び名にしたってそう、
まるで芳香剤のような妙に安っぽい感じがしてならない。
どこかでバランスを取ろうとしているのか、
それとも今のこの状態がバランスのとれたものなのか。
いずれにせよ絶えず樋に跳ねる雨音が
じっと思考することを病的に苛んでゆく。
しかしあれは雨音なのだろうか、そう思ってふと気づいた、
――前は良く不思議と思うことを感じていたはずなのに。
毛布の柔らかさが無性に硬質なものに感じられた。
瞼に触れる手の甲には、もはや濡れる感触はない。
ことり、と何かが床に落ちた。
蹲ったまま眠ってしまっていたようで、その小さな物音で目が醒めた。
ほとんど明りなぞ入ってこない明り取りの窓の下に近寄り目を細めてじっとそれを見た。
壁と同じ色のそれは端から床に黒い染みを作り続けている、
人の、ゆび。
「ユ ズ」
久しぶりに見た明りらしい明り、それに照らされているのは醜く歪んだ笑顔。
連れてこられた時のことが何故だか急に思い出されてゆく。
雨水が樋に跳ねる音が聞こえる。
いおり