2003年11月30日(日) |
ちょーはっぴーすーぱーはぴー |
風邪をひいていたり、練習全然してなかったり、昨日が生徒の引率で休めてなかったり、テストの採点が終わってなかったり、最悪のコンディションでのぞんだ今日の試合でした。
久しぶりの私自身の試合。出るからにはがんばりたいなあ、という気持ちと、風邪できつかったり、試合が長引いて遅くなったら棄権しようという気持ちの半々で出かけていきました。
準準決勝であたった人からは、1セット目は取ったものの、2,3セットと完璧に攻撃されて、「もう負けか?」と諦めかけたんだけど・・・・。
昨日のことを思い出したの。 昨日の生徒の試合。 1セット目を取って、あと3セットを連取されて負けてしまうという試合を2回続けて、泣いた生徒。 自分が1セットめと同じようないいプレイをすることができれば勝てた試合だったから、「自分のいい状態をいつも出せるようになるようにならなきゃね」と話した。
その子と私、まったく同じ状態に陥っていることに気が付きました。 「卓球始めて10年以上たつというのに、なんだい、情けない。 中学生と同じことやってるんじゃ、えらそうに指導なんて出来ないじゃないさ」
それで、「絶対負けない!」と、超根性出したら、4,5セット取れたんですねー。でも、試合が終わった直後はあんまりにも精神力使いすぎちゃって、茫然自失状態でした。ふー。完全燃焼。
そして、準決勝。 県で国体出場を狙うような有名な選手との初対戦。 苦手なカットマンということもあって、 「まあ、惨めな負け方だけはしないようにしよう。 いい経験だ」 ぐらいでのぞんだのですが、「あれ?」と、あっけなく1セット目を取ってしまった。 何でセットが取れたのかわからず、あわててしまって2セット目とられてしまった。 3セット目、ネットイン連発でセットを取るものの、やはり自分で点を取っている実感がない。結局セットオールで負けちゃった。 だけどねー、全然といっていいほど凡ミスなかったんだ。 すごいラリー連発。 うん。大満足。
午後1時には試合が終わったので、部屋に帰ってすぐ採点に取りかかる。 仕事が嫌で嫌で、ぎりぎりになるまで手をつけようとしない私が、めずらしくいい子に仕事をしちゃった。 思いがけず、すべてがうまくいった一日だったな♪
【卓球談義】 私がカットマンが苦手なのは、回転を見分けることが出来ないからなので、回転をかけられないように、ボールをすべて浅く返して、台上でつっつかせるようにした。 この作戦はうまくいった。 相手は台上処理が比較的弱点だったから。 特に、バック側の粒高面では攻撃ができないみたいだったので、少々甘いコースでも攻撃される心配がなかったので、ラリーに集中できた。 ただし、相手は攻撃はしないものの、まったくミスがない。 プッシュもストップも同じように返してくる。 粒だかでのナックルスマッシュも効かない。 私は前人速攻で普段、ラリーが長く続くことがほとんどないので、長いラリーの考え方がわからない。 何十往復もして勝ち取った一点と、サービスエースの一点が同じ一点ということにがっくりきてしまう。 気持ちの維持の仕方もわからない。 同じ11本5セットマッチなのに、カットマンとやるととてつもなく長く感じる。 攻撃の選手とやるときのようにガッツで向かっていっても、自分で仕掛けて自分でミスして、早々に負けてしまうだろう。 でも、今日のように、落ち着いて、じっくりつないで、と、やっているといつまでたってもカットマンのペースで、自分で点を取ることは出来ないだろう。
結局、カットマン相手に、自分から仕掛ける攻撃なり何なりのパターンをもたなかったってことが敗因ですな。
2003年11月25日(火) |
居場所があるということ |
育休代理の先生が期限満了で今日お別れでした。
家庭科の先生。御歳74歳。 子どもたちのパワーに負けない大きなお声としゃんと伸びた背筋がすばらしい先生です。
