宿題

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2006年03月30日(木) 米国芸術協会における公演(1971年)/カート・ヴォネガット
ひと月前に、うちの息子が、これまでの生涯のうち最も幸せな日はいつであったか、
とわたしに尋ねました。息子はいわば、わたしの墓穴の中に質問を放ったのです。
この公演はお墓だらけですな。
息子はわたしのことを死んでいるも同然と考えたのです。



わたしは穴の底から天井を見上げて、こう答えました。
「これまででいちばん幸せを感じた日は一九四五年十月に経験した。
アメリカ合衆国陸軍から除隊されてまもなくだ。
あのウォルト・ディズニー時代には、合衆国陸軍はまだ名誉ある組織だったがね。
その日、私はシカゴ大学の人類学部に入学を許された。
心のなかで叫んだな━━『やっと入れたぞ!これからは人間のことを学ぶんだ』
私は形質人類学から勉強をはじめました。
頭蓋骨に穴をあけ、そこから精米の粒をいっぱいになるまで入れ、
あとでその米粒を計量カップにあける。
これは退屈な作業でした。
そのあと考古学に切り換えまして、とうに知っていたことを教えられました。
人間は歴史のあけぼの以来、陶器を作ったり壊したりしてきたということを。
そこでわたしは学習指導教授のところへ行き、
自然科学にはどうしても興味が持てず、詩の世界に憧れています、
と告白しました。
わたしは落ち込んでいました。もしほんとうに詩の世界に入ったら、
家内も父もきっと私を殺したくなるだろうと思っていましたから。
指導教授はにこやかな顔で言いました、
「自然科学のようなふりをしている詩を学んだらどうかね」
「そんなことが可能なんですか」
指導教授はわたしの手を握って言いました、
「社会人類学ないし文化人類学の領域にきみを歓迎するよ」


★米国芸術協会における公演(1971年)/カート・ヴォネガット★

2006年03月29日(水) 米国芸術協会における公演(1971年)/カート・ヴォネガット
父はまた、彼の父親の生涯で最も幸福と思われる日のことも話してくれました。
わたしの父方の祖父は、インディアナ州での少年時代、
動く機関車の前の排障器に友達と並んで座っているときがいちばん幸せだったようです。
その機関車はインディアナポリスからルイヴィルまでシュッシュッポッポと走っていました。
まだ広大な未開地が残っており、川を渡る橋は木造でした。
夜になると、空は機関車の煙突から吹き上げる花火でいっぱいになる。
世の中にそれ以上すばらしいことがあるでしょうか?
ひとつも考えられません。


★米国芸術協会における公演(1971年)/カート・ヴォネガット★

2006年03月28日(火) 米国芸術協会における公演(1971年)/カート・ヴォネガット
幸福は化学物質から成り立っています。
そのことを知るまで、わたしは質疑応答の方法によって幸福を追求していたものです。
そして年をとった父親に、
「おとうさん、これまでの人生でいちばん幸せな日はいつだったの?」
とたずねました。
「日曜日だったな」
と父は答えました。
父は結婚後まもなく、オールズモビルの新車を買ったそうです。
第一次大戦前のことです。父はインディアナ州インディアナポリス州に住んでしました。
さっき申したとおり、父は建築家でした━━ペンキ屋でもありました。
で、若き建築家兼ペンキ屋の父は、ある日曜日の午後、新しいオールズモビルに新妻を乗せて、
インディアナポリス五百マイル・スピードウェイに行き、無断侵入をして、
煉瓦敷きの走行路に出ました。父と母はそこを何周も何周も走り回りました。
それが幸福の一日でした。
その日のことを話したとき、父はすでに自殺によって母を失っていました。


★米国芸術協会における公演(1971年)/カート・ヴォネガット★

2006年03月27日(月) 悪童日記(4月16日)/水道橋博士
本来の趣旨は3枚目のアルバムのプロモーションにも関わらず、
会話の半分以上は、浅草キッド論であり、漫才や執筆について、
俺が彼らの質問に答えているのだ。
『僕らの音楽』なのに……。

一番笑ったのは、木内くんが
「今年の正月番組とか
 キッドさんが出づっぱりでしたね〜」と真顔で。
「それは、君が俺たちが出る番組だけ見てるだけだよ」(笑)

