もう、29日か〜。 今年は例年にも増して季節感のない一年間を過ごしてしまいました。 ずっと学校の中にいると、夏のうだるような暑さも、木枯らしも、雪まじりの雨も感じないうちにいつの間にか季節がうつっていってしまいます。
もう、年の瀬です。
はあ、こういうの、本意じゃないなあ。
12月に入ったら、「いよいよ今年も暮れていきますね」って話して、どこから大掃除を始めようか計画したり。 年賀状を少しずつ書き始めたり、「今年は暖冬で助かりますね」という会話をしたり。 クリスマスプレゼントを買いに、にぎわう街に繰り出したり。 そして、いよいよお年越し。 そういうひとつひとつをゆっくりかみしめるように暮らすなんて、もはやものすごい贅沢なことなんだろうなあ。
来年はもう少し、心に余裕を持てるといいなあ。
と、いうわけで、今年はこれで打ち止め。 休み休みでしたが、日記を書きつづけることができて、よかったなあ。 また、おつきあいしていただいたみなさんにも感謝! メールを下さった方々、どうもありがとうございます。
この一年の日記を振り返ってみてみたら、すごい量になってました。 いつもワードに書いて、それをコピー&ペーストでアップしているのですが、ワードのファイルを見てみたら、198ページ、13万字にもなりました。
日記を書くようになって、自分の考え方が変わったなあと思うことがよくありました。 変わった、というのは語弊があるかな? 整理して考えることが出来るようになってきたような気がします。 漠然と思っていることを、日記にするためにはいらないとこは削り、足りないとこを足さなきゃいけません。 そういう客観化をするなかで、自分の考えがすっきりとまとまるのを感じます。 書くということは、自分からのアウトプットでありながら、インプットなんですよねえ。 来年も、がんばって書き続けるぞー。 よろしくおつきあいくださいませ。
では、これから、田舎へ帰ります。 例年どおりの THE お正月ってやつをやってきます。 よいお年をー!
2003年12月28日(日) |
岩月謙司『ずと彼氏がいないあなたへ』 |
ヨウちゃんからのクリスマスプレゼントの中の一冊です。
かなりうけた!
「きよこ、ちがうんだよ。 べつに「これを役立てろ」なんてつもりじゃないからね。 自分のために買って面白かったから送るんだよ」
うんうん。 わかってるよ。 でも、ヨウちゃん、人妻じゃん。
2003年12月27日(土) |
三島由紀夫『鍵のかかる部屋』 |
いっそのこと、三島由紀夫全集を買ったほうが効率的だと思うのですが、全集って、なんか嫌じゃないですか?
だって、あんな厚くて堅い本、机の上じゃないと読みにくいじゃん。 私は夜寝る前に布団に寝転んで、とか、お風呂の中で表紙をべろべろにしながら読みたいんだもん。
なので、私は新潮文庫のあの朱色の背表紙の文庫本をちまちまと買っては、読んだころにはどこかに紛失しちゃうとか、ぼろぼろにしちゃうとかしながら、無軌道に三島由紀夫を楽しむのです。
いまどき、普通の本屋さんには三島作品というと『金閣寺』『仮面の告白』ぐらいしか置いていません。 でも、ヴィレッジバンガードみたいな面白本屋さんだと、なかなか凝った品揃えでうれしくなります。 そして、やっぱり、ほしいものが手に入るのはネットの本屋さん。
『鍵のかかる部屋』もアマゾン屋さんで買いました。 この短編集には三島由紀夫の15歳から44歳自決直前までの作品12編が収められています。
あまりにも多彩すぎて、あまりにも深すぎて、私にはどの作品がどうだなんて論じる視点を持てません。 なので、心に残った表現を引用するに留めおきます。
「戦争が道徳を失わせたというのは嘘だ。 道徳はいつどこにでもころがっている。しかし運動をするものに運動神経が必要とされるように、道徳的な神経がなくては道徳はつかまらない。戦争が失わせたのは道徳的神経だ。 この神経なしには人は道徳的な行為をすることができぬ。従ってまた真の意味の不徳に到達することも出来ぬ筈だった。」「慈善」
いまだ、道徳的神経は喪失されたままの日本列島です。 いいえ。 道徳的神経はそこに自然に発生するものではなく、世代の上から下へ継承されていくものです。 一度その継承が断絶されたところに、もう一度道徳的神経をよみがえらせるにはどうしたらいいのでしょう?