職員朝会でのお別れの言葉。 「私のように年老いて力も足りない者を、お仲間にしていただき、一緒に働かせていただいて本当にありがとうございました。 毎朝、学校にやってきて、そこに自分の下足箱があり、職員室には自分の机がある。 そして、教室には自分を待っている生徒がいる。 一度職を退いたものにとって、こんな幸せなことはありませんでした。 本当に、感謝の気持ちでいっぱいです。」
聞いていて、思わず涙があふれてきそうになってしまいました。 私が春に今の学校にやってきた当初、自分の机や名札を見て、やはり同じ事を思ったことを思い出したからです。 「私はここにいていいんだ。ここにいることを求められているんだ」と。
前の学校を辞めて、まるで何にも属さなかったあの日々、一番私にとって苦しかったのは、金銭的な問題でも、対面的な問題でもなく、自分ひとり社会から取り残されてしまったような孤独感でした。 それは私がまったく予想もしなかったことでした。 朝起きて、世の中はいつものように動き出しているのにまるで予定がない日は、私が誰からも必要とされていないんじゃないか、というような感覚に陥りました。 それまでのりしろなしに小、中、高、大学、教員と進み、何かに属し、肩書きがある状態が当たり前だったから、ぽっかりと何もない状態は、思いがけず自分にとって不安なものでした。
でも、今振り返ってみて、あの一年間があって本当によかったなあ、と思います。 子どもたちは多種多様な環境から学校にやってきます。それを受け入れる教員もいろいろな人びととくらしがあるということを理解できなければいけないでしょう。 学校はある種特殊な世界です。 じっさいにそこから飛び出してみて、見えることがとても多くありました。
2003年11月20日(木) |
コメディエンヌ今日子 |
超注目して、まわりの人に強力にプッシュしているドラマ『マンハッタンラブストーリー』 一言で言うと、「小粋」なんですわ。
なんて、人に勧めまくっている割には3回しか見たことがないんだけど、でも、いいよ。うん。
ある純喫茶のマスターをストーリーテラーとして、そこにやってくる客(マスターも含む)たちの恋模様をえがいたドラマです。 恋愛ドラマなんだけど、そこはかとない脱力感で、あつくるしくないです。 そして、個性的なキャラクターがひきつけます。 とくに、私が大注目しているのは小泉今日子。 「ひとかわむけた」と、言うべきか、その器の大きさに私が気づいていなかっただけなのか・・・。 とにかく私は彼女にくぎづけです。
彼女が演じるのは、30過ぎの独身タクシードライバー。 厭世感を身にまとい、すかしきっているかと思いきや、恋愛モードに入ると、ブリブリアイドルモードに。 『私の16歳』の当時よりもアイドルっぽい笑顔にびっくり。 一見の価値がありますよ!
2003年11月19日(水) |
Mr.children『掌/くるみ』 |
お待ちかねのミスチルのニューシングルです。 ミスチル初の両A面シングル、ということなんですが、はて、両A面とはどんな意味があるんだろう? タイトル曲と同じぐらいいい曲だ、という意味ならばそんなこと知ってるよ。 カップリング曲にも隠れた名曲の多いミスチルなので、タイトル曲だけ注目しているとそんそん。これまでのシングルを振り返ってみると、シングルのカップリングでアルバムに収められていない曲もけっこうあるので、あなどれませんよ。
CDを買ってみたら、ビデオクリップまで付いていてびっくり。 ちょっとした映画のようなメッセージ性です。
『くるみ』のほうのクリップは、滑稽で、センチメンタルで、胸がちくりときました。
♪どこかで掛け違えてきて 気が付けば一つ余ったボタン 同じようにして誰かが持て余したボタンホールに 出会う事で意味が出来たならいい 出会いの数だけ別れは増える それでも希望に胸は震える