とにかく、彼らの褒め殺しの連続に、
テレビタレントとしては、頭の隅に「使わないよ!」
オンエアーに反映されないのも、百も承知なのである。
面映いのだが、彼らの社交辞令ではない"本気"が嬉しくもあり、
俺もまた、テレビタレントの進行の計算抜きで、
親身に誠実に"本気"で芸論を返す。



今日の未編集のテープを頂くことにした。
我が家の宝物にしよう。

帰宅後、子供、
「パパ〜サンボマスターにあったの? ぼくもいきたなかたな〜」と。
赤ん坊の頃からサンボマスター流し続けているので、
サンボマスターを既に認識しているのだ。

子供よ、いつか、パパが愛されている、
このテープを見て欲しい。


★悪童日記(4月16日)/水道橋博士★

2006年03月26日(日) ドブロクの唄(4月22日)/松尾スズキ
プロになりてえ、とか、言いましたが、
ほんとは俺は優しい人になりてえんです。



いずれも、表面的にはかなり、おだやかな対応の私だったわけだが、
できれば、心の中ですらも、死ね、とは思いたくないなあ。

★ドブロクの唄(4月22日)/松尾スズキ★

2006年03月25日(土) 長い猫/井上陽水 依布サラサ
瞳は 星よりも遠く
黒い毛は 夜よりも深く
誰にも気づかれずに
あなたを待つ私
長い 長い猫

しっぽは どこまでも長く
白い歯は 爪よりもシャープ
痛みに耐えきれずに
あなたを呼ぶ私
長い 長い猫

キラメク夜は 遊び猫ばかり
待ちくたびれて 迷い猫みたい
見果てぬ夢は
後ろから見てるヒマラヤン

耳は 闇の中で鋭く
小さな鼻は 月よりナイーブ
光を愛せずに
あなたを探す私
長い 長い猫
長い 長い猫
長い 長い猫


★長い猫/井上陽水 依布サラサ★

2006年03月24日(金) イン・ザ・プール/奥田英朗
「とにかくストレスの元などへたに探そうとしないことだね。
どのみち心身症になるような人間は、
思い当たったところでそれを根絶することはできないわけだから、
それに、大森さんは三十八歳だけど、ちょうど来そうな年頃なんだよね。
中年のハシカみたいなものかな」


★イン・ザ・プール/奥田英朗★

2006年03月23日(木) イン・ザ・プール/奥田英朗
マークが点滅した。
こんな夜に誰からだろうと見ると伊良部だった。
《クリスマスケーキは帝国ホテルから取り寄せました》
また始まったのか。一人鼻息を漏らす。
《イチゴが大きくて満足しました》
まったくいい大人が。
本来なら、サンタの衣装で自分の子供にプレゼントをあげる立場だろう。
《おかあさんがエルメスのパジャマをくれました》
力が抜けた。よく医者になれたものだ。
手持ち無沙汰なので雄太もメールを打った。
《ぼくはいま、女子校の女の子たちとスキー場へ行くバスに乗っているところです》
するとすぐさま返事がきた。
《ねえねえ、写真送って》
あちゃー。科学が進歩すると、嘘もつけないのか。
《すいません、嘘でした》
どうせ歳の離れた他人なので、正直に書いた。
《やることがないので一人で街をぶらついています》
何かを告白した気分だった。胸に、かすかに風が通った感じもする。
《ぼくも友だちはいないみたいです。ネクラなのがばれたのかもしれません》
すらすらと言葉が出てきた。なぜか素直な気持ちになっている。
《中学時代、地味な性格で友人ができませんでした。
登校拒否にもなりました。
高校生になったら自分を変えて友達を作ろうと、入学以来、
明るく振る舞ってきました。でもダメだったみたいです。
無理はするものではありません》
せいせいした。
本当は自分を偽ったり、他人の顔色をうかがう毎日に、
いいかげん疲れていたのだ。
伊良部から返事がきた。
《七面鳥の丸焼きは伊勢丹に届けさせました》
おいっ。人の話は聞かないのか、この男は。
《カナダ産の本物のターキーです》
だから友だちがいなくても平気なのだ。
《とてもおいしそうなので写真を送ります》
数秒後、画像が送られてきた。
テーブルというか、診察台のようなものの上に七面鳥の皿が載っている。
どうやらそこは伊良部病院の診察室らしい。
うしろにマユミさんが見える。
レンズに向かってピースサインを出しているのだ。ほかにもたくさん人がいた。
雄太は無性に人の声が聞きたくなり、電話を入れた。
「クリスマスイブだからね、退屈している入院患者が集まってきたの」
伊良部がのんびりとした口調でしゃべっている。
「どう、津田くんも入院する?」
マユミさんが電話に出た。
「暇ならおいで」いつもどおり無愛想な声だ。
「いいんですか」
「注射を打たれたいのならね」
「ひとつ聞いてもいいですか」
「何よ」
「マユミさん、彼氏はいるんですか」
「いないよ」
「ぼくじゃだめですか」
「子供はだめ」
間髪を入れずに返事された。でも愉快な気分になる。くじけずに話を続けた。
「どんな人が理想ですか」
「友だちがいない奴。大勢で遊ぶの、苦手なんだ」


