宿題

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2004年12月31日(金) ジュ・ゲーム・モア・ノン・プリュ/ブルボン小林
当時のファミコン雑誌の中で、「ゲームの中の音楽に勝手に歌詞をつける」

という投稿コーナーがあって、いろんなゲームにくだらない歌詞とか真面目な歌詞が

投稿されてたんですけども、ディスクシステムの短い起動音に子供が送った投稿が

「ファミコンが売れる前はトランプ売っていた」

という歌詞で、これはすごいインパクトがあって今でも覚えています。

特にこれ、今の任天堂が精彩を欠いている状況ではないぶっちぎりで圧勝していた時期に、

その任天堂のゲームを遊んでいる子供にいわれたという「言われたな任天堂!」

という感じがして…。

あの子供はもうそれで才能全部使い切ったなという気すらしていますけども、(後略)。


★ジュ・ゲーム・モア・ノン・プリュ/ブルボン小林★

2004年12月30日(木) ジュ・ゲーム・モア・ノン・プリュ/ブルボン小林
我々は「ドラクエ」などの街の地名を「かつていった場所」として記憶していて、

だから続編で竜王の城を訪れるときに、遺跡を訪れるような敬虔さを感じた。


★ジュ・ゲーム・モア・ノン・プリュ/ブルボン小林★

2004年12月29日(水) ジュ・ゲーム・モア・ノン・プリュ/ブルボン小林
「グラディウス」のモアイは(現実ではない)宇宙空間にこつぜんと姿を表し、

口からリング状のビームをはいて攻撃してきたのだ!

それは、現実世界で謎の物体とされるモアイに対する、

フィクション側からの「回答」だったのだ。

「モアイっていうのはつまりこういう物だったんだよ」という、

単にハラハラドキドキ遊ばせるゲームという以上の、

「グラディウス」はSFとしての解釈を提示してみせたのだった。


★ジュ・ゲーム・モア・ノン・プリュ/ブルボン小林★

2004年12月28日(火) BLUES/SOUL'd OUT
俺たちはここに重なって 

心には青さだけが残る


★BLUES/SOUL'd OUT★

2004年12月27日(月) 団地ともお/小田扉
少しだけ重荷になってたんだ。なくなってスッキリしてる。


★団地ともお/小田扉★

2004年12月26日(日) 団地ともお/小田扉
あいつを見てうかつにも勇気をもらってしまったなあ。


★団地ともお/小田扉★

2004年12月25日(土) 団地ともお/小田扉
ともお、お前のその大らかさは俺を甘やかしすぎだ。

…もっと執念深くてもいいと思うぞ。


★団地ともお/小田扉★

2004年12月24日(金) 団地ともお/小田扉
ああいうハタチくらいの大人って、子供に親切じゃないんだぜ。



ハタチくらいの大人は子供がする悪さなんか知らんぷりなんだよ。


★団地ともお/小田扉★

2004年12月23日(木) 団地ともお/小田扉
「あの……」

「!」

「今日はその…ごめんなさい…」

「……」

「…でも明日は負けないから!!」

「…くそ、腹立つ…調子にのりやがって…」


★団地ともお/小田扉★

2004年12月22日(水) うさぎとトランペット/中沢けい
人間は音楽の入れ物だった。音楽はどこか遠いところから静かにやってくる。


★うさぎとトランペット/中沢けい★

2004年12月21日(火) 芸術新潮「フィレンツェの秘密」/長井和博
美しいものと奇妙なものを混同してはいけない。

本質的なものとただ単に正確なもの、深いものと複雑なものについても同様。

たしかそんなことをエリー・フォールが書いていたけれど、これがむつかしい。

奇妙で正確で複雑なものだって十分に魅力的なのだから。

フィレンツェに行ってきました。ふしぎな街でした。小さくて、大きい。

たいていの所へは歩いていけるのに、見るべきものは膨大にある。

今月の増頁大特集「フィレンツェの秘密」は美術編と街角編の2本立て。

600年前、ルネサンスはこの街で生まれた。

美しさと奇妙さ、優雅と劇場がせめぎあうその絵画彫刻建築の本当の見どころは?


★芸術新潮「フィレンツェの秘密」/長井和博★



■「波」1月号、芸術新潮の「編集長から」。

2004年12月20日(月) 京都スーベニイル手帖/沼田元氣
うーん絶対に「京都大好き!」なんて云わないよ。

だけど、こんなに京都が嫌いなのに、こんなにも京都に好かれたいのはなぜだろう……

頭を下げて、行列並んで、こんなにもおみやげを買ってしまうのはなぜだろう……。


★京都スーベニイル手帖/沼田元氣★

2004年12月19日(日) 寛斎は越えている/大島渚
しかし当日の朝、私はつめかけた観客の波によって、ふたたび不安にまきこまれた。

なんと、その大半は、十四、五歳の少女ではないか!