拝啓 枯れ葉舞う季節となり、朝夕の冷え込みが厳しくなってまいりました。 忙しさにかまけてご無沙汰しておりますが、母様にはお元気でお過ごしでしょうか? 私は風邪をひくこともなく、充実した毎日を過ごしております。 さて、先日、帰りました際、「携帯電話を買おうか考えている」とおっしゃっていましたね。 機械があまり得意ではない母様が、携帯電話に興味をもたれるなんて、珍しい、と心に残っておりましたので、今年のお誕生日のお祝いに、携帯電話をお贈りしますね。 小さな文字では読めないかも、と心配されておられましたので、大きな文字で表示されるようにしてもらいました。 電話がかけられれば・・・とおっしゃっていましたが、カメラもついているんですよ。 ボタンひとつですから、すぐ使いこなせるようになりますよ。 メールはちょっと難しいでしょうが、お兄さんに教えていただいたりしてみてはいかがでしょう?まずは私からメールを送っておきますね。 アドレス帳には家族や親戚の電話番号を入れておきました。 まずは、携帯電話が届いた、と、私にお電話くださいね。 楽しみにお待ちしております。 冬の入り口、どうぞご自愛ください。 敬具 きよこ 母様
金曜日につかれ涙を流してしまったことは日記にも書きました。 今となっては、自己嫌悪と、羞恥心と、情けなさと、しかたなかったっていうあきらめと・・・。
でも、同僚の先生が言ってくれました。
「きよこ、教頭先生が、「きよこ先生、どうしたかねえ」って言ってたから、言ってやったよ、これまでどれだけ大変だったかって、全部!! 一週間ずっと出張の上、先週はレポートの締め切りがあったし、今週は道徳の研究授業もあったし、すごくがんばってたんだよ!って言ってやったからね!」
本当にうれしかったなあ・・・。 救われた気分になりました。 親身になって、私のことをかばってくれる友達がいる。 本当にうれしいことだなあ。
そういうことがあって、教頭先生が 「先生に仕事が集まり過ぎないように、見るのが俺の仕事なのに、気づかなんで悪かったね・・・。」 って、言ってくれました。 いえいえ。私も悪いんです。 無理なら無理と早いうちに言わなければならなかったんです。
だけど、「忙しすぎて、無理です」と言うことはとても難しいです。 その仕事がどれだけ大変なものなのか、それがわからないことが多いんです。 今回は、直前になるまで事の重大さがわかりませんでした。 それに、一般的に教師がどれくらい忙しいのかもよくわかりません。 「眠らずに働くこともある」と言われれば、私の忙しさなど序の口でしょうし。
先日、来年度のことなど指導の先生と話すことがあったのですが、 「ぜひ、担任もやってみたらいいよ」 と言われて 「でも・・・今でさえ、精一杯なので、ちょっと担任まで持つ余裕がないと思うんですが」 といったら 「でも、ほかの先生、誰でもやってるからねえ。できるよ。」と。 そう言われると、なんだか、怠けているようで申し訳ないような気もしてきます。
そんなことがあったりして、「とにかく、やらなければ」と自分で悩みを抱え込んでいたところもあったので、今日の友達のその言葉は、うれしかったです。
村上春樹の言葉を借りるならば、 「冷たい海の底から引き上げられて、あったかい毛布でくるまれた」ような気分とでもいうところでしょうか。
2003年11月09日(日) |
嗚呼!パイレックス粉砕す。 |
*パイレックス* 食器メーカー。透明ガラス製のボウルが有名。
ボウルからケーキ型から、私も好んで集めているのですが、パイレックスって、かわいい上に出来るやつなんです。
鍋なんか、火の通り具合とかが外から見えるし、保温性がいいので煮物に重宝。 今日は、思いつきの味ご飯を作りました。
いえ、作っているところでした。
あとはは火にかけてふっくらするのを待つばかり、と、ほかの部屋へしばらく行って、戻ってみると、なんか様子が変!
調子よく鍋の中では沸騰しています。 だけど、なんか変!
パキ!
やだやだ、こわい! 火を消しました。 それでも鍋の中では沸騰が続いています。
ピシピシ パキン!