「朝のラッシュ・アワーの電車に揉まれていて、一夫は誰も叫びださないのを不思議に思うことがあった。 自分の体さえ思うままにならない。他人の圧力から、自分の腕をどうにか引っこ抜いて、背中の痒いところを掻くことさえできない。 誰もこんな状態を、秩序の状態だと思わないだろう。 しかし誰もそれを変改できない。 満員電車のなかの押し黙った多くの顔のそこに、ひとつひとつ無秩序が住んでいて、それがお互いに共鳴し、隣の男の無礼な尻の圧力を是認しているのだ。 ああいう共鳴は、一度共鳴してしまったら、とても住みよくなるのだ。」「鍵のかかる部屋」
この部分にひどく共感してしまいました。 私は“満員電車の無秩序の状態”を、学校現場の日常の比喩として受け止めました。
私の部屋のコンセプトは、一にも二にも「いやし」なのですが、いやしの部屋計画のクライマックス、最終兵器として、ついに、ソファを導入することに相成りました。
私の理想のデザインのソファを通販雑誌で発見したのです。 で、注文したはしたのですが、届けられる段になって、ゆううつ〜な気分になってきました。 それというのも、ソファをすえつけてもらうために、運送屋さんに部屋に入ってもらわなければならないということなんです。
自分のまったくもってありのままの素の状態の巣の中に、見も知らぬ人を招き入れることって、私にはものすごーく抵抗があるんです。 それは、部屋が汚いから、とかそういうことではないんです。 部屋が汚いなら、掃除して待ち構えればいいのですから。
そういうことではなくて、うーーん。
例えば、食料品を買いにいって、レジで支払いをする。 レジの人は形どおりにレジを打ち、客は客として求められる金額を支払いさえすればいい。 そこに個人的な名前や感情や生い立ち、性格なんて、まったく必要ないのです。 そこで 「あなたは何人兄弟ですか?」とか、 「趣味はなんですか?」 なんて質問がどちらから発せられたら、多分相手は怪訝な顔をしてこう言うだろう。 「なんでそんなこと聞くんですか?あなたには関係ないことでしょう?」 役割だけが必要な、匿名のコミュニケーションの世界なのです。
そこで、ソファの話に戻るのですが、言うなれば、運送屋さんはレジの人なわけで、私はお客さんとして、ただ、ソファを運んできてもらうだけなのですが、部屋に入れるということは、好むと好まざるとにかかわらず、私の個人的な顔をさらさなければならないのです。 これが私の憂鬱の原因です。 もともと、宅急便を玄関先で渡されることすら苦手なんです。
教師という職業は、全人格的なものを求められます。 「教師のくせに、だらしない」 「教師なんだから、責任のある行動を」 しかし、私は自分の性格が教師向きだなんて思えないので、がんばって教師っぽい振る舞いを心がけます。 その反動でしょうか。 私は自分が名なしになる感覚が快いことがあります。 スーパーをぶらぶらするとき、インターネットをするときの、その他大勢の感覚が好きです。
クリスマスイブで浮かれているのは生徒だけでごんすよ。 こちとら、学期末。 やりのこしないように、毎日途切れそうになる集中力をかろうじてつなぎとめながら学校生活を送っていますことよ。
まあ、とにかく、今日も一日やり終えたわあ、と、家に帰ってすぐに、玄関でチャイムがなりました。 出てみると、宅配やさん。 この前、読み終わった本とか、お勧めのゲームソフトとか、そういうものをごちゃごちゃとヨウちゃんに送ったのですが、そのお返しに贈ってくれたプレゼントでした。
かわいくラッピングされた袋の中には、きむちゃんからのお勧めの本が8冊も。 暖かい部屋で、読みながら食べてね、と、クッキーなどのお菓子が。
わーー! 私のところにもクリスマスがやってきたよ。 ヨウちゃん三太のプレゼントだよ。
ヨウちゃんは、プレゼント上手で、自称プレマニというぐらいだけど、私はこんなに心のこもったプレゼントをもらって、「参りました!」ってノックアウトでした。
私の母は二人いると思っている。 実の母と、シスターシゲコ。 私の高校時代の恩師だ。 高校の3年間と、それから、その学校で教壇に立った2年間、本当に親身になって、時に厳しく、しかし温かく私を導いてくれた人。
シスターにどれだけ多くのことを教えていただいたか、はかりしれない。 もう定年されて、修道院で穏やかな祈りの日々を送っていらっしゃいます。
今日、シスターから荷物が届いた。 贈られたけど袖を通していない服があるから、よかったら、と、冬物の服でした。 もし着ないようだったら、と、送り返すための送料まで同封して。 いつもながら、こまやかなお心遣い。いたみいります。 そして、短いお手紙。
「19日に終業式を済ませ、今はお休みでやっと一息つき整理をはじめました。 そろそろ人生の終わりの・・・です。 でもまだちょっと雑用はあるようですが・・・。」
なにをおっしゃるんですか、シスター!! まだまだずーっとずーっと先のことですよ。 私が結婚して、子どもを産んで、その子が成長するまで見守っていてくれなきゃダメです!
