2005年08月17日(水) |
お金にまつわるエトセトラ |
「最近変わったなーってことでね、お金に対する考え方があるんだよね。 時間や手間をかけて倹約するのと、お金を多く払って手間暇省くので、最近、断然後者を選ぶようになってきちゃったんだよねー。 バスとタクシーだったら、ついタクシー使っちゃう、とか。 お金で解決できることなら、めんどくさいからいいじゃん、みたいなとこあるんだ。」
「あー。それわかるー。私も、私も。」
「あっ、ほんと? でさー、昔とか、ニンジン一袋、パン1個買うのに、10円の違いで悩んでたのに、今とか、ぜんぜん値札見ずにレジもって行くんだよね。」
「そうそう。全然値札見ない。 服とかも。」
「え!服はさすがに値札見るかなあ。」
「そう? 私はもう、必要なときにその場で買っとかないとって思うから。」
「そうなんだー。 ふーん。 それでね、なんか、そういうふうに使わないでもいいようなお金を無意識のうちに使ってしまっているのが、なんか嫌なんだよねえ。 同じ使うでも、生きた使い方するならいいんだけど、形にも気持ちにも残らないお金じゃん。 もっと、ちゃんとお金を管理したいって思うんだ。」
「えー。そうなの? 私、今みたいな使い方が快感で好きだよ。 そういう無駄遣いをする余裕があるっていうのがいいじゃん」
最近の友だちとの会話です。 自分でお金をかせぐようになって、忙しくなると同じような状態になるんですね。でも、こういうお金の使い方に対する感じ方の違いがとても新鮮でした。
私は貧乏性の方です。
上の話のように、しょーもないお金はどんどん出て行くのですが、思い切ってお金を使うことができません。 友だちが外国へ旅行に行ったとか、50万円の化粧品を買ったとかいう話を聞くにつけ、私もなにかどかんと、若いからこそできるお金の使い方をしてみたいなあと考えてしまいます。
この前、眼科の診察室でファッション雑誌をパラパラめくっていました。 それは、“都会でいきいき働く女性のための“的な、つまり、山岳都市でがつがつ働く私には縁のない雑誌なのですが、中でも、その特集『20000円以下で探す使える通勤服☆』に目を白黒。
はて? 20000円の通勤服? 私は全身で10000円を越えることもめったにないよ。 ジャージなんて、ゼビオで980円だったし。 その雑誌に紹介されている、20000円以下のリーズナブルな服は、カットソー15800円、スカート17800円とか。
そんなお買い物したら後悔で眠れないよ!
だって、その素敵なお洋服がどんなにいい生地で織られてたって、ちょっとしたうっかりでお醤油たらしちゃったりしたら、もう、おじゃんじゃないっすか。 ちょっとしたくぎに引っかけて、糸とび出しちゃったら、ショック大きすぎますよ。
だ、だめだ・・・。そんなことを気にして2000円の服も買えないようじゃ、どかんと大きな買い物なんて夢のまた夢だ・・・。
天然というのは褒め言葉らしい。 しかも、ごくごく微量な自虐的ニュアンスがあるから自分を称して天然と言ってもいやみな感じがあまりしないらしい。 だって「私って美人でしょ」という人はめったにいないけど、「私って天然でしょ」ということを言う人はけっこういる。
でも、私にとっては自称天然のほうがよほど鼻につく。 できないことを開き直ってかわいこぶっているんじゃないぞ、と。
どうも天然だとか無垢だとか、ナチュラルだとか、未分化、未発達のものをプラスイメージでとらえる傾向が日本人には強いらしい。
それがね、「さよこ先生って天然ですね」と言われたりするんです。 きっと褒めてくれているんだろうとは思うんですが、私はキッパリ否定します。 「いいえ。私の場合、天然なんてそんなかわいらしいもんじゃないですから」
世の天然信仰者は、ちょいどじを愛らしいなどと思うんだろうけど、本当の天然バカの世界を知らなくてお幸せというものです。 素でおかしなことをしてしまったり、忘れたり、人並みに仕事ができない私のような人間は、天然なんてかわいこぶっていられるレベルではないんです。 病気とか、若年性痴呆とか、発達障害とかそういう類なんです。
自分では十分注意しているつもりなのに、大切な書類を散逸してしまう。 直前に指示されたことなのにすっかり忘れてしまう。 車を運転していてうまく右折して合流できない。 計画したことの8割くらいしか達成できない。 パンツのはき方を間違える。
そういうことが当たり前に毎日あるので、私にとって一番信用できない人間は自分なんです。 抽象の世界でぼんやり考えごとして生きているならば、私も「天然でさ」なんて笑っていればいいけど、日常は具体的なことをひとつひとつこなし、積み上げていくことでしか進まない足し算の世界なんだよね。
具体的なことをしっかりと着実に計画的にこなしていける人になりたいです。
2005年08月04日(木) |
筒井康隆『旅のラゴス』 |
じっぽさんのブックバトンで紹介されていた『旅のラゴス』です。 http://d.hatena.ne.jp/fujipon/20050628 面白くって、夢中で読んでしまいました。 湯船の中からお布団の中まで今日はどっぷり筒井康隆ワールド。