ドジャーーーン
「ええーーー!?まじですかー!」
パイレックスの鍋は粉々に粉砕。 ガスレンジの上には、米やら野菜やらスープやらが、こんもりと残りました。
おいおいおい。 パイレックスって、耐熱ガラスじゃないのー?
「学会に参加する土曜の午後」
なーんて、アカデミックな響きですが、そんな優雅なものではありません。 今年度の国語学会が市内で行われるため、市教育委員会が後援をしていて、人集めで招集されたというわけです。
大学時代から研究恐怖症の私は、学会というものに寄り付かなかったので、初の学会体験。
それよりも、私が人生でもっとも畏れる大学の教官に卒業して初めて会うというので大変でした。(先生は主催者側で忙しくされていたので、あまり話す時間もなく、ホッ)
とりあえず、顔を出すということが重要だったので、あとは公演を聴いて帰ってきました。 今回の講演は超豪華で、私でも聞いたことがある文法の第一人者というような方のものでした。 でも、内容はちんぷんかんぷん。 みごとにちんぷんかんぷん。
レジュメももらったし、日本語で日本語のことを説明してあるはずで、しかも私も文法をちっとかじったことがあるはずなんだから、と、思うものの、わからないもんだなあ。 と、ひどく感心。
国語の教科書を読んで「わからない」という子の気持ちがよくわかりました。
それでも、がんばって理解してみると、なかなか興味深い内容でした。 「はたして主語とは?」ということなのですが、学校文法にちょっと疑問を感じていたところだったので、直接答えにはならないものの、考えるヒントをもらいました。
「つかれ涙」って言葉を聞かないということは、ほかの人はつかれ涙を流さないということなのかな?
大人になって、悲しかったり、悔しかったりして泣くことはあんまりなくなったけど、疲れ果てて泣いてしまうことがでてきた。 体力的にも精神的にもがんばりの臨界点に来たとき、勝手に涙がこぼれてしまう。
今日は、はじめてそれがほかの先生方のまえで流れてしまった。 まったくふいにやってきたので、私自身も虚をつかれて、困ってしまったけど、周りの先生方はもっと困られただろうなあ。 とくに、校長先生と教頭先生には悪いことをしてしまった・・・。
先週から、ずっと忙しかったけど、私自身はそんなに追い詰められた意識もなく、ただ、淡々と「そこに仕事があるならば、やらねばならないんだろうなあ」、と。 今週は水曜に道徳、そして、今日は国語の公開授業をやることになっていたから、日ごろの授業と雑用に加えて、指導案とか対外的な書類づくりとあり、昨日は26時を過ぎるまで学校にいた。
公開授業は、まあ、ふつうに終わった。 校外から主事という、教員の指導者的立場の方が見にこられるけれど、突然その瞬間だけすばらしい授業ができるわけがないこともわかっているから、ありのままを見ていただくしかないと思ってやった。 授業を終えて、職員室に戻り、主事の先生から指導をいただく前に教頭先生から声をかけられた。 それで私は泣いてしまった。 教頭先生が私をいたわってくださるのがわかったから。
それから、ずっとその涙をどうすることもできなくって、主事の先生に指導いただく間もずっと流れ続けていた。 それは授業が出来なくて、悔しいとか悲しいとか、そういう意味の涙ではないけれど、でも、そういう風にまわりの誰もが思っただろう。
あんな場面に泣いてしまうことは、大人としてあるまじきことだし、私としても本当に不本意なんだけど、校長先生と、教頭先生のことを思うと、本当に申し訳ない気持ちでいっぱいになる。
そこで私がどうしようもなく泣いているということは、その学校での協力体制、管理体制の不十分さを意味してしまうから。
そうじゃない。 そうじゃないんです。ただ、疲れているだけなんです。
もう、毎日さむいっす!! こまる! こまるよ。こんなの。
毎日ふとんから出られません。 永遠に冬眠できたら、どんなにすばらしいだろう。 ・ ・・と夢想する午前6時30分。
できもしないことを思い浮かべて、5分ごとに私を呼ぶ目覚まし時計を、握り締めて、うつらうつらしています。
こういうのは、毎年の恒例だったりもするんだけど、今年の冬は新顔の参入の影響が・・・。 それは、低反射枕! ご存知でしょうか? ウレタンみたいな材質で出来た、波打ったような奇妙な形の、あの枕です。 あれをもらって、ためしに使ってみてから、私の夜は変わりました。
初めは、筋肉痛がやってきました。 寝違えたみたいになって。
でも、やがて、信じられないくらいの安眠が・・・。 あっっっと言う間に朝がやってきます。
うれしいような、かなしいような。 ほんとうに、あっという間です。 超熟睡。
目が覚めてからも、大変。 完全に頭が枕にフィットしきっちゃって、起き上がれないの。 頭を枕から離したくないの!
