平和な日曜日の昼下がり、私はいつものように寝転んで『なんでも鑑定団』を見ていました。
人のお宝がいくらだろうが、そんなことは私にはどうでもいいことなのですが、骨董の世界とか、芸術の世界とか、私はまったく無知なので、その筋の世界をダイジェストみたいに垣間見れるこの番組、けっこう好きなんです。
その中の一件の依頼。 夫がゴミ屑のような屏風絵8枚ほどを「汚いから高価なものに違いない」と、550万円で買ってきたという。 そして、表装に150万円をかけたという。
奥さんは「こんなんにそんなお金かけるならば、私に宝石買ってくれればいいのにね」なんていいながら、予想評価額は買ったときの額ということで“550万円”
そして、衝撃の評価額は・・・・2万円 あちゃー。 ものすごい赤っ恥です。 ところが、その奥さんの口から出た言葉は
「あらあ、この結果をお父さんに言うのかわいそうねえ。 テレビで放送されないんだったら、550万円だったよ、って嘘つくんですけどねえ。やっぱり放送されますよねえ。フフフ」
なんか、いい夫婦だなあって、すごくジーンときました。 お父さんの愚かな道楽にあきれながらも許してあげているお母さん。 実際お母さんだって大観衆の面前で大恥かいているのに、お父さんを思いやっていて、なんか、すごくあったかいなあ。
新しい年度、新しい学年、クラスが始まりました。 誰もがウキウキそわそわしている春の学校です。
「先生!なんで、2年の副担じゃなくて1年の担任なの?1年いーなー」 「先生、うちらのクラスの国語もつ?」 「きよこ先生の国語がよかったなー」 「先生、今年も先生の国語だよ!」 「また、きよこ先生の国語じゃなかった。絶対先生のがよかったのに・・・」
仲良く楽しく授業を作った子たちだけでなく、去年私にこっぴどく叱られた子たち、授業が難航したクラスの子たち、一昨年教えて去年は教えなかった子から、声をかけられて、驚きながらもとてもうれしい。
私が教師としてどうなのか。 私が、なんのために教えるのか、教師を続けるのか。 その答えは、やっぱり生徒の中にあります。 そのときはわかってもらえなくてもいいのです。 今、わからなくてもいいのです。 大人になってやっとわかることかもしれないです。 私は、時がたっても朽ち果てない大切なことを伝えていきたいと思います。
国語を教えるときにいつも思い浮かべる先生がいます。 中学1,3年の時に国語を教わった深田いくみ先生です。
そのころ私は「国語って暇だなあ」ぐらいでなんの感慨もなく過ごしていました。 もちろん、深田先生に対しても、“普通の先生”と思っていました。 だから、深田先生を目指したわけでもなく、国語大好きでもなく国語教師になってしまったのですが、いざ自分が教える段になって、思い浮かべるのは深田先生以外はいません。
同業者になってみて、自分が勉強してみて、やっと深田先生の授業でやった活動の意味やすごさがわかったのです。
深田先生はどうされているんだろうなあ。 高校時代一度お手紙して以来まったく連絡をとっていませんが、きっと今でも山口県ですばらしい国語教育をつづけていらっしゃるんだろうなあと思います。
2005年04月10日(日) |
奥田英朗『空中ブランコ』 |
元気の出る読書です。
精神科医伊良部一郎が、心の病をすっきり解決!の短編集です。
ただし、この伊良部医師、どこまで正気かどこから狂気か常人には判断つきかねます。 色白のアザラシのような容貌。注射をされるところをみることが趣味で、どんな患者にもまずはビタミン注射。注射を打つのは、一昔前のボディコンのような白衣を着た肉感的な真由美ちゃんという看護士。
伊良部のもとに何の因果かさまざまな病気を抱えた人がやってきます。 先端恐怖症のやくざ。 スローイング・イップスのプロ野球選手。 強迫神経症の精神科医。 嘔吐症の女流作家。 だれしも、伊良部を見た瞬間、世の精神科医のイメージとのあまりのギャップに驚き、憤慨しますが、なぜか、またその診療室に足を向け、怒ったりあきれたりしているうちに快復していくのです。
伊良部医師は本当に子どもじみた単純無責任精神科医なのか、それとも、アホのような言動や、自分勝手な行動もすべてが治療のための確信犯的な行為なのか。はかりしれない・・・。
でも、見た目や雰囲気の“らしさ”ばかりで判断されて、本質や奥底に隠された意図なんて理解されない風潮の中で、一見、馬鹿げたスタイルをとりながら、不思議と人を治してしまう伊良部医師は、すごくカッコいいと思う。
「池チャン、大学を出てからおとなしくなっちゃったからなあ」伊良部がコーヒーをすすりながら言った。「倉本たちが言ってるの、こっちの耳に入ってきたよ。野村教授の娘と結婚してからは、ますます真面目になったって。昔は宴会部長だったじゃん」 「倉本が言ったのか?」 「みんなだよ。面白くなくなったって。それで無意識に抑圧されてるんじゃない?」 達郎が考え込む。確かに学生時代は大勢で騒ぐのが大好きだった。悪戯もした。大学創設者の銅像に褌をつけたのは、バンカラを気取っていた若かったころの自分だ。 「もう一回、性格を変えてみたら?看護婦のお尻を毎朝触るとか」 「馬鹿言うな。セクハラで大問題になっちまうだろう」 「じゃあ、机の引き出しに蛇のおもちゃを入れておくとか」 「ナースセンターから講義が来るぞ」 「そういうのを一年間続ける。すると周囲もあきらめる。性格っていうのは既得権だからね。あいつならしょうがないかって思われれば勝ちなわけ」 達郎が黙ってコーヒーに口をつける。同意はしないが理解はできた。図々しい人間は、その図々しさを周囲に慣れさせ、どんどん図々しくなっていく。伊良部がまさにそうだった。学生時代、伊良部がオナラをしても「ああ伊良部か」で許された。
2005年04月09日(土) |
角田光代『対岸の彼女』 |
ヨウちゃんからのプレゼントにビンゴ!! 久方ぶりに楽しい読書、目が離せない読書。 新学期直前の多分一年間で一番あわただしいときに読み始めてしまったが、寸暇を惜しんで読みました。
最近、人間関係の微妙なずれとか、周囲との微妙な違和感を描く小説によく出会うけど、多くの場合、なんとなく憂鬱な読後感だけのこって、「こういう小説も、まあアリなのかもね」みたいな感想を抱くのですが、この作品はそういう多くの作品とは明らかに異なる何かを持っていると読み始めてすぐに感じました。 描写が自然で、絶妙。とってつけたような文学的修辞に鼻じらむことなく、かといってそっけないという感じもない。 文体に余裕を感じます。
誰かと一緒に行動し、グループに属さないと不安な女の心理が絶妙に描かれています。 私は、子どものころは男勝りで、女の子グループからは率先してはみ出していたので、この本で世の女の子の幼少時代からの腐心と苦悩を目の当たりにできて、すごく新鮮な驚きでした。
主婦の小夜子は、大人になっても人と協調することに強迫観念を感じながらも、そういう自分にいらだちも感じている。 働き出せばすべてがうまくいく、という一念で葵という女社長の経営するベンチャー企業で働き始めるが・・・。
「彼女たちは席に着くなり、幼稚園の催し物や、担当の先生についてあれこれとせわしなく言葉を交わす。小夜子は話しに入っていけないが、そのほうが居心地がよかった。なんにも口出しせず、にこにこと相づちを打つのは楽だった。店員が飲み物を運んでくる。全員の前にすべてが並ぶまで、いっとき口を閉ざす。」
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