2005年11月27日(日) |
森茉莉『恋人たちの森』 |
森茉莉の文章に初挑戦しました。 エロい文章です。
なんというか、とてもエロいです。 服を脱いだりしないのに、視線やしぐさでものすごい恋の駆け引きしてるんです。
恋の上手というわけでしょう。 私は熱にうかされそうです。
収録されていた、4つの短編のうち、表題作をふくめ、三作品は男性同士の恋愛を扱っています。ボーイズラブのはしりですな。 森茉莉さん、明治36年のお生まれというのに、時代を先取りです。 秋の森を歩く二人の美しい男性の姿は萩尾望都や、竹宮恵子の漫画のイメージです。
「僕、たべたくないや」 「喰わないと痩せるぞ」 「・・・・・・ギがもっと早く放してくれれば、太るよ」 ギランの眼が、厳しくなる。 「そんなことを言う権利がレオにあるのか?」 「・・・・・・ゆるしてよ」 「だれが僕をこんなにしたんだ」 「・・・・・・・」 レオは眼を伏せ、フォオクをとってサアジンの一つを気のないようすでつき刺した。そのフォオクの手を卓子においてギランのかおを窺うと、怯えて激しく瞬き、涙が頬を流れ、唇の隅の窪みの上に止まる。 「ギはもう僕を愛してないの?」 レオはフォオクを投げすて、眼の辺りを掴むように両手でかおを蔽い、ひそんだ片方の眉だけを見せ、切なげにすすり泣くのだ。
すごく感覚的で奔放でありながら、圧倒的な個性と魅力を持った文体を持った人だと思いました。
2005年11月24日(木) |
今村克彦『夢の見つけ方教えたる』 |
関西京都今村組って知ってますか? 詳しくはこちらを。 http://www.imamuragumi.com/
京都府で現役小学校教師の今村克彦先生が率いるダンスパフォーマンス集団です。 今村先生はロンゲにネックレス、いわゆるヤンキー先生。
お恥ずかしいことに、私は、この手のヤンキーっぽさは、青臭くてちょっとひいてしまっていたのですが、機会あって講演を聞き、著書『夢の見つけ方教えたる』を読んでまったく考えを改めさせられました。 それどころか、本当に大切なことを教えられました。
今村先生は、本当に、とにかく人間に対するやさしいまなざしの持ち主だと思います。 どんなことがあっても、その子どもがよりよくなるためにはどうしたらいいのかを考えている人です。 そして、そのためならば、権力や体制にはむかうことも辞さない、本当に子どものためにすべてをかけている先生です。 今日の教育の問題を論じる目も確かです。
テレビで見る今村先生は、ヤンキーそのものでいかがわしさ満点でしたが、実際はパワフルで面白く、話す言葉には偽りがなく、子どもが好きにならないわけがないのはたやすく信じられました。 今村先生に教わる子どもは、心から信用できる大人と過ごし、成長することができて本当にものすごく幸福だと思います。
「フウコが突然キレたのは九月の初め、小学校最後の運動会の練習のときだった。私はこの運動会でブロック別の応援などで新たな取り組みを行っており、そのリーダーにフウコを指名していた。ところが、そのフウコが、ブロックの応援合戦の練習のとき、仲間を邪魔して、「こんなんアホらしくてやってられんわ!」と大暴れしたのだ。 「フウコ、これはどういうことやねん?おまえ、リーダーちゃうんか」 「リーダーと思ってるのはあんただけやろう。私はリーダーなんて思ったことは一回もない。私はブロックも何も関係ないねん!」 「ちょっと待てや、おまえ、いままで一緒にやってきたやろ・・・・・」 「一緒にやってきたと思ってるのはあんただけや。あんたが勝手にやってるだけや!」 「・・・・・・・」 まったく人が変わったように私のすべての言葉を否定し、すべてを放棄するフウコを見て、私は言葉を失い、為す術をなくした。 それからだ。フウコの反乱が始まったのは。 私が授業中、黒板に向かって字を書いていると、後ろから消しゴムがポーンと飛んでくる。それが頭や背中に当たる。「誰や、ほおったんは!」と怒ると、フウコが「私やで」とニヤリと笑う。 「どういうことや!」 「どういうことって、ほおったら当たってん」 そのやりとりを見ている子どもたちの間で小さな嘲笑が起きる。教師としての権威の失墜を子どもたちは見逃さない。残酷だ。勝ち誇ったようにフウコは立ち上がると、 「ああ、ダル。もう出よ。」 と取り巻き二、三人を引き連れ、教室を出て行ってしまう。そんなことを平気で繰り返すようになった。それからは坂道を転げるように、他のクラスの子とケンカをする、カツアゲをする、ちょっとしたことですぐキレて暴れる。手がつけられなかった。 「このままではクラスが崩壊する・・・・・・」私はその危機感から、フウコの出て行った教室で、子供たちにこう話したことがある。 「正直言って、どうしたらいいかわからへん。みんなに悪いと思うてる。何か先生のやり方が間違ったんやと思う。だからフウコを責めんといてくれ、あいつは悪ないんやから・・・・・・」 そのときの自分にできる精一杯の子どもたちへのメッセージだった。」
この最後の一言のすごさ!
