2005年03月30日(水) |
フィリモン・スタージス『いのり 聖なる場所』 |
どこかで誰かがいのっているんです。
でも、いつのころからか、人はいのることを忘れてしまっているような気がします。
いのることはとても自然なことです。自分というちっぽけな存在を認め、それでもなお、ひたすらに生きていこうとするとき、人は自然に人知の及ばない大きな力に魅かれ、いのるのではないでしょうか。
人がいのらないということは、それだけ大きな力をえたわけではなく、己の微力さについて鈍感になってしまったということのような気がしてなりません。
これは、世界中のさまざまな宗教のさまざまな祈りの場所を美しいペーパークラフトで表現した絵本です。
2005年03月29日(火) |
森昭雄『ゲーム脳の恐怖』 |
ゲームをすることで、人間らしさを司る前頭前野の働きが低下し、本能的に働く大脳辺縁系に対しての抑制が効かなくなり、自分の本能的な行動を止められず、激情のおもむくまま、つまりキレてしまう・・・これがゲーム脳というもののメカニズムです。
テレビゲームが常習化することによって、ゲーム脳になるというのですが、興味深い記述が。 「けれども、テレビゲームが常習化している本人が、楽しいと思っているかどうか、本当にはわかりません。単にやらずにいられなくなっているだけのような気がします。 それは、シナプスの反復刺激によって脳の神経回路が、そのように組み上がってしまっているからです。ゲームに対して体の反応が決まってしまっているのです。ゲーム機を群れ場、やらずにおられない。「楽しい」という状態はもう超えています。 最初のうちはゲームをすると、ドーパミンが分泌されて、楽しいと感じたかもしれませんが、ゲーム脳人間になると、脳の働きが低下しているのでドーパミンの分泌も低下しているでしょう。楽しいという気持ちも感じられなくなっているのです。 ここに大きな問題があります。中学生や高校生になってからテレビゲームを始めたという人は、ゲーム脳人間にはなりにくいのです。それは、脳の神経回路が組み上がるのが10歳ごろまでだからです。脳の神経回路は20歳過ぎでも形成されますが、ほとんどは小学校の中学年ぐらいまでの脳の発育段階で、どのような神経回路になるかが決まるのです。 (中略)幼児期に組み上がった神経回路のためにゲームがやめられないのです。ゲーム機をみたら手が動く。ゲームをするのが本能のようになっていて、古い脳が働いてしまうのです。幼児期からゲームをやり始めてゲーム中毒になっている人と、大人になってからゲームが大好きになっている人とでは、脳の神経回路が違うのです。」
思い当たるふしが・・・。 楽しくないのに、やめられない。 RPGとか、そういうことままあります。 「明日早いから、もうやめなきゃ」って思いながらずっとリセットボタンを押せないんだよねえ。ほとんど惰性で続けてしまう。
この本で訴えられているのは、とにかく、前頭前野をしっかり使い、自分の頭で考え、創造する習慣をつけていくべきだということです。 遊ばされて遊んだ気分になることがゲームの危険な点ですね。
2005年03月26日(土) |
寺山修司『書を捨てよ、町へ出よう』 |
自分には他の人にはないすごい力が秘められていて、無限の可能性があるんだ! って、根拠もなく信じることができていたあの頃に読んでおくべきだったな・・・。 あの頃の自分ならば、この本に書いてあることを希望に胸膨らませて信じることができたかもしれない。 この本を純粋に楽しむためには、私は年をとりすぎて、世界を、いや、自分を諦めすぎている。
なので、今までの寺山作品よりちょっと距離を感じながら読んだのですが、「不良少年入門」の章は楽しかった。
プレイボーイならぬ、ブレイボーイ(無礼ボーイ)のすすめ。
「ブレイボーイとは何か? ぼくの定義では、自由人。(多少困りものではあっても、のびのびと生きている男、ということになるのである)(中略)もっとも人間らしい生の実感を味わえるとき――それはポーズをとらなくてもいいという安堵感に支えられながら何事かに熱中できるときのことである。ぼくはポーズの効用を過信したくないと思う。
いや、むしろポーズこそ、キミをプレイボーイになるように追い込んだり、他人の思惑ばかり気にする主体性なき男をつくったりすることになるのである。」
プレイボーイにならないために提案されている方法・・・田舎弁を丸出しに
「(たとえ、いかなる女の子の前にいても、である。きれいな標準語はキミを平均的人間に見せるだけである。それをスマートだとか都会的だとかいうのはまちがいであって、いまや自分の本当の気持ちを伝えるのには、自分の昔から使っていた故郷のことばで話すのが一番いいのだ) 標準語は政治を語ったり、アナウンサーがニュースを読んだりするのには向いているが、人生を語るのには向いていない。 人生を語るのには方言が一番ふさわしい。」