シスターにとっては、死ぬことは神のもとへ召されることなのですから、幸せなのでしょうが、残されるほうの身にもなってください。 人が死ぬということはどういうものであれ、やりきれません。 私はどうも死について too much sensitiveなのかもしれません。
今日、同僚の先生のおばあさんが亡くなられました。 本人も、職場だし、ごく淡々と、休む間の授業の準備や連絡をしていたのですが、それでも、きっと心中では悲しみにくれているんだろうなあ、と思ったら、なんか、涙がでてしまった。
いよいよ年貢の納め時がやってきました。 先週ぐらいから、ときどき左の奥歯が痛むんです。 比較的仕事の楽な、この学期末にいくしかない! と、一念発起してからも、ちょいとぐずぐずしたりして、ようやく歯医者さんの門をくぐるに至ったしだいです。
何年ぶりだろー。歯医者さん。 高校時代にもしかしたら、ちらりと行ったかもしれない・・・ぐらい、ひさしぶり。
「私は虫歯になりやすいので、きっとどこか虫歯があるに違いない」 という、情けない自信を持ちながらも、黙して語らないのをいいことに、働き者の歯たちを酷使してきたのでした。
はたして、奥歯の鈍痛は、詰め物が取れていたのに気づかずに放置したのが原因でした。 と、いうことで、新たにまた詰めなおしてもらうことになったのですが、・・・こわい!
26にもなって、情けない・・・。 でも、言い訳すると、子どものときはぜーんぜんへいっちゃらだったんですよ。 けろりと歯医者に通ったものでした。 でも、今回は、ものすごくこわかった。
なんか想像力たくましく、いろんなこと想像しちゃった。 このドリル状のものが、私の歯ではなく、肉の部分に当たったらどうなるんだろう? 霧状に水分を噴射する機械が私の口に突っ込まれているが、私は、この霧の間を縫って呼吸するのか!?
部位も部位で、マックス口をおっぴろげです。 それでも、「もうちょっと開けてください」 と叱られ、いすを上にしたり下にしたり、角度を変えたり、すったもんだ。 恐怖のあまり呼吸困難になって、何度も治療を中断したから、いっぱい叱られた。 えーん。 だって、だって・・・。
麻酔でぶよぶよの口を、指でもてあそびながら帰る夕暮れでした。
ついに冬将軍の到来です。
こころゆくまで惰眠をむさぼった朝、窓の外を見ると、そこはもう白銀の世界でした。 「うーん、冬ですなあ。 ・・・おやすみなさーい。」
心のどこかで、 「タイヤのはきかえしなくていいの?」 「そろそろ起きて、掃除と洗濯したほうがいいんじゃないの?」 という声が聞こえたような気もしたけれど・・・。
平日家にいるときは、ぼーっとするかお風呂に入るか、寝るかしかしないので、週末、掃除などして、きれいなお部屋に戻してまた一週間が始まる、というのが私のパターンなのですが、 どれだけ寝ても寝たりないよう。
こういう日は、流れにまかせてしまおう。 まだ明日もお休みなんだから。 今日は一日冬眠の日としよう。
2003年12月18日(木) |
『耳に残るのは君の歌声』 |
とても美しい映画でした。
第二次世界大戦前夜のヨーロッパ大陸を舞台に、幼いころ家族と生き別れてしまった少女が、さまざまな人との出会いと別れを繰り返しながら、幼いころ聞いた歌声を頼りに父を捜し求める物語です。
少女を演じるのはクリスティーナ・リッチ。 凛としたまなざしが、言葉よりも多くのものを語りかけてきます。
ジプシーの若者を演じるのは、ジョニー・デップ。 かーっこいいよねえ。 寸足らずのズボンを穿いていたり、髪の毛ぼさぼさだったりするんだけど、ふとしたときに目元にうかぶ優しさに、いちころでやられちゃいました。 『パイレーツオブカリビアン』みたいなこってりの演技じゃないのに、すごく目をひきつけられます。
DVDの特典で、撮影風景が収められていました。 私は野次馬根性旺盛ですので、こういうの、とてもうれしい。 どんな様子で映画が作られているのか、俳優さんたちの普段の素顔はどんななんだろうって。
クリスティーナ・リッチがタバコをふかしておしゃべりしている姿に驚愕。 そこいらにいるような、今風のギャルって感じでした。 衣装は同じなのに、全然劇中とは別人で、プロなんだなあ、と感心しました。
女の先生友達で、晩御飯を食べに行く。 田園風の外観のレストランでちょっと優雅にディナーです。 ちょまっとずつ運ばれてくるコース料理なんて、慣れていないから、 「どのナイフを使うんだろう?」と、ひともんちゃく。
給食10食以上の額を一食に投じても、「こんなのもたまにはありだよね」と、言えるのも一人身の気楽さというものでしょうか。
先日、初任者の仲間で飲みました。 福沢先生は、私と同じ歳なのですが、奥さんがいて2歳の男の子のパパです。 「ボーナス出たけど、車検2台分とかで、もう全部行き先が決まっちゃって、何も残ってないよ。ごめんね、ここの飲み代も安く抑えてもらっちゃって。」
もちろん、初任者だからみんなほとんどお給料おんなじなんだけど、守るべきものがある人は、大変なんだなあ。
でも、26歳って言ったら一般的に適齢期だから結婚していても全然自然なのに、、その上まっとうに働いているのに、家族を養っていくのはそんなに大変なの? ダブルインカムでなければ家計は成り立たないの?
