きよこの日記

2005年12月11日(日) 私の婚期が遅れる理油

今日は大学での半期に一度のOB大会 。
現実を忘れて、大学時代の懐かしい面々と卓球に遊ぶ一日でした。
今回もあの人はやってきました。
半年振りの邂逅。
私は果たしてどのように振舞ったでしょうか?

前みたいに意識しっちゃって、目も合わせられない、なんてことなかったよ。
余裕で微笑んでいられたよ。
話しかけたりできたよ。
試合もやったよ。
「因縁の対決だね」
言わなくてもいいような、ちくりとした一言まで言ったよ。
ずっと卓球の強さでは互角だったんだ。何年ぶりかの対決。
二つの意味で因縁の対決。
あの人は練習不足のせいか「やだー。やりたくねー」と言った。
私は久しぶりの対決にわくわくしていたから
「私には何も守るものはないからね。さ、やろう」と言った。
あの人は「俺には守る物だらけだ」と言った。
ちょっとした暗喩の応酬。
こういうダークさ、私のわるいくせだと思う。

試合は、あっけなく私が勝った。
だって私はあの人に勝とうが負けようが、どうでもいいんだもん。
ただ、いい卓球が、いいラリーを一球でも多く作り上げたいということを考えていた。あの人が同じレベルで卓球を見ることができる人であることを確認できればそれでよかった。

そんなことがあったわけです。
そして、いつもの日常が・・・・・・始まらなかった・・・。
味気ない。つまらない。
すべてがくすんで見えます。
ちょっと意識していた男の同僚との会話ですら、つまらなく思える。
あーあ。
やっと自分の現実を受け入れられるようになってきたというのに、また現実に適応障害を起こしているよ。
また、夢見がちな人になって、ありもしない幻想の虜になっているよ。

こうして婚期が遅れていくのだ。



2005年12月10日(土) 渋澤龍彦『秘密結社の手帖』

きっかけは『ダヴィンチ・コード』とか。
本を読んでも、映画を見ても出てくるテンプル騎士団、イルミナティ、フリーメーソンって、いったい全体なんのこと?
という積年の疑問を解決すべく手に取ったのが『秘密結社の手帖』
古今東西の秘密結社を網羅的に教えてくれました。

「秘密結社には、私たちがその名を知っているものだけでも、じつにいろいろあり、名も知らないような奇怪な結社まで数えたてれば、さらにたくさんある。一体、秘密結社とは何であるか。(中略)
 あらゆる時代に、儀式の秘密を所有することによって、俗世間の人間の間から自分を区別しようと努力した人たちがいたのである。そういう人たちが集まって、小さな集団を作る。その方法はさまざまに違っていてもこの秘密に一つの制度としての形式を与えようとする志向は、人間の魂に抜きがたく染みついた傾向であるように思われる。」
確かに、子どもの「ごっこ遊び」の延長のようなものも多くありました。

そして、世界史で習った、イタリアのカルボナリ党、「青年ヨーロッパ」党、ロシアの「スラブ連盟」、中国の「太平天国」、「義和団」などが秘密結社であったということに驚愕。
そのときは、「そういうもの」として、深く疑問にも思わなかったんだけど、なるほど、言われてみれば、政府でもなく政党でもなく、不思議な存在だよなあ。
ガッテン。

この本は「手帖」の名のとおり、秘密結社の入門書なので、説得力についてはちょっと物足りないです。
テンプル騎士団について、もっと知りたいから、他の本探さなきゃだな。



2005年12月04日(日) 養老孟司『バカの壁』

えへ。今ごろ読みました。
きっかけはテスト作成。
3年生の問題にいい文章がないかなーと探していて発掘しました。
問題を作ってからしっかり読んだというような塩梅です。

養老先生の考えはいつ読んでもオリジナリティがあふれていますね。
今の社会の問題点をオリジナルな視点で、平明な言葉を使ってオリジナルにつづりますが、だからかえって、よく知られた抽象後で語られるより理解が難しいみたい。
テストをやってみて監督の先生とか、「難しいねー」「全然わかんないや」って。
書いてあることは二項対比ですごく簡潔だから、読むときは難しい実感があっても、生徒の回答率はそんなに悪くなかったです。
でも、今回のテストを受けて『バカの壁』を買って読んだという報告をしてくれた生徒もいたりして、いい知的刺激だったと思います。

私が本書を読んでいて舌を巻いたのは「意識と言葉」のくだりです。

「例えば「リンゴ」という言葉を考えてみます。リンゴという言葉を全員に書かせると全員が違う字を書く。当たり前です。私の字とあなたの字は違う。
 (中略)同じ人間が同じ言葉を同じように発音したつもりでも、インクの乗り同様、やはりどこか違うのです。しかし、我々はそれを同じリンゴとして、全員が了解している。
 私の知る限り、この問題を最初に議論したのがプラトンです。彼はなんと言ったかというと、リンゴという言葉が包括している、すべてのリンゴの性質を備えた完全無欠なリンゴがある。それをりんごの「イデア」と呼ぶのだ、と。
 そして、具体的な個々のリンゴは、その「イデア」が不完全にこの世に実現したものだと言ったのです。つまり、言葉は意識そのもの、それから派生したものなのです。(中略)プラトンから一気に現代に話は飛びますが、言語学の中でそれを指摘したのが、ソシュールのシニフィアンとシニフィエという概念です。
 ソシュールによると「言葉が意味しているもの」(シニフィアン)と、「言葉によって意味されるもの」(シニフィエ)というふうにそれぞれが説明されています。この表現はわかったようなわからないような物言いです。実際、ソシュールは難解だとされています。
 が、これまでの説明の流れでいえば、「意味しているもの」は頭の中のリンゴで、「意味されるもの」は本当に机の上にあるリンゴだと考えればよい。ソシュールも、やはり言葉の二つの側面に注目したのだ、と考えられます。」


いやー。
ソシュールは難解ですよー。
私は言語学に興味があって、ほんの少し大学時代にかじったんだけど、この「シニフィアン」「シニフィエ」について、わかったようなわからないようなもやもやしたままで終わっていました。でも、この文章を読んで、「わかったー!!」とすっきり。

養老先生、なんでこんなにすっきりさせられるのか。ほんとすごいと思う。


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