★イン・ザ・プール/奥田英朗★

2006年03月22日(水) 花火を上げろ!菊地成孔のできるまで/山下洋輔×菊地成孔
菊地「日本はここ10年くらい非常に鬱的だと思うんです。
僕が強く願うのは、山下さんがここで「へー。そうなの?」って
仰ることなんですが(笑)」

「それに対して「冷やし中華」や「ザ・ウチアゲ」のムーヴメントは、
日本に於けるナンセンス躁病文化の極致だと思うんですが、
どっちも好景気に、つまり金回りなんかに乗った躁状態じゃないわけじゃないですか。
むしろ、逆なわけです」

「すごい躁病的で、ダンディで、ナンセンスの系譜にも
ブラックユーモアの系譜にもある。
山下さんの活動の初期、左翼運動とフリージャズが密接に結びついていた
イメージがあった頃の音源や映像と、「冷やし中華」のころの映像なんかを
セットDVDにして売るべきだと思うんです(笑)。
治癒効果があると思うんですよ(笑)」


★花火を上げろ!菊地成孔のできるまで/山下洋輔×菊地成孔★

2006年03月21日(火) 花火を上げろ!菊地成孔のできるまで/山下洋輔×菊地成孔
(1966年、コルトレーンが厚生年金会館に来た時のことを聞かれて)

山下「ロビーで中村誠一に会ったけど、なんか怒ってたな(笑)。
おれも唖然としていたけど……かろうじて
「あの人たちはやりたいことをとことんやってんだから、いいんじゃないの」
って言葉が吐けた(笑)」


★花火を上げろ!菊地成孔のできるまで/山下洋輔×菊地成孔★

2006年03月20日(月) 花火を上げろ!菊地成孔のできるまで/山下洋輔×菊地成孔
山下「デュオのときに菊地が『フォーバス知事の寓話』って曲を
持ってきてくれたじゃない。あれはいわく付きの曲でさ、
ちょっと手が出せない感じがずっとしてたんで、ちょっと驚いたんだけど、
あれはなぜかな」

菊地「あれはもともと好きだったんですよ(笑)」

山下「黒人公民権運動の盛り上がるさ中に差別的な言辞を弄した
アーカンソー州知事のフォーバスを徹底的に愚弄して嘲笑する。
メンバーが皆怒鳴りまくる」

菊地「ミンガスの政治性なんて一番どうでも良いんですよ(笑)。
純粋に曲が好きなんです」

山下「♪ダ、ダ、ダ、ダ、ダダダダダ、ダッダー、ダッダー。いいよね」

菊地「ミンガスはどれもいいですよね。ミンガス最高」

山下「マイク・モラスキーも「アケタの店」でトリオであれを弾いたんだよ。
最近注目の変な二人が同じ曲をやる。
それに立ち合っている。
これはなにかのお告げかもしれない(笑)」


★花火を上げろ!菊地成孔のできるまで/山下洋輔×菊地成孔★

2006年03月19日(日) 花火を上げろ!菊地成孔のできるまで/山下洋輔×菊地成孔
菊地「コルトレーンはその発達史に忠実で、
最後はフリーになったわけですけど、
ファンクへ行く道もあったんじゃないかと思うんです。
実質上エルヴィン・ジョーンズとやってた時期は全然踊れますし。
一方でフリージャズが出来上がるのは、
発狂したビバップっていう見方もありますよね。
モードを経由しないオーネット・コールマンみたいな。
ビバップを聴いて、それがあまりに複雑で再現できないんで、
奇矯な形で再現された結果、壊れたビバップとして
フリージャズができたって経緯もあると思います」