えーーー!? そんな社会、不満だ! 男も女も晩婚化が進んでいるのは、やっぱり、結婚すると独身のときよりお金が自由にならないからだという。 じゃあ、はたして、男が働き、女が家を守るという構図が一般的だった昭和初期は物価が安かったから、一人の稼ぎで家計を成り立てて行くことが出来たのか、 答えは、やっぱり、NO。 一般的な庶民の家庭では、赤字、赤字があたりまえ。 亭主の年齢が40を越えたあたりから、ようやく黒字に転じてくるぐらいだったんですって。
ってことは、独身でお金の贅沢をしすぎちゃって、感覚が麻痺してしまうことが問題なのか。
2003年12月14日(日) |
千野栄一『注文の多い言語学』 |
「私は教育学部じゃなくて、文学部の卒業で、大学時代は言語学を専攻していたんですよ。」 と、先日の研究会で、児島先生がおっしゃるのを聞いて、ひとりうれしくなっちゃった。
私も言語学畑出身なんですよー!! わーー。 わーー。共通点はっけん♪ 児島先生のお話がこんなに私にストライクなのは、言葉に対する基本的な考え方が似ているからなのかも、なんてことまで考えちゃった。
児島先生も千野栄一先生の『注文の多い言語学』読まれたのかなー?
この本は言語学の入門の入門の本なのですが、例えば、 「ゴキブリラーメン」という名称のラーメンが世の中に存在しない理由を言語学的に説明したり、というように、難しい問題を易しくわかりやすい例で解き明かしてくれる、開眼の書なのです。
大学時代の私は、本ばかり買いあさって、本棚にそれらの専門書がずらりと並ぶのを眺めて、自分の勉強不足から目をそらしていました。 そして、大学を卒業するとき、残念ながらおそらく一生役に立てることの出来ないそれらの本を、院に進学する友達にせめて役立ててもらおうとすべて譲ってしまいました。 その中で、今、譲らずに手元に置いておけばよかった、と唯一思うのはこの『注文の多い料理店』です。 この本を読んで、「言葉って面白い!」「もっと知りたい!」と探究心に燃えたものでした。
私が本を譲った友達は、院を卒業して、今、韓国の大学で日本語を教えています。
『恋のから騒ぎ』を見ました。 今日のゲストは叶姉妹。 もはや彼女たちの職業や、本当は姉妹じゃないってことなんて、ノープロブレム。 叶姉妹は叶姉妹という確固たるポジションを確立してしまった感がありますね。
恭子のたまはく、 「何が浮気かなんて、どうやってわかるんですか? 私はお付き合いしている人、誰が本命かなんて決めませんよ。 その時に会いたい人に会うだけですから。」 「え?会いたいって言って、いつでも会いに来てもらえる?」さんまsaid. 「私が会いに行きます。」 「じゃあ、会いに行って、そこでほかの女とはちあわせとかしたらどうする?」 「問題ないんじゃないですか。 それで彼女をかえすでしょうから」 「ほかの女をだいたような男でいいんですか?」 「ええ。そんなこと聞きもしないし、どうでもいいですから。 だって、時間は刻々と流れているんですから」
ううーん。 恋愛論の極致だね。 どうしても、恋愛について語ると、 「あなたは私のもの」っていう所有意識
「私以外の女の人と仲良くしたりしたらだめだよ」とかいう独占欲
「私はあなたの彼女なんだから、なんでも知りたいって思うのがとうぜんでしょ。だから携帯電話をみたっていいじゃない」っていう権利
「絶対二人の記念日は覚えてなきゃダメだよ」とかいう義務の話なんかにすりかわりがちなのですが、
恭子はそういういやらしさがないねえ。
その瞬間、一番心ひかれている人に会う。それは、相手の心を拘束するものでもなければ、未来を約束するものでもない。
人の気持ちなんて、ほんと流動的なものだから、何にも約束なんて出来るはずないだろうにね。 どうして恭子みたいな考えにはいたらないんだろう。 約束できない気持ちのことだから、彼氏彼女、妻夫って形で約束したくなるのかな。
2003年12月11日(木) |
安野モヨコ『花とミツバチ』 |
ついに完結です。 安野モヨコという、希代の観察眼を持った漫画家が描く、さえない男への恋愛指南。
女の本音がビシバシきいていて、男の人にとってはかなりつらい内容と思うのですが、ヒジョーに興味深いマンガでした。
結局小松はもてないまんま、彼女と別れたくもないのに、別れようって切り出しちゃって、あっさりOKされちゃって、せめて友達でいたいと思いながら、そんなきれいな別れかたなんてできるほど器用じゃなくて・・・。 「話しかけられたら仲直りしよう」って思い続けて一年間。
ある日、廊下ですれ違ったとき、ひょんなきっかけでやっと話しかけることが出来た。 そのときの彼女の一言。 「話しかけられたら、仲直りしようって思ってた。」