毎日、格闘です。 自分の意志力を振り絞って、格闘しています。
今日は、負けました。 あと10分の誘惑に負けて。朝練すっぽかしちゃった。 ごめんよ。部員。
2003年11月05日(水) |
ケストナー『点子ちゃんとアントン』 |
ケストナーという人は、きっととても子どもが大好きで、そして、子どもみたいな心をずっと持ち続けていた人なんだろうなあ。って思います。
大金持ちのお嬢様の点子ちゃんはちょっと変わり者。 友達のアントンはお母さんと二人暮し。 病気で働けないお母さんの代わりに毎日お手伝いをして、その上、路上で靴紐を売って生活費を稼いでいます。 点子ちゃんも、路上でお金を稼ぎます。ぼろを着て物乞いをするのです。 点子ちゃんのお父さんとお母さんにはもちろん内緒です。 二人は毎晩舞踏会や観劇に出かけているので、点子ちゃんはいい子で眠っていると思っているのです。
この物語には、愛すべきしかし困った大人がたくさん出てきます。 しかし、事件の最後に大人たちは、自分の間違えに気づき、考えを改めます。
ケストナーは、楽しくて面白いお話の中に、たくさんのメッセージを込めています。 それは、このお話しを読む子どもたちに、考えてもらいたいことです。
たとえば、 「ハッピーエンドについて ところで、みんなはこのことから、じっさいの人生でも、この本とおなじように、ものごとはいつも、こうあるべきだというふうに運び、こうあるべきだというふうに終わると思ったかもしれないね!そうでなければならないし、わきまえのある人びとは、そうなるように努力はしている。でも、いまはそうはなってない。まだ、そうはなってないのだ。 むかし、クラスメイトがいて、そいつはいつも、となりの子をカンニングしていた。そいつが罰をくらったと思った?ちがうんだ、そいつがカンニングした、となりの席の子が罰をくらったんだ。だからみんなは、ほかの人のせいで罰をくらっても、そんなに驚いていてはいけないよ。それよりも、みんなが大きくなったとき、世界がましになっているように、がんばってほしい。ぼくたちは、充分にはうまいこといかなかった。みんなは、ぼくたちおとなのほとんどよりも、きちんとした人になってほしい。正直な人になってほしい。わけへだてのない人になってほしい。かしこい人になってほしい。 この地上は、かつては天国だったこともあるそうだ。なんでも、できないことはないんだ。 この地上は、もう一度、天国になれるはずだ。できないことなんて、ないんだ。」
社会をもっとよくするために、一番大切なこと。 それは、子どもに正しいこと、大事なことを伝えていくこと。
短い章立てになっているので、夜寝る前に、子どもに読んであげるのにぴったりの本です。
長野県の教員って85パーセントぐらい信州大学教育学部卒業だから、私みたいな教育学部じゃない学部を卒業したようなのはアウトロー。 教育について圧倒的に素人です。
今日は、附属中学校に公開授業の参観に行ってきました。 一緒にいった同僚の先生たちは教育学部の頃から、何度となく参観しているし、教育実習もしてきているから、「まあ、こんなもんだよ」 なんて、言ってたけど、かなり特殊だよ!良くも悪くも。