自分の弱さをさらけ出し、子どもの誰も悪者にしないこの一言。 こんなメッセージを伝えられる教師を子どもが好きにならないはずがありません。
私には、言えません。 少なくとも、この一言は私には思いもよらない言葉でした。 この状況に陥ったときに、私は自分の教師としての権威をいかに保ち取り繕うかということしか考えられなくなってしまうでしょう。
本当に大切なことはなんなのか、教えてもらいました。 私も、がんばろう。
2005年11月13日(日) |
三島由紀夫『春の雪 豊饒の海(一)』 |
聞きしにたがわぬすばらしい作品です。 作者のいつくかの短編に見られるような王朝風、懐古的ともいえる雰囲気がこの作品で結晶化されています。 もう読み始めた瞬間に、優雅でどこまでもシャープで美しい世界にひきこまれてしまいました。
でも、とても不思議な感覚なのですが、ただ受身でそこにある物語を私が読んで、「すごく面白い!」と思っているのとは少し違う感じでした。 あえて言うならば「こういう作品が読みたい」と私が潜在的に思っていた世界がそのまま描き出されているような、どこかでこの世界を予知していたかのような気分になりました。
これは、あらすじをどこかで聞いていたということとは異なります。 作品の空気、描く人間、そういうものが私の望むものそのもの、いえ、見事にうれしい裏切りでそれ以上のものとしてたち現れたのです。 こんなことは初めてです。
さて、名実ともに三島文学の集大成とも言えるこの作品ですが、この長編にあってもその構成の緻密さにはもはや驚くまでもなく、まったく安心して最後までゆったりと読ませますねえ。 そして、物事の細部を深部をとらえる目の確かさ、筆の正確さは胸をすくようです。
それを恋とは知らずに、また知ろうとせずにいる自尊心の強い青年が、ようやくそれに気づくに至るまでのいきさつは、微に入り細に入り描写され、読み手の読み誤りようもなく、これ以上ないほど親切ですが、この点に関しては、きっと好みが分かれるところでしょう。
私は森鴎外の『舞姫』のことを思い出しました。 結ばれぬ恋を扱う小説として、両者は好対照です。 私が『舞姫』を読んで何よりも不可解だったのは、恋愛をしているはずなのに、まったく感情が表されないことでした。 ただことのなりゆきが連ねられて、当の本人の想いが伝わってこないので、読み終えて私がまず思ったのは「なんて勝手な男だ」ということでした。 でも、それはもしかしたら苦渋に満ちた決断だったのかもしれない、つらつらと言い訳がましい表現を書き連ねるのを潔しとしなかったからなのかもしれない、とは後で思ったのですが、いづれにせよ、それは作者のみぞ知るという領域のように思われました。
さて、『春の雪』です。 聡子という非常に魅力的な女性ですが、私は彼女が幼いころから清様をひとすじに思い続けてきた気持ちには共感できるのですが、やがて終末を迎えたときにきっぱりとそれを受け入れたのには違和感がありました。 私はもっとみれんたらたらだよな〜。
でも、この聡子はきっと作者の理想の女性なんだと思います。 また、それ以上に作者の美学の投影なんだと思います。 清様の最期もありありと「滅びの美学」を実践しています。
また、この作品は二人の悲恋物語かというと、そうではないでしょう。 二人の物語は表看板で、本当に作者が描きたかったものは何なのか。 まだわかりません。 『奔馬 豊饒の海(二)』を読んで考えよー。
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