★花火を上げろ!菊地成孔のできるまで/山下洋輔×菊地成孔★

2006年03月18日(土) 花火を上げろ!菊地成孔のできるまで/山下洋輔×菊地成孔
山下「(マイルス・デイヴィスの「Kind of Blue」は)
あれ退屈なんだよな(笑)。
あれ途中で半音上げてるけど、連中だってやったはいいけど
「こりゃ退屈だ」ってわかってさ、
「おっと、しまった!じゃあ、半音上げよう」って、やってるんだよ(笑)。
あれがなぜフリージャズに繋がるのかっていう疑問を、
菊地理論は上手に説明するんだよね。おれの理解、つまり誤解だけど(笑)。
退屈だから、なんかしなきゃならない。
でもコードチェンジによる劇的な緊張と緩和の効果は狙えない。
その効果をリズムに託す。いろいろなリズムがボンボンぶち込まれていく。
その点でまずリズムがフリーになっていく。同時にセンタートーンは一つでも、
その上でいろんなモードをやってしまったり、
あるいはそのセンタートーンを変えてもよくなったり、
ということがいろいろ工夫されたお陰で、
リズムもメロディもなにをやってもよいという境地に達するんだと。
その道を生きた実例がコルトレーンだ、という風に解釈したんだけどね」


★花火を上げろ!菊地成孔のできるまで/山下洋輔×菊地成孔★

2006年03月17日(金) 花火を上げろ!菊地成孔のできるまで/山下洋輔×菊地成孔
菊地「本当に、これはもう素晴らしいとしか言いようがないんですが、
サン・ラー&ヒズ・アーケストラは田舎のカルトじゃないすか。
現代のゴスペルっつっても良いですよね、純朴さが。
サン・ラーが死んだ後のライブなんて、感動して泣いちゃいますよ。
車いすの老人がアース・ウインド&ファイアーみたいな格好してね。
必死にノイズ出すんですよ。
平和的であるなら、どんだけ新興宗教が良いかって思っちゃいますから(笑)」


★花火を上げろ!菊地成孔のできるまで/山下洋輔×菊地成孔★

2006年03月16日(木) 花火を上げろ!菊地成孔のできるまで/山下洋輔×菊地成孔
山下「(憂鬱と官能を教えた学校について)あの分厚い、立派な本!
随分原著に当たったんじゃない?」

菊地「あれほど頑張ったことはないですよ。
仮説立ててから原著に当たり、音源を聞き直し、
図書館で資料を探し、ネットを検索しまくって、
一人じゃできないから、大谷(能生)君と組むことにして、
彼と打ち合わせを頻繁にして」

山下「完全に学者の世界だね。学者菊地の誕生だ」

菊地「そん時三度目の神経症の治療中ですからね(笑)、
もう大・学者ですよ(爆笑)。
発作の不安に怯えながら精神分析医にかかって、
薬パカパカ飲んで、ものすごい暗い顔で授業に行くという(笑)。
で、「音韻が……」とか講義すんの(笑)」

山下「東大の授業の一環で演奏を聴かせるというので、
デュオに呼んでくれたことがあったよね。
あの時、タクシーを降りる菊地を見かけたんだよ。
もう完全な学者のオーラでさ、資料を風呂敷包みに入れて、
それをかかえて教室に入ってくる猫背の少壮学者って感じで(笑)」


★花火を上げろ!菊地成孔のできるまで/山下洋輔×菊地成孔★

2006年03月15日(水) 花火を上げろ!菊地成孔のできるまで/山下洋輔×菊地成孔
山下「やっぱり人間ね、牢屋に入るか死にかけないとダメなんだね(爆笑)。
おれだって大病した後だもんな、いきなり気が狂って
「もうどうでもええや!」ってなったの」


★花火を上げろ!菊地成孔のできるまで/山下洋輔×菊地成孔★

2006年03月14日(火) 花火を上げろ!菊地成孔のできるまで/山下洋輔×菊地成孔
菊地「九七年にグラウンド・ゼロが解散して、翌年にティポグラフィカも解散して、
手ぶらになるんです。その時に入院したんですよ、
壊死性リンパ腺結節炎という奇病で」