なにか悩みがあるたびに、なにかうれしいことがあるたびに、話したくなる人がいる。 でも、もう、ずいぶん連絡を取っていない。 向こうから電話をくれないかな・・・って、情けない期待をしながらすごしている。 もしかして、相手のほうもそう思って待っているのかな・・・。 これも情けない期待だね。
いつか政府が行ったリサーチによると、長野県はレジャー面での便利さが全国でベスト5にはいる。 かなりびっくり。 ほかになを連ねているのが、首都圏の都道府県だったから。 でも、よく考えると、日本アルプスはあるし、スキーはできるし、温泉はいたるところにあるし。 確かに、恵まれているのかもしれない。
なかでもやっぱり温泉がたくさんあるのはうれしいな♪ 温泉大好き。
暇を見つけては近くの温泉をいろいろ楽しんでいます。
今日は平日にもかかわらず、ちょっと早く仕事が終わった勢いに乗って、温泉に行ってきました。 とはいえ、学区内です。 10時半を過ぎてはいましたが、戦々恐々。 いやいや、生徒がよく入りに来ているんですって。 温泉でポヤーンとしているところで、ばったり、なんてヤダー。 不特定多数の生徒と裸の付き合いなんてムリ!
そんなこんなで、きょろきょろしながら、そろりそろり入っていったのですが、幸い生徒はいないとわかるや、10種類もの温泉を存分に満喫しました。 生き返りますわ〜。
半分まどろみながら家に帰ったのが12時。 明日も早いぞ、と、そっこーでお布団にもぐりこみました。
いつも自分の家のお風呂も同じぐらい入っているけど、さすが温泉は湯が違う! 翌朝はお肌がつるつるなこと! はーしあわせ♪
2003年12月08日(月) |
男と女の間には深くて暗い川がある?! |
「アリー・マイラブ」のDVDを借りてきて見ました。 アメリカの法廷社会を面白おかしく描いたドラマなのですが、「女らしくなるためのセミナーを拒否した社員を解雇するのは違法か」という件についてでした。
陪審員を説得するための弁護士の対立する主張が面白かった。 ・ 会社は強気な女性を認めず、弱弱しく、やさしく、従順であるということを強要した、これは性差別である。
・ 男らしさでしか評価せず、女らしさを認めない社会こそ性差別である。社会が勇ましく、強気で、猛々しい姿しか評価しないから現代女性はその姿を目指し、ふるまうが、女性が本来的に持つ特質、優しさ、感性をのばし、いかすべきである。
なるほどなあ、と思いました。
修学旅行の夜にこんなことがありました。 ある40代の女の先生が、 「あとは、男の先生方に任せて、われわれは失礼しましょう」 といわれました。 私はこの言葉にすごく憤りを感じました。 「そんなことを言うならば、男の先生と同じ給料表で給料を貰うな!」と。 仕事の世界で女を理由に楽をするのはずるいですよ。
かといって、 「おまえらー、ちゃんとやらねーか!」 と、命令形で怒鳴る先生。いつもジーンズにトレーナー、ノーメイクの先生も嫌だなあ、と思います。 でも、女の先生はこういうタイプが多いです。 それは、力のある教師というものが、「怒ると怖い」「声が大きい」とほぼイコールであるという旧態依然の価値観のせいだと思います。 怒鳴って、怒って、子どもを萎縮させて軍隊式に思い通りに動かす。 そういうのは、力のない教師のすることです。 生徒に任せるのが怖いから、型にあてはめようと威嚇するんです。
そう私は確信しているから、なるべく大声で怒鳴るようなことはしません。 なるべく、穏やかに話すようにしています。 なるべくやさしい気持ちを投げかけています。 これは甘やかしではないんですよ。 怒りには怒りが返ってきます。 優しさには優しさが返ってきます。 そして、子どもは経験でパターンを学ぶのです。
100冊ものノートを抱えて廊下を歩いていた掃除の始まりのとき。 「先生、重そうだね。運んであげるよ」 と、数人の男子生徒が近寄ってきました。 (「やっぱりやーめた!」というオチを用意して。) 「わー!ありがとう!!! みんなすごくやさしいねえー! でも、気持ちだけ貰っておくね。 みんなは掃除をがんばってね。」
ちょっと大げさなぐらいに言います。 真に受けてだまされてやります。 そうしたら、きっとこれから似たような場面に出くわしたときに、同じように、(今度はオチなしで)親切に声をかけることが出来るでしょうから。
とどのつまり、私は女だからやさしく振舞おうとするのではないのです。 私は私として、そうありたいと願う自分なのです。 性別でかくあるべしという型をきめることはできません。 能力も資質も、すべて個人の問題なのです。
2003年12月07日(日) |
ああすれば、こうなる式 |
私は養老孟司さんの考えることに、いつも半信半疑です。 「ああ、そうなのか」と、すっと目を開かされることもあれば、 「えらい傲慢なことを言うなあ」 「それはちょっと言いすぎだ」 ということも多々あります。
