■青山真治さんからメールをいただく。このあいだ書いたように、 青山さんは「宮沢さんの舞台で泣かされるとは思ってもいませんでしたよ」と 終演後に言っていたのだが、そのことにあらためて触れ、 次のように書いてくれた。
泣いた理由は、言うまでもなくあのチェーホフの引用が始まったからです。 で、そのとき娘は掃き掃除をしており、義母は仕事に出かけようとしている。 元は他人の母子が、男たちのいない場所で共生し、チェーホフを共有している。 その様ほど僕を泣かせるものはないのでした。 そして男たちの三つの様態、ひとりは呑気に眠り、ひとりは夢に生き、 もうひとりは逡巡する。そしてそれらをかれらは決してやめようとしない。 これもまた僕を泣かせる要素なのでした。 二大泣かせる要素が重なれば、これはもう嗚咽しかない。 条件反射的に。
そしてそのとき、その舞台に、たとえ儲かっていなかった、としても(笑)、 とてつもない「これでいいのだ」感が横溢し、 これは幸福感といってもいいわけですが、 その幸福感に捧げられるひとりのサンチョパンサの行き場のなさ、 これがまた泣かせるわけですから、 儲かってなくてもこれでいいのだ、なんとかやっていくのだ、と思われ、 集客の大いなる問題を抱える自分自身、明日からもつづけようという気になれる、 それこそ演劇や映画をつづけることの真の意味でなくてなんだろう、 と考えるとまたいま泣け、あらためて「これでいいのだ」と感謝する次第です。
ありがてえ。青山さんのメールを読んで僕もまた、 「これでいいのだ」という思いを強くした。 互いに共通するのは、「観客動員がのぞめない」ことばかりではなく、 あるいは、かつて長髪だったのにそれをばっさり切ったところも共通しているが、 視線の向こうに「文学」があることだろうか。 だから「観客動員はのぞめない」とも言えるが、 べつに無理してそうしているわけではないし、 「観客動員がのぞめない」ような作品を意図して作っているのでもない。 そういうふうにしか生きられないという決意において、 もっとも共通しているのである。 青山さんのメールにわたしこそ励まされた。ほんとにうれしかった。
★富士日記(5月31日)/宮沢章夫★
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