山下「なんですかそれは?」

菊地「全身にリンパ結節ができて、壊死するんですよ。
普通リンパ結節は溶けてなくなるのに、溶けずに留まり続ける病気です」

山下「おっそろしい病気だなあ……」

菊地「いやあもう死ぬかと思いました(笑)。二ヶ月入院しました」

山下「それが九八年?」

菊地「そうです」

山下「そうか……。
こっちが横浜ベイスターズの優勝で喜んでいた栄光の年に、
菊地は苦しんでいたんだな(笑)」


★花火を上げろ!菊地成孔のできるまで/山下洋輔×菊地成孔★

2006年03月13日(月) 花火を上げろ!菊地成孔のできるまで/山下洋輔×菊地成孔
山下「ニュートリオに時々来てもらって一緒にやってる時に、
『おじいさんの古時計』を菊地が持ってきてくれたんだっけ」

菊地「いや、僕が『古時計』を持って来たのは、
武田さんの追悼のデュオの時ですね。
『古時計』は「おじいさんが亡くなって、時計が残った」という歌だし、
「大きなノッポの」とか言って、武田さんにぴったりだと思ったんです」

山下「ああ、そうだった!
その時から菊地はコンセプチュアルなことをやってたんだね」

菊地「お前も何曲か好きな曲を持って来い」って言われて、
それで持って行ったんすよ」

山下「それがとても良かったんだ。
その印象が強く残って、今度はトリオでも一緒にやろうと。
それがレコーディングに結びついて、重要なレパートリーになった。
ニューヨーク・トリオのレパートリーにもしちゃったもんね。
これ『ニューヨーク・タイムズ』で褒められたんだよ(笑)」


山下「ライブでも『古時計』の最後の音をバーっと伸ばしてて、
ドシンと終わるんだけど、「その音程が気になる」って言ったら、
小松と菊地とで顔を見合わせてニヤッと笑ってさ。
実はわざとベンドさせてたってことだろ?覚えてんだ(笑)。

菊地「そんなことありましたっけ(笑)」

山下「こっちは音程は確かなほうがいいって「じじぃ頭」だからさ(笑)。
「わざとベンドさせてんのになー」って顔で若者二人が目配せしてたんだよ(爆笑)。
なるほど、そういう奴らだなって。
あれはおれにとってはなかなかいい体験だったんだよ」


★花火を上げろ!菊地成孔のできるまで/山下洋輔×菊地成孔★

2006年03月12日(日) 花火を上げろ!菊地成孔のできるまで/山下洋輔×菊地成孔
山下「八四年が入学で、初めて仕事したのはいつになるのかな?」

菊地「プロとしてデビューはもうしてたんです。
横須賀のベースで、フィフス・ディメンションのライブがあって。
「アクエリアス」でグラミー賞を獲った彼等が落ちぶれて、
世界中の米軍基地をまわってたんですよ(笑)。
フィリピンから横須賀に来るときに、テナー・サックス・プレイヤーが
コカイン所持かなんかで捕まって(笑)、
安く使えるテナー・サックスを探して学校に求人が来た。
それで、「お前行ってこい」と」

山下「やはり、代役でプロのステージを初めて踏んだわけだ。
それは大事なことでさ。すべての音楽、芸能の歴史はね、
誰かが死んだり捕まったりしたお陰なんだよ(笑)。
おれだってそうだよ。ギル・エバンスが亡くなって
「スイート・ベイジル」の月曜が空いて、そこに呼ばれたのが、
今につながるニューヨーク・トリオ発足の手がかりだったんだからね」


★花火を上げろ!菊地成孔のできるまで/山下洋輔×菊地成孔★

2006年03月11日(土) 花火を上げろ!菊地成孔のできるまで/山下洋輔×菊地成孔
「僕が中学ん時、すんげえ「山下かぶれ」の先輩がいて、
僕を強引に巻き込んで『風雲ジャズ帖』ごっこを始めるんですよ。
「俺が狸又をやるから、お前は坂田をやれ」とか(笑)。
「今日はお前がロッペイだ」って言われたこともありました。
やりましたよロッペイ役(笑)」

「僕ファゴット吹いてたんですよ、銚子の市民オーケストラで」
「始めたのが中二だから、高校三年までの五年間、みっちりやったんです」

「(ティポグラフィカのときは)週に四回くらいリハーサルをやってましたね。
ヤバいバンドでしたよ。とにかく練習が大変で。
ライブは一ヶ月に一回くらい。
活動初期は下手すると一年に一回でした」