長野県には附属中学は二箇所にあるんだけど、今まで私は松本にあるほうしか行ったことがありませんでした。 今回初めて長野のほうへ。 敷地内にはいるやいなや、等間隔にきちんと立ち並んでいる生徒 「おはようございます!」 おお!おはようございます。 びっくりした。
校舎内にはいっても廊下に等間隔に生徒が立ち並んでいて、同じ表情で口々に挨拶してきます。
はっきりいって、気持ち悪い! なんなの?この子達。まるでお人形さんじゃないの。 その不自然さに気づかずにやらされているとしたら、悲しいことです。
以前、どこかで読んだのですが、この世の中に存在するものはすべてエントロピー増大の法則にしたがって、発散、拡大の方向へ無限に広がり続ける性質を持っているんですって。 それは、人についても言えることで、無秩序に広がりゆくのが自然の姿であるから、型にはめようとすることは自然の流れに反して、無理をすることであると。
まあ、これは原則論で、現実にすべてのものが無秩序になり、なにもかもを自然の成り行きに任せたりすると、社会がたちゆかないので、程度の問題になってきますが、明らかに、あの子どもたちは、コントロールされすぎている、と、私の目には映りました。
中三の国語の授業を参観させてもらいました。 すばらしい授業でした。先生方の教材教具の下準備の綿密さ、すばらしさ。 こういう授業を積み重ねていけば、子どもたちにすごく力がつくだろうことは明らかでした。 すべてをまねすることは不可能だとしても、ひとつずつ私も授業に取り入れて生きたい、と思いました。 ただし、生徒はあまりにも従順で、レールの上をひたすらにひとつの目的地に向けてもくもくと走っているように見えました。 それは、授業が理想的に成立している、ということとは、少し違いました。 生徒は、ほとんど盲目的に、その授業の目指すところに、なんとかしてもっていこうとしているようでした。 きっと、長年の積み重ねで、そういうもんだ、と思い込んでいるのでしょうけれど、はたしてこの子達はどんな大人になるんだろう、と考えたときに、私は、暗い気持ちになりました。
全体、規範、常識というものに従順で、上手にいろいろなことを説明できて、問いに対する答えがうまく見つけられる人
それはもちろん批判されるような性質ではないけれど、それだけしかないような人に私は魅力を感じることは出来ません。 子どもには、一人一人本当にすばらしい、きらりと光る何かがあります。 それを押しつぶして、隠し切って、ひとつの型に当てはめてしまうような教育はいやだな、と思いました。
もうひとつの附属中学への参観については、2002年5月24日の日記に感想を書きましたが、同じ附属中でも、違うもんですねえ。
ただいま帰りました。 しんきろくを達成してしまいましたYO。 残業新記録。 冷えきった職員室の戸締りをして学校を出たのは0時20分でした。 しくしく。。 学校で翌日を迎えてしまったよう。 しかも、お仕事まだ終わってマセーン。 明日出さなきゃいけない学年通信まだ全然書いてないよ。
そして、明日は朝6時半の電車に乗って、公開授業の見学に行かなきゃいけないのにー。 と、いうことはこれから原稿を書いて、明日駅に行く前に学校によっていくということか?