しかも、モデルが歩く舞台の左右はことごとくその少女たちではないか。

その少女たちの眼にこの五十歳のオジンはどう見えるのか?

でも大歓声の中でショウが開幕すると、私はそのことも忘れた。よし。すべてよし。

五十歳にして、はじめてで終りのモデルをつとめるのも、実はかつて望んだことではなかったか。

学生演劇をやったころ、日本の新劇の俳優にはどうして宝塚の男役のような

華やかさがないのかと疑問に思ったことがあった。

今、それよりも華やかに私はショウの舞台にのぼる!ハッピー!

そして光と音楽の渦の中に一歩すすみ出た時、少女たちからいっせいにあがった大歓声は、

「カワユイッ!」であった。


「寛斎パッションナイツ」は私にとって、ひとつの文化革命だった。

「カワユイッ!」と絶叫してくれた少女たちがその一年後『戦メリ』の映画館を

超満員に埋めてくれることになろうとは、まだ知る由もなかったが、

「パッションナイツ」の二十日後、遠い南太平洋のロケに旅立った時、

私は人生で最高にハッピーであった。


★寛斎は越えている/大島渚★

2004年12月18日(土) 寛斎は越えている/大島渚
目の前で見る寛斎の演出はすばらしいものだった。

これ以上明快はないほど明快に、これ以上単純はないほど単純に、

寛斎の指示はモデルたちの上に飛んだ。時には日本語で、時には英語で。

その中で私は彼が要求していることは、実にたったひとつのことだということがわかった。

それは「ハッピーであれ!」ということだった。

わかった、と口に出しては言わなかったが、私は安堵して舞台ゲイコを終えた。


★寛斎は越えている/大島渚★

2004年12月17日(金) 寛斎は越えている/大島渚
一九八二年、準備に五年を要した『戦メリ』がようやく具体的な準備に入ったころ、

寛斎から久しぶりの電話があった。

晴海のモーターショウの大会場でショウをやる、そのモデルになって出てほしいということだった。

「大丈夫ですかねえ」

とは言ったものの、心は決まっていた。

これは冒険であった。そして冒険は成功するというのが私の昔からの信念だった。

もちろんこれは私の冒険ではない。寛斎の冒険である。寛斎ほどの男が冒険するのだ。

成功しないはずがない!

一方、私も『戦メリ』で冒険をはじめていた。これはもともと冒険だった。

日本人監督としてのはじめての国際的合作、英語、外国人のスター、スタッフ、

遠い南太平洋でのロケ、十六億の予算。五年間、金が集まらなかったのも無理はない。

それがいよいよやれるということで、私は冒険の上に冒険を重ねようとしていた。

まず、たけしを決め、次に坂本を決めた。

誰ひとり思いつきようのないキャスティングだった。私はもう勝ったと思った。

最高に昂揚していた。


★寛斎は越えている/大島渚★

2004年12月16日(木) 私の猫たち許してほしい/佐野洋子
六歳のあるいは十歳の兄が、私の中に居るので、私は只の人としての自覚を、

こと絵を描く時に強く持った。

青春期に絵を描く学校に居て、友人の何人かは、明らかに自分の天分を信じていた。

私は多分、そのような錯覚なり、自身なりを一度として持ったことがなかった。

只の人として、絵を描き続けることで、ほとんどの人が、只の人だということがわかった。

そして、只の人も、それぞれかけがえのない自分であることを学んだ。

只の人がますます只の自分であることに、かぎりなく近づいてゆくということは、

面白いことだった。


★私の猫たち許してほしい/佐野洋子★

2004年12月15日(水) 大丈夫/トータス松本
僕は考える

そしてペンを持つ

思いついたままノートに

らくがきしてみる


君はどうしてる?

ひとりで大丈夫?

憂うつな時はいつでも

話をきくよ


そうさ ゆうべの夢さ

しあわせな気分の

ままで目が覚めたから

届けたいよ君に

こんな言葉を

「答えはひとつじゃないから」


僕は大丈夫

今はそういえる

忘れたいこと あるけど


そうさ 誰もが胸に

しあわせな世界の

イメージを描いて暮らす

うまくはいかなくても

まずは一歩ずつ

答えはひとつじゃないから


僕は考える

きっと大丈夫

心がちょっとザワついて

何かがはじまった


君はどうしてる?