「その時に入院したんですよ、壊死性リンパ線結節炎という奇病で」
「東京女子医大病院で戦後、成人男性がこの病気にかかったのは
初めてだそうです」


★花火を上げろ!菊地成孔のできるまで/山下洋輔×菊地成孔★

2006年03月10日(金) 長い坂の絵のフレーム/井上陽水
この頃は友達に 手紙ばかりを書いている
ありふれた想い出と 言葉ばかりを並べてる
夢見がちな子どもたちに 笑われても

時々はデパートで 孤独な人のふりをして
満ち足りた人々の 思い上がりを眺めてる
昼下がりは 美術館で考えたり

誰よりも幸せな人
訳もなく悲しみの人
長い坂の絵のフレーム

生まれつき僕たちは 悩み上手に出来ている
暗闇で映画まで 涙ながらに眺めてる
たそがれたら 街灯りに溶け込んだり

これからも働いて 遊びながらも生きて行く
様々な気がかりが 途切れもなくついてくる
振り向いたら 嫌われたり愛されたり

誰よりも幸せな人
訳もなく悲しみの人
長い坂の絵のフレーム

誰よりも幸せだから
意味もなく悲しみまでが
長い坂の絵のフレーム


★長い坂の絵のフレーム/井上陽水★

2006年03月09日(木) サヨウナラのタバコ/リリー・フランキー
この四、五年というもの、追悼文ばかり書いているような気がします。
もちろん、他の類の文章も生業のために日々書き汚しているものの、
そのひとつひとつには曖昧な記憶しか残ってはいないのです。
ふざけて暮らしてきたはずでした。
たまに風の刺す日は、そんな自分を自己嫌悪に浸らせて
センチに酔う時もありましたけれど、小ずるくそれをうやむやにする術も
身につけていましたから、なんとかふざけたまま、やり過ごしてこれました。
ところが、母が死んでから、母を弔うような文章を書き綴り、
その途中でナンシー関さんや石井輝男さんの死に立ち合い、
その度、追悼文を書いているうちに、自分の中の現実が逆転してしまっているのです。
気がつけば、真剣に対話しているのは亡くなった人たちに対してだけで、
この世に対する原稿や人々に、現実味を失っていました。
「コンニチハ」よりも「サヨウナラ」が日常の挨拶で、
希望よりも後悔のほうがはるかに大きな意味になり、もはや、
ふざけることも死者に対しての方がリアルな行為になっています。
いつもどこかで、感じています。
その人たちを見送りながら、僕は間に合ったのだろうかと。
ベースの角に滑り込みながら触れたような気がしたけれど、
その時はすでに審判の親指は天に向かって上げられていたような気がする。
アウトなのか、セーフなのか、砂にまみれて見上げるけれど、
審判の表情は眩しくて照り返されて、その判断がわからない。


★サヨウナラのタバコ/リリー・フランキー★

2006年03月08日(水) そんなとき なんていう?/S.ジョスリン
わかき しんし
しゅくじょの ための
れいぎさほうの ほん


まちの まんなかで ひとりの しんしが、
みんなに あかちゃんぞうを あげている。
いつも ほしいと おもっていたから、
きみも いっとう うちへ もってかえりたい。
でも、まず しんしは きみを あかちゃんぞうに
しょうかいする。

そんなとき なんていう?
「はじめまして」


きみは うまで ぼくじょうを みまわる カウボーイ。
そこへ とつぜん とんがりビルが せなかから
けんじゅう つきつけ、「どたまに かざあな 
あけてやろうか?」と すごむ。

そんなとき なんていう?
「いいえ、けっこうです」


あなたは かいものを しに まちへ でる。
ときどき そうしたくなるので、うしろむきに
あるいていると、わにに ぶつかる。

そんなとき なんていう?
「すみません」


きみは おひめさまの ぶとうかいに いる。
そして おひめさまは きみに ひみつを
うちあける。 ところが くまの オーケストラが
とても うるさくて、いうことが ききとれない。

そんなとき なんていう?
「しつれい、なんて おっしゃいましたか?」


あなたは けっこんしきの パーティに いる。
なぜって あなたは はなよめ だから。
すばらしい はなむこも いるし、すごく
おおきな ケーキも ある、なにもかも
めでたし めでたし なのだが、いまのところ
あなたは おなかが ぺこぺこだ。