最近良く思うのは、川下の住人ということ。 どうも私は川下に住んでいるみたいなの。
どんぶらこどんぶらこと、どこからか仕事が流れてきて、私の前に流れ着くの。
「えー!なんで!?」 とか思って、同じように、流しちゃえ、って思っても、私より川下に住んでいる人はいないんだよ〜。 かといって、川上の人に流そうにも 「え、俺にやれっての?!」 ぐらいの勢いで押し戻されます。
この前漢字検定を実施したのですが、もう一人の国語科の先生といっしょに漢検係をしています。 実施の一週間前にその先生が私のところにやってきて、
「漢字検定の、実施予定の案内の書類を出してくれないと困るんだよね。 生徒が私のところに聞きに来て」
??? え?それ私がやることになってましたっけ? 私の机の下には、問題用紙が届いているから、仕分けとか、検定協会への連絡とか、私がやるんだとは思っていたけど、それもっすか!?みたいな。
こんなセコイことでぶつぶつ言いいたくないんだけどね。 普通だったら 「はい。やっときますね」とか言ったり なんだったら 「私がやりますよ」 ぐらいの勢いで引き受けるんだけど、雑用ばっかりかき集めちゃって、結局授業の準備の時間や、生徒のための時間を削っていることに気づいてきた。
だから、仕事が流れてきそうになったら、うんとわざとものわかり悪くしたりする。 「え?どうやるんですか? できるかなあ〜?うーん。はあ」 わざと仕事が出来ないふりをしたりする。 「仕事を任せたら、かえって面倒なことになる」って思わせること、今のところ、雑用漂着防止策はそれくらいしか思いつかないんだもん。
いいの。先生たちに仕事が出来ないって思われたって、私にゃ痛くも痒くもないもん。 大事なのは生徒でしょ。
昨日の私の日記のことなのですが、あの、「どこまで遠慮ってするもんなの?」ってやつ。
今日、嵐山光三郎の『文人悪食』を読んでいたら、ちょうどいいことが載ってた。 菊池寛の『私の日常道徳』からの引用。
「一、 私は自分よりは富んでいる人からは、何んでも欣んで貰うことにしている。何の遠慮もなしにご馳走にもなる。総じて私は人が物を呉れるとき遠慮はしない。お互いに、人に物をやったり快く貰ったりすることは人生を明るくするからだ。貰うものは、快く貰い、やる物は快くやりたい。 他人にご馳走になるときは、出来るだけたくさん食べる。そんなとき、まずいものをおいしいと云う必要はないが、おいしいものは明らかに口に出してそう云う。」
なるほどねえ。 快く貰い、快くやる。 お互い様って、すごく気持ちいいね。 お金と心遣いと、一方通行だったら、居心地悪いけど、 「いいからいいから!今日は私が払うから、今度よろしくね!」 って感じになったら、おごられるほうも、居心地悪くないし、おごるほうも、きまりいい。
そして、ご馳走になるものをちゃんとおいしく食べて、その場を楽しいひと時にすることが出来れば、払うほうとしても、満足だよね。
例えば、今日、5000円おごったとする。 そして、次回、5000円おごってもらったとする。 お金の収支はプラスマイナス0だけど、気持ちの上での収支は0ではないと思う。 何か人のためになった、という満足と、人によくしてもらった、という喜びで、きっとその人との絆はお金の結びつき以上の人間味あふれるものになるだろう。 まさに、「お互いに、人に物をやったり快く貰ったりすることは人生を明るくする」というわけだ。
思い出すのは、ヨウちゃんという友達なのだが、彼女は自称「プレマニ」。 プレマニすなわちプレゼントマニア。
人にプレゼントすることを喜びとする人なのです。 施しをしたい、なんて傲慢なものではなく、まったくもって、あげることそのものを本人がたのしんでいる。 ラッピンググッズを買ってきては自分の手ずからラッピング。
かくいう私もその恩恵になんどか預かった一人なのだが、不思議なもので、「もらったから、私からもプレゼントを」、とはじめはお付き合いでやっていたプレゼントがだんだん楽しくなってきた。
そうか。そうなのだ。 何かを貰うこともあれば、こちらから差し出すこともある。 それは望んでそうすることもあれば、状況から義理でそうすることもあるだろう。 だけど、誰しも与えられるだけということもなければ、貰うばかりということもない。
くれるというのなら、もらっておけばいい。 それに気が引けるのならば、次の機会に何かお返しをすればいいんだ。 もちつもたれつ。 そうして地球は回っていると思うと、救われたような気分になります。
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