それから、なんで、話す言葉をそのまま本にしちゃうんでしょう? 私は、人の世を高みから眺めるようなその語り口に抵抗を感じます。 無味乾燥な論文体にしてくれたほうが、主観を交えずに読めるだろうに・・・。
『養老孟司の〈逆さメガネ〉』を読んでいて、一番、心に残った箇所。
会社のような組織の中で働くと、仕事には、手入れとは違った合理性が徹底的に要求されます。その合理性を「ああすれば、こうなる」と表現します。 そんなバカなことをして。こういう結果になるに決まってるじゃないか。都会の人は上役からそう叱られます。頭の中できちんとシミュレーションをして、望ましい結果になるように、自分の行動を調節せよ。それを絶えずやらされるわけです。だからどうしたというのだ。それで何が悪い。またまた、そういわれそうです。 じつは子育てはそうはいきません。「ああすれば、こうなる」どころか、しばしば「どうしたらいいか、わからない」ということになりかねないのです。子どもが悪いことをしたからって、首をくくった父親がいたじゃないですか。しぜんはもともと、どうなるかわからないものです。子どもは車ではない。部品が全部、わかっているわけじゃありません。そういうものが「どうなる」か、完全にはわからないのです。」
なるほど。 省みたときに、私の思考過程も「ああすれば、こうなる」式だなあ。 確かに。 すべての問題がそれで解決できる、というように、誤解してしまう傾向にありますねえ。 子育て、感情、人間関係、そういうことを「ああすれば、こうなる」で解決できると思い込んじゃうと、確かに危険だなあ。
お笑いマニアな私。
ビデオにとって、かならずチェックするようにしているのが「爆笑オンエアバトル」と「エンタの神様」 NHKって、ひそかにコンスタントにすごい番組を送り出し続けているよねえ。 「爆笑オンエアバトル」なんて、完全に才能の資本主義だよねえ。 面白くなければ、放送されない。 いつかグレートチキンパワーズが挑戦して、その知名度にもかかわらず、惨めに得点が最下位ぐらいで放送されなかったなんて、象徴的なこともあったっけ。
今、私が好きなのは、長井秀和とか、フットボールアワー、ますだおかだ、ビッキーズ、ううーんと、名前が思い出せない、あの、ピーポくんのネタやる人たち。
そんな人びとに笑わせてもらうのを楽しみとしている私なのです。
「女が26歳を越えると、“夏したいネ”などとひどく抽象的なスローガンを立てる。間違いない」 と、突然ぼそりと男子が独り言を言ったりする。 また、 「おーいしーい!」 とピーポくん風に叫んだりする。
まわりの生徒は、誰も笑わないのに、私ひとり、それがヒットして、笑いをこらえるのに必死になることがある。 ひょんなところでお笑い好きな生徒と共鳴しちゃってこまるわー。
2003年12月05日(金) |
こんな先生になりたいな |
今日は国語の研究会。 お互いに授業のレポートを持ち寄って、発表したり意見交換したりする会です。 一つの分散会が10人ぐらい。 全員がそれぞれ発表するので、一人の持ち時間は10分。 似たテーマの3人ぐらいが続けて発表して、それから20分程度の討議。 20分程度の児島先生のご指導。
一日がかりの研究会だったので、児島先生のご指導を沢山いただくことが出来て、本当に勉強になったー♪ 朝は緊張もしていたし、すごく憂鬱だったんだけど、夕方は充実感と満足感とですごい楽しい気分で会場をあとにした。 来年も来よう!ぐらいの満足感。
教育用語で「必要感」っていうのがある。 勉強は、「勉強したい、知りたい、わかるようになりたい」っていう必要感が あると深まるし、楽しい。 ただ、「とにかくやる!」といわれて詰め込まれるより、例えば、「お世話になった人に筆を使って年賀状を書くために、まず半紙に練習してみる」というようにしたほうが、同じことをやるにも生徒が積極的に取り組める。
私が今日の研究会を楽しめたのも、「必要感」がものすごくあったからだなあ、って思った。 毎日の授業で、もっとうまくやりたいけどなかなか満足のいく授業が出来ない。 もっとわかる授業にしたい! っていう想いが積もり積もっていた。 勉強したい、教わりたい、と思いながらも、それについて答えを出してくれる人はなかなかいなかった。 いろんな先生に質問するものの、 「うーん。難しい問題だねえ。 まあ、じっくり考えながら、いろいろ試してみたらいいよ」 と、なだめられてきました。
でも、さっすが児島先生☆ すごくはっきりと、すっきりと、そういう問題についての考え方を教えてくださり、答えを与えてくださいました。 「わかる」ということって、本当にすごくうれしく、楽しいことだなあ。 この先生に聞けば「わかる」と思える、それは信頼の一番大切なところだよねえ。