ひとりで大丈夫?

僕はここにいるよ

君は大丈夫

きっと大丈夫

僕はここにいるから


★大丈夫/トータス松本★

2004年12月14日(火) 暴れだす/トータス松本
あぁ 神様オレは 何様ですか
 
どうしていつも まちがえるのか

悩みはたえず オトナになれず

眠れぬ夜を 今夜もまた

あぁ笑ってごまかす 声もむなしく

飛び出すことも できないままに


あぁ胸が

暴れだす 暴れだす

誰かそばにいて


あぁ あのコはなぜ 笑っているのか

あきれるほどの オレのダメさに

イヤな顔もせず 知らん顔もせず

少ない言葉で はげましてくれる

「泣いたりしたら 苦しくなるよ」

わかっているけど 止まらないのさ


あぁ 胸が

暴れだす 暴れだす

どうかそばにいて


もしも あの時 もっと心に余裕があればなぁ

今まで こんなに人を悲しませずにすんだなぁ

人のために出来ることはあっても

人のために生きることができない


あぁ 神様オレは これでいいですか

本当に何も わからないままで

オトナになって やることやって

ケガの数だけ 小さくなって


★暴れだす/トータス松本★

2004年12月13日(月) フジコ日記通信(1月15日)/藤子at RANDOM
「クラブセガ新宿西口」オープン記念イベント『大山のぶ代一日店長』の

見学に行ってきました。

大山さんと言えば、ご存じの方にはご存じの通り相当な「ゲーマー」で、

無類の『アルカノイド』好き。

以前堂本剛の番組に出演していた際にも、かなりの腕前を披露していました。

『アルカノイド』というのは、1986年のブロック崩しゲームの事です。

で、この「クラブセガ新宿西口」と大山さんの関係なのですが、

大山さんはこの「クラブセガ新宿西口」の前身である「新宿スポーツランド西口店」

(通称西スポ、アーケードゲーマーにとっての聖地として非常に名高い店です)