まったく物語の世界にはまり込んでしまえる面白さです。 高度な文明を喪失した後の世界を、北から南へ、そして北へ回帰するラゴスの旅の物語です。 ごく短い短編の一つ一つが主人公が立ち寄った場所でのエピソードになっていて、ページをめくっていくうちに主人公と一緒に年を重ね、旅をしているような気分になります。 そんなに重々しい文体の作品ではないし、全体でも200ページほどしかないのに、不思議な重厚感で、後半などラゴスが成し遂げてきたことの一つ一つが、まるでリアルな思い出のように感傷的に胸に迫るんです。
現実離れした世界観や、ラテン的な空気はガルシア・マルケスの『百年の孤独』と同じ匂いがしました。 そして、不思議とじっぽさんの文体とも似ていると思いました。
(とくにこのあたり) これはちょっと違うのではないか、とおれは思いはじめた。子供にもっとも精神集中力と想像力がある筈だからという判断はさほど誤っていない。しかし老人にだって集中力はあり、故郷の風景をもっとも長いあいだ眺めてきたのも老人だ。さらにまた、円陣を組むというのも好ましくなかった。そもそもかってな推測で人間をある隊列とか図形に配置するということにはなんの意味もないのだし、かえって各個人が他人への依存心を強めてしまうのだ。円陣というのもどちらかといえば保守的防御隊形であり、トリップしようという意欲を殺ぐことにもなりかねない。
自分の文体が好きな作家の文体に似るということがあるんでしょうか? 私は誰かの文体に似ていたりするのかなあ、と考えたのですが今のところ誰も思いつきません。興味深いことであります。
2005年08月01日(月) |
糸糸山秋子『袋小路の男』 |
完全に感情で読んでしまいましたので、冷静な分析など不可能ですからね。あしからず。
-指一本触れないまま、「あなた」を想い続けた12年間。 恋人でも友人でもない関係を描いた表題作---ですから。
出会ってから10年がたつあの人と私の関係に重ねずして読めましょうか。 冒頭のエピソードなど、あの日のことを見てきたかのようにそっくり似ていてびっくりです。 http://www.enpitu.ne.jp/usr7/bin/day?id=74646&pg=20020615
そして、次の部分もほんとにうなづけるのよ。
〜御堂筋線で心斎橋に出てイタリア料理屋でランチをした。ブルーチーズとトマトの入った三日月形のピザや、ジェノベーゼのソースとよくからむ平べったいパスタを食べたあと、ジェラートを食べている私にあなたは言った。 「おまえさ、俺と結婚しようとしたってだめなんだぜ」 びっくりして、あなたがなにを言っているのかわからなかった。 「そもそも俺にその気がないんだからよ」 そんなことは考えたこともなかった。なんで一年ぶりに会ってそんなことを言うんですか、と少し鼻声になって聞くと、あなたは、いや別に、と言った。私は萎縮した。目の前のエスプレッソが冷めていく。そのエスプレッソを残して私達は店を出た。試合の前に新世界で仲間と会うと言うあなたを、私は送って行かなかった。
問題は結婚なんかじゃない、この中途半端な関係をどうするかということだった。片思いが蛇の生殺しのように続いていくのがとても苦しかった。いっそのことセックスすれば全部終わりになるんじゃないかと思った。あなたのドライでクールなイメージ、あなたの付加価値はセックスをすれば消えてしまうかもしれない。あなたは、いやらしくて生々しい、どこにでもいるような男に変わるかもしれない。何度切れても、また何事もなかったかのように再開されるこのループを断ち切るためには、私があなたを嫌いになるしかなかった。その方法はもうセックスにしか残されていないように思われた。私は考えた末にメールを出した。 「小田切さん、このままじゃつらいです。最後に一度だけでいいから」そのあと迷って「一緒に寝てください」と書いた。 でも断られた。あなたは長いメールの最後にこう書いた。 「おまえと縁を切るつもりはないけれど、俺は本当にいろんなことを諦めているんだ。これで答えになるのかな」 なんない。〜
でも、当然のことながら物語は物語で私たちのことではないわけで。
私は、主人公のように素直に気持ちを伝え続けることができなかったし、傷つくことをおそれて好きでいることをやめてしまったのです。
私は今でもあの人の気持ちなんてまったくわからないのですが、この作品で小田切が恋人でもないのに主人公に思わせぶりなことをして、彼女を繋ぎとめようとするのかはよくわかります。 小田切にとって主人公は、唯一彼の孤高さを認め、あがめ、見放すことのない存在なのです。
あの人がこの本の小田切のように“袋小路”で誰からも認められず生きているならば、私の気持ちもちょっとは影響力を持ったのかもしれないのかな。
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