そんなとき なんていう?
「ケーキを とって いただける?」

 
★そんなとき なんていう?/S.ジョスリン★

2006年03月06日(月) トリツカレ男/いしいしんじ
「ときどき私、先生のことばを思い出すの」
ちいさなてのひらを重ねあわせてペチカはいった。
「冬のシーズンが終わるたび、先生がいっていたことばを。この冬!って」
おどろいたジュゼッペの顔にペチカは笑いかける。
「いつだって大きな声だったわ。
この冬、氷の上で私たちが身をもって学んだ、三つの大切なことはなにか、って」
「ああ」
とジュゼッペのタタンはあいまいに相づちを打つ。
「そのいち。氷の上の私たちは、いつかきっと転ぶ」
ペチカはつづけた。
「そのに。転ぶまではひたすら懸命に前へ前へとすべる」
「そうだ、ブレーキなんてなしにね」
ジュゼッペがうなづいてみせると、ペチカは少し間をおいてからいう。
「そのさん。
転ぶとき、転ぶ瞬間には、自分にとって、いちばん大事なひとのことを思う。
そのひとの名前を呼ぶ。そうすれば転んでも大けがはしない。
そうして転ぶことはけしてむだなことじゃない」


★トリツカレ男/いしいしんじ★

2006年03月05日(日) わたしの青い空/堀込高樹
冷たい眼差しが美しいね
遠くをみてる
物憂い口唇が花びらみたい
開いて閉じて

一粒 チョコレート
包み紙の占いを気にしてるくせに ああ

青く澄みわたる空は
子供じみてる 笑うのかい
ひとり大人ぶってても
甘い恋がまたしたいのさ

「火遊びしていても心だけは売らないのです」
くちづけの拙さの言い訳してたね
触れてもないのに

卒業 誕生日 迎えるたび
君の値打ち下がるなんて
ばか、だな

青く澄みわたる空は
子供じみてる 笑うのさ
ひとり強がってるのは
甘えたいからさ この僕も
だれもかれも

青く澄みわたる空が
遠ざかってゆくと笑ってたね
真赤に燃える夜の街
歓楽通りを駆けぬけて
白く霞む朝の街
踊り疲れてたね 眠ろうか
ふたり大人ぶってても
甘い恋をまだ知らないね


★わたしの青い空/堀込高樹★

2006年03月04日(土) ヴォネガット、大いに語る/カート・ヴォネガット
━あなたにとってこれならという愛の象徴は?

ファッジ(ミルク、バター、チョコレートなどでつくった甘いお菓子)
がそうですね。


★ヴォネガット、大いに語る/カート・ヴォネガット★

2006年03月03日(金) ヴォネガット、大いに語る/カート・ヴォネガット
わたしは過去をうろつきまわるのが大好きです
━━いっしょにうろついてくれるのが幽霊じゃなくてほんものの人間でさえあればね。
知り合いにひとりの産科医がいました。
若いころはひどく貧乏だったのですが、カリフォルニアに行って金持ちになり、
有名になりました。
映画スターばかりを相手の産科医でした。
彼は引退すると中西部にもどり、無名時代にデートをしたあらゆる女を訪ねました。
いまやひとかどの人物になったことを見てもらいたかったのですね。
「さすがきみだけのことはある」とわたしは言ってやりました。
チャーミングな行為だと思いましたね。
わたしは過去を決して忘れない人が好きなんです。

わたし自身、そういう常識外れのことをしたことがあります。
ショートリッジ高校に通っているころ、卒業記念パーティーがあって、
クラスのいろいろな生徒におどけた商品が出された。
このプレゼントを渡す係りはフットボールの監督でした。
その高校にはすごく強いフットボールのチームがあって、
この人はたいへんな名監督で鳴らしたものでした。
で、プレゼントはほかの人たちが用意したのですが、
プレゼントの中身を吹聴しながら各人に渡すのがこの監督だったのです。
そのころわたしはほんとに骨と皮ばかりで、肩幅の狭い少年でした。