の常連だったとか。そんな縁で、今回の「一日店長」となったようです。



大山さんはインベーダーゲームの頃からのゲームファンで、『ドラえもん』

のアフレコの後などにはしょっちゅうゲームセンターに行っていたとか。

そして『アルカノイド』で完全にハマり、20年近く経った今でもプレイ中。

『アルカノイド』は古いゲームのために置いてある店が段々と少なくなっていて、

流浪しているうちに西スポに置いてあるのを発見、そして常連になったそうです。

大山さんはゲームでは何より「高得点を出すこと」にこだわっているようで、

高得点を出すと最後にはいつも自分のイニシャルを入れているそうですが、

いつも決まって自分より上に「S・K」というイニシャルの人が入っていて、

自分が100万点取っても「S・K」さんは110万点取っていたりして、

その「S・K」さんを目標にしていたとか。

◇ 

ひととおり大山さんがゲームへの熱い思いを語ると、続いて『アルカノイド』をデモプレイ。

実際の腕前をご披露された訳ですが、これが実に上手い。

大山さんが凄い反射神経と落ち着いた判断力で、

次々とブロックを崩してアッと言う間にクリアしていくという図というのは、

もう笑うしかありません。
 
途中、レーザービームが発射出来るアイテムを取っても、

大山さんは全然レーザーを発射しないので「まさか大山さんはレーザーの事を知らないのか?」

などと思っていたら、大山さんいわく

「レーザーでブロックを破壊しても点数は低いのでレーザーは発射しない」とのこと。恐るべし。

プレイを始めたら最後、当分プレイは終わらなそうだったので

司会者に途中(4面)で止められていましたが、正直、最後までクリアするところを見たかった…。

 
★フジコ日記通信(1月15日)/藤子at RANDOM★

2004年12月12日(日) 私の猫たち許してほしい/佐野洋子
さんざん女房を泣かした人が、女房が病気になるとすべてをなげうち看病と真心をささげ、

一周忌には涙なしには読めない美しい愛妻記を友人知人にくばり、

三回忌のころには若い新しい女房と生まれかわったようにはつらつとやったりするのを知ると、

側に行って肩をたたいて、おいしいおすしなんかしみじみごちそうしたくなる。


★私の猫たち許してほしい/佐野洋子★

2004年12月11日(土) 私の猫たち許してほしい/佐野洋子
ただ私は、いつまでも生きていたいと意地きたなく思うのは、

立派な作品を残したいからではなく、電車の中で、耳の穴に毛がみっしり生えて、

その毛の中にしらがや茶色や灰色もまざっているおじさんに会ったり、

エレベーターの中で、ぞろりと口中金歯のおばさんに会ったりしたいからである。


★私の猫たち許してほしい/佐野洋子★

2004年12月10日(金) ★★★
3年目。

2004年12月09日(木) 私の猫たち許してほしい/佐野洋子
「姉さん、これ全部入るかしら」

といった。叔母と母は、足の方と思われるところから順々に入れ、

頭をつぼの上の方に入れようとしていた。

実際にはどこの骨か見わけがつかなかったけれど、気持ちとしてはそうしたかった。

入りきれない骨がどこかに捨てられてしまうことを考えれば、出来るだけたくさん入れたかった。

叔母は、

「姉さん、これぜんぶ入るかしら」

と何度もいった。

叔母が、

「ここが頭よ」

といった時、もう骨はつぼいっぱいになっていた。

叔母は、大きな骨をつぼの上にのせて、「エイ」と押しこんだ。

押しこみながら笑いだした。

「いやだわ。あんた、ほらこれも入るわよ」

と母も笑いだした。

笑いながら、母と叔母は、あの大きな頭蓋骨を持つ祖父を、白い骨壷におさめた。


★私の猫たち許してほしい/佐野洋子★

2004年12月08日(水) 悪童日記(1月1日)/水道橋博士
12時、東京ダイナマイトのハチミツ二郎が来宅。

倉敷出身、同郷のため、一緒に帰郷するため。


★悪童日記(1月1日)/水道橋博士★

2004年12月07日(火) 禍転じてウリとナス/小沢健二
さて前回の続きですが、何故「阿呆は寝て待て」であるのか、でしたね。

..って何が前回だというのに。そもそも良くわかんないのはこの題だ。

でもさっ、でもさっ。3年間の様々な思いを乗せて静かに流れゆくひととき。

ブランデーグラスを片手に一人うつむいて、「ウリ!」って叫びたくなりません?

あおげば尊し和菓子の恩、教えの庭にもはやりすたり。うっうっ涙がこぼれるよぉ。

だって僕はロマンチスト。もう終わりだね、君がラドンに見える。こらもう末期的ですね。

考えてみれば和光って恵まれてるでしょ。

館山にしたって秋田にしたって、学生生活まるごと恵まれてると思うと。

だけどもし恵まれてるという事にスレる、というかそんな風してしまうとれすね、

それはめちゃめちゃ恐い事であります。

ほら、自分が恵まれた中でずっとやってくると、もうそういうのはカッコよくなくて、

白けてたり本気になんなかったりするのがカッコいい、みたいなのあるではないですか。

日頃はそれで良いけどさっ、やっぱり最後の所「感動しちゃうよな良い事」

に素直に反応できる「素直さ」みたいなの、ほしいです。

あの、いいにくいんだけど、その、××、あなたにならアゲてもいい、

あらちがった、そう、題名の意味が全然なくなってるみたい。やーテレるなぁ。

もうちょっと気のきいた題にすれば良かった。「貧乏ヒマナス」というのはどうだろう。

僕の文ていつもこおゆう感じで意味ないね。

それではみなさん元気に明るく楽しくお過ごしください。ばいば−い。


★禍転じてウリとナス/小沢健二★

2004年12月06日(月) 僕らのアメリカ/細野晴臣×大瀧詠一
<日本人はお神楽造り>

大瀧 俺にとってもはっぴいえんどはヴァーチャル。張本人は細野さんでしょ。

細野 いや僕は──(笑)。

大瀧 またそうやって逃げる。

僕は当時細野さんたち3人が動いている横で解説してただけなんだよ。

語ってるから俺が張本人だと思われてるけど、俺は3人のことを解説してる霊的な存在なんだ。

細野 悪霊じゃないの?語る悪霊。

大瀧 だから、はっぴいえんどのことを話しても、全然自分の話をしているような気がしないんだよ。

淀川長治はロバート・フラーとは共演はしたことないけれど、

「ララミー牧場」語らせたら一番詳しいかもしれないでしょ。

細野 つまり、自分はあくまで解説者でいたいと(苦笑)。

大瀧 「皆さん、今日はいいお話でしたね。私の解説入り『細野晴臣アメリカ体験物語』、

楽しんでいただけましたでしょうか。

ではまた次回、お会いしましょう。サイナラ、サイナラ