いつもみたいに、話しかけることもできずに帰ったら、逆に失礼だと思って、閉会してから児島先生にお礼を言いに行った。
目が合った瞬間、児島先生がおっしゃった。 「ああー。きよこ先生、行ってあげられなくってごめんね」 この前私が授業を主事の先生に見ていただいたあと、指導していただいた時に泣いてしまったことがありました。 そのことを児島先生が聞かれて、自分が行っていたら、いろいろ教えてあげられたのに、という意味の言葉です。 そんな、児島先生が謝られることでは全然ないのに・・・。 「わからないことがあったら、いつでも教育事務所のほうに電話してね。 相談に乗りますからね。」 ありがとうございます。 そんなによくしていただくと、忘れていたあのときの涙がまた出てきちゃいそうです。
私は児島先生にお会いして、初めて「こんな先生になりたい!」と思える先生に出会うことが出来ました。
先生を好きになったことありますか? 同僚のコーキ先生はもててもてて大変。 そういう私も、中学時代は、理科の先生が好きでした。
それで、私はどうしたか。 話しかけることも出来ずに、理科の授業と、廊下ですれ違うことだけを喜びにして学校生活を送っていました。 廊下ですれ違ったからといって、話しかけるでもなく、ただうつむいて通り過ぎるだけでした。 授業だって積極的に挙手なんて出来る人じゃなかったから、期間巡視で先生が回ってきても固くなってじっとしているだけでした。 アピールといえば、テストでいい点をとることぐらい。
古きよき青春時代の思い出・・・・だったのですが。 私は、心の中にある特別な想いに気が付きました。 初任者の研修として、今度、ある研究会に行くことになりました。 授業の研究レポートを持っていって、発表するのですが、すんごーく憂鬱。 発表することも憂鬱なんですが、きっといつもならば、 「15分程度の発表なんて、レポート読み上げるだけじゃん。 何か問題を指摘されたら、今後参考にさせていただくとか何とか言ってお茶を濁せばすぐ済んじゃうよ」 ぐらいの無責任さを言い聞かせて、「えいやっ」とのぞむのですが・・・。
研究会には参加者と指導者がいます。 指導者というのは主事という先生の先生のような立場の人です。 国語の主事でその研究会に参加されるのは3人。 その中で、私の参加するグループの指導者には児島先生がいらっしゃるのです。 三分の一の確率で当たってしまった・・・・。
児島先生には初任研や、公開授業で何度か指導をきかせていただいたのですが、聞くほどに、すごい! ともすると心情や感情でセンチメンタリズムに流されたり、言語事項の詰め込みに終始してしまったりという誤りに陥りがちな国語という教科を、「そんなに深めることが出来るんですか!」 って感じ。 そして、どんな迷走した研究会も、児島先生が口を開くとものの見事に問題が整理され、すっきりと論理的にまとまるのです。 まったくもってすばらしい。 私など研究会に児島先生の名前があると、うきうきして、児島先生のご意見を聞くために研究会に出かけていくようなきらいもあるほどです。
でも、今回は、楽しみ、なんて思えない・・・。 だって、私のレポート、しょーもないんだもん。 このレポートを児島先生に読まれるかと思うと、憂鬱です。
コーキ先生を慕う生徒たちを見ていると、あっけらかんとしていて、うらやましくなるほどです。 彼女たち、休み時間になるたび、せっせと職員室に通ってきます。 「せんせー、せんせー。テスト全然わからんかった。20点あげといてよ」 ぐらいの勢いで。
私が教師として、生徒に好かれたら、それは嬉しい。 信頼される教師である証だから。 そして、好意はわかるんだけど、はにかんで硬くなってしまう生徒よりは、少々野放図でもなついてくれる生徒のほうが親しみが持てる。 きっと、児島先生も同じだよね・・・。 そう思って、がんばろー。
「先生、先生のおかげで国語の成績が上がりました。 ありがとうございました!」
と、期末テストを返却して、ある中3の男子生徒に言われた。 謙遜でもなんでもなく、ほんとうに、私はそんなたいそうなことはしていないよー。 情けないけど。 出張ばかりで、授業自体あんまりできないし、授業の内容も、ホントにゴメン!って感じなの。
成績が上がって、それを人のおかげだって感謝の気持ちを持てる。 その上、素直に言葉として伝えられるなんて、ほんとうにすごいよ。 私じゃなくて、えらいのはあなただよ。
「私はなんにもしていないよ。 成績が上がったのは、自分の努力のおかげだよ。 実力だよ。」
テレビで教育問題を扱っているのを目にすると、 「あいたっ」 って感じで反射的にチャンネルを変える。 だって、教育現場にいながらも、教育全体を論じるなんておこがましいと思っているというのに、門外漢に訳知り顔でピントはずれの意見を言われたくないから。