やけにひょろ長いフラミンゴってところでした。
ところが、監督がくれたプレゼントというのが、
なんとチャールズ・アトラス(筋肉隆々の漫画広告で有名なボディービル協会)
の教則本でしてね、これにはムカムカッときました。
外へ出て監督の車のタイヤを切り裂いてやろうかと思いました。
大人が子供相手にやることにしては、
いたずらにしたって無責任すぎると思ったからです。
しかし、結局はダンスパーティーの会場から抜け出して帰宅するだけでした。
これは絶対に忘れられない屈辱でした。
そこで昨年のある晩、インディアナポリスの電話局を呼び出して、
この監督の電話番号を調べてもらいました。
それから本人に電話をかけてこっちの素性を明かし、
例のプレゼントのことを思い出させてから言ってやりました。
「ぜひお知らせしておきたいのですが、
わたしのからだはご心配に及ばぬくらい丈夫になりました」って。
きれいさっぱり胸のつかえがおりました。
なまじの精神療法なんて完全に顔負けですよ。


★ヴォネガット、大いに語る/カート・ヴォネガット★

2006年03月02日(木) ヴォネガット、大いに語る/カート・ヴォネガット
それは、たったいま話したことがたわごとだからです。
でも、有益な、心の慰めになるたわごとでしょ。
そこなんです。わたしが宣教師どもに反発するのは。
彼らはだれかを少しでも楽しくさせるようなことを、なにひとつ言わない。
話そうと思ったらこういう気分のいいうそがたっぶりあるというのに。
しかも、うそといえば、あらゆることがうそなのです。
なにしろ、われわれの頭脳は情報単位が2ビットしかないコンピュータだから、
そこからはあまり高度の真実は得られません。
しかし、人間の条件を改善することだけ考えるなら、
われわれの知能はもちろんその能力を持っています。知能はそのためにつくられた。
そしてわれわれは慰めになるうそを作り出す自由を持っている。
ところが、われわれはその自由を十分に生かしていないのです。

わたしの好きな牧師さんで、ボブ・ニコルソンという人がいました。
ジョーゼフ・コットンに似た独身男でね、
ケープコッドの監督派協会の牧師でした。
この人は教区民のだれかが死ぬたびにへなへなになってしまう。
死の衝撃に耐えられないのです。
しかたがないので、教会員と遺族が懸命にこの牧師を慰め励まし、
キリスト教の土台に押し上げて、ようやく葬儀を執行させるありさまでした。
そこが非常にいいと思いましたね。
監督派のきまりきった葬儀で述べる式辞なんぞに彼は満足できなかった。
かれにはもっとましなうそが必要だったのです。


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2006年03月01日(水) ヴォネガット、大いに語る/カート・ヴォネガット
わたし自身はニュージャーナリストでしょうか。
たぶんそうでしょう。
ここにはニュージャーナリズムの見本のいくつかがあります。
ビアフラについて。また、一九七二年の共和党全国大会について。
どれも散漫で個人的色彩の濃いものです。
しかし、わたしはこの種のものにこれ以上深くのめり込むつもりはありません。
一時そちらに傾いたことは事実ですが、いまはまた、
定評あるフィクションこそニュージャーナリズムよりも
真理を語るのにはるかに真実の方法である、と思い込んでいるところです。
いや、別の言い方をするなら、最も優秀なニュージャーナリズムは
フィクションに他ならない。
どちらも個性豊かなレポーターが活躍する芸術分野です。
ただ、ニュージャーナリストはフィクションの作家と違って、
いろいろなことを語る自由、いろいろなものを見せる自由を持っていません。
読者を連れていけない場所がたくさんあるのです。
それにひきかえ、フィクションの作家は、読者をどこへでも連れていけます。
もし見るに値するものさえあれが、木星にだって。
いずれにせよ肝心な問題は、わたしが米国芸術院で学んだように、
真理を語ろうとする当人が相手に正直な人間という印象を与えるか否かです。

報道とフィクションとの相違について考えているいま思い出したのは、
ずいぶん昔、コーネル大学の初年度物理学の教室で見聞した
ノイズとメロディーの相違です。
(アメリカのどの大学でも必ずそうですが、
初年度物理学ほど満足を与えてくれる教科はありません)
教授は銃剣の長さほどの細い板切れを石灰殻ブロックの壁に投げつけ、
「あれがノイズだ」と言いました。
それから先生はほかに七本の板切れを取り上げ、
まるで見世物小屋の手裏剣よろしく、たてづづけにそれらを壁にぶつけました。
板切れは七つの音で<メリーさんのひつじ>の最初の部分を歌ったのです。
わたしは魅了されました。
「いまのがメロディーだ」と先生。
そして、フィクションはメロディーであり、ジャーナリズムは
その上にニューがつこうがオールドがつこうが、ノイズなのです。


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