自分のことを「わし」といい、「わし、ほんまに生の魚が好きなんやよー」と生まれの言葉を貫く人とつきあっています。
2005年03月24日(木) |
鈴木清剛『ロックンロールミシン』 |
なんていうかなあ、読後感なし。 良くも悪くもない。 それどころか、どんな話だったのかもおぼろげ。 最後まで、主要登場人物3人ですらキャラつかめなかった。 かといって、読んでいて苦痛ということもなく、割と好もしくさくさく読みきっちゃったんだけどねえ。
行定勲の解説はこの作品のことをうまく言っているなあ、と感心。 「この物語のもう一つの特徴は、「平行線をたどる」ところにある。最後まで何も変わらないし、始まらないし、終わらない。凌一、賢司、椿、カツオ、四人の人間関係も同じだ。言いたいことがあるのに言えない。好きなのに好きだといえない。椿は凌一のことを思っているのに、なぜか賢司に頼り、賢司はとっくに心の離れた恋人に別れを告げることさえできない。このダメな感じ、逃げる感じ、切ないようなもどかしい気持ち。」
三島由紀夫賞受賞作ということで、そういう断片を期待して読んだら、どこにもなくってがっかりでした。
2005年03月23日(水) |
河合隼雄『母性社会日本の病理』 |
教育関係の仕事をするうえで、河合隼雄さんは避けて通れないかたなのですが、お恥ずかしながら、初めてよみました。 そして、納得。 含蓄がある。 子供が、親が身をおく日本の社会の性質を、鋭く見抜いています。 慧眼の書です。
キーワード:母性社会 永遠の少年 ユング グレートマザー
日本の社会は「母性原理」に象徴されます。 「母性の原理は「包含する」機能によって示される。それはすべてのものを良きにつけ悪しきにつけ包みこんでしまい、そこではすべてのものが絶対的な平等性をもつ。「わが子であるかぎり」すべて平等に可愛いのであり、それは子どもの個性や能力とは関係のないことである。 しかしながら、母親は子どもが勝手に母の膝下を離れることを許さない。それは子どもの危険を守るためでもあるし、母-子一体という根本原理の破壊を許さぬためといってもよい。このようなとき、時に動物の母親が実際にすることがあるが、母は子どもを飲み込んでしまうのである。(中略)これに対して、父性原理は「切断する」機能に特性を示す。それはすべてのものを切断し分割する。主体と客体、善と悪、上と下などに分類し、母性がすべての子どもを平等に扱うのに対して、子どもをその能力や個性に応じて類別する。 極端な表現をすれば、母性が「わが子はすべてよい子」という標語によって、すべての子を育てようとするのに対して、父性は「よい子だけがわが子」という規範によって、子どもを鍛えようとするのである。」
「日本人の平等性の主張は背後に母性原理を持つために、能力差の問題はできるだけ目を閉じてゆこうとする傾向を持つ。あるいは、時にそれはタブーにさえ近い。それが完全にタブーとなった状態を、筆者は「平等信仰」と呼びたい。」
この観点でみると、確かに日本は母性的だよなー。 そして、その母性的性質に無自覚であることが危険だよなー。 まさに「平等信仰」というような現象が教育現場にはままあるのです。
本書の後半はかなり、ユング研究的な話になるので、1冊で二度おいしい、というと言い過ぎか?
最近とんとごぶさたしておりました。
きよこでございます。 日記を放置していた間、実は入院していて、・・・というのは嘘です。 仕事がほんっとに忙しくて・・・というのも嘘です。
なんとなくキーボードをたたく気持ちにならなかったというだけのことです。
そして、書かない日々が続くことにさして切迫感もなく、その気持ちに任せて放置していたというわけです。
これまでも、空白期間があったり、ずいぶん以前のことを思い出しながら書いたりしたこともあったのですが、その時とはちょっと自分の気持ちが変わってきているみたいです。
日記を書くことは、自分を振り返り、客観化することでした。 そして、反面、現実の自分ではないもう一人の自分になることでした。 そうすることによって、私は現実と距離を保ちながら現実を消化していたのでした。
でも、今、日記を書く必要が心の中に見つかりません。 多分日記が役割を終え、私はこの日記を卒業する時なのだと思います。
この日記はありのままに、自分の心の中身をさらしたものでした。 何にもとらわれず、自由に表現することのできる場でした。 だから、構えず、卒業するときだろう、という私の直感のままに終わりにしたいと思います。
また、書きたくなったらぽつぽつ書くだろうな、という予感もありつつ、ひとまずペンを置きたいと思います。
これまで読んでくださった方々、本当にありがとうございました。
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