でも、今日のテレビタックルは、いろんな視点、いろんな立場の人の考えを公平に取り上げていたからなかなか興味深く見られた。
私が日ごろ実感として危機感を抱いている問題が取り上げられていた。 それは、階層構造の固定化ということ。 親の所得と子どもの学力に相関関係があり、親の所得が多く、文化階層が高いほど、子どもは勉強が好きで、勉強が出来る傾向にある。 これ、すべてではないとしても、かなり信憑性のある仮説だと思います。
なぜ、このような傾向になるか、それは、高所得の親は教育に感心があり、塾など教育に多くを費やす。 また、自分がやってきたように、勉強をちゃんとして、学歴を得れば、多くの収入が得られるという意識が高い。
まだ、詰め込み教育の時代は、低所得の家の子どもにも、学校から山ほど宿題が出されるため、本人の資質とやる気しだいで階層構造を覆すことができていた。 だが、学校で多くを教えなくなった今の時代、勉強をやるのもやらないのも、子ども自身、あるいは家の方針に任されてしまっている。
すべて任されている、ということがいいことなのか、憂うべきことなのか・・・。
日本は比較的階層構造のない社会だったはずだが、ここにきて抗しがたい階層再生産のスパイラルにはまってしまっている。 高所得者の子どもは高所得、低所得者の子どもは低所得。
勉強だけは、すべての子どもに与えられた自分を発揮するチャンス、不遇な境遇を打破してのし上がるチャンスだって私は思っている。 今、私はゆとり教育のまっただ中にいるけれど、でも、この希望は失いたくない。 一人一人の夢をかなえるために、その力を蓄えるために、いろんなことを教えてあげたいと思っている。
2003年12月01日(月) |
小池真理子『午後のロマネスク』 |
ちょっと電車に乗ったときに、キオスクで暇つぶしに買った本。 まったくもって暇つぶしチックな掌編の数々。
だけど、ひとつ心にひっかかった作品「声」
屋根裏の座敷牢に男は女を隠している。 男はその女を、いや、その声を独占するためにそこから女が外に出ることを許さない。 女は天上の声を持っていた。しかし、その顔は見てはならない、二目と見れないひどく醜い顔をしている。 だから、男は暗い座敷牢にろうそくをもって入っていくときには、女に後ろを向かせて顔を見ずにすむようにした。 そして、女への想いがつのり男は、自分の目をつぶすことを決意する。女の顔を二度と見ずにすむように。
その瞬間、すさまじい轟音と爆風が男を襲った。 古くなったプロパンガスのボンベが爆発したのだ。
「女が泣きながら、助けを求めている。白い太股のあたりに、怪我をしている。赤い血が一筋、生命の証であるかのように、その陶器を思わせるなめらかな肌を染めている。 だが女は顔に傷を負ってはいない。女の顔は相変わらず醜くて、醜さを隠すための血にまみれてもいない。 その女の顔が、茫然と見上げている男の目の前にある。女が口をぱくぱくと開けている。何か言っている。あの美しい声で、あの艶かしい声で、何か言っている。 だが、男には何も聞こえない。 爆風で視力ではない、聴力を失ってしまった男の目に、泣き叫び、欲望を刺激する声をはりあげているであろう女が、白々とした朝の雪明りの中、無残な顔をさらしているのが見える。」
人が人を好きになるということについて、考えさせられます。 好きということは、その人の容姿なり、性質なり、何かの要因によって好きなのでしょうか。 男にとって、女の声こそが愛の対象であり、それが聞こえなくなった今、男はきっと女を捨てるだろう。
例えば、その人の顔が好きだという場合、突然の事故で顔に大きな傷を負ったらどうだろう。 その人の作る料理が好きだという場合、突然の事故で両手の自由を失って料理が作れなくなったら。 二人のこれまでの思い出、積み重ねがあるから好きだという場合、突然記憶喪失になってしまったら・・・。
もちろん、この男のような例は極端で、「〜だから」と一言で理由をいえるような単純な問題ではないとは思います。 「好きだから好き」 という、子どものような理論に結局は帰着するのが自然だろうし、そういうもんだろうと思います。 何かの条件で人を好きになったり、人に求められることはさびしいです。
ひねくれものの私は、わざと自分の中の好かれそうなところを隠しておいたりします。 「料理はよくする?」 「あんまりやらないかな」と私が答えたとき、相手がなんだか、がっかりした様子だったりする。 「好き」に、「料理をよくする」という条件が必要なんだなあ、と、へんにさめた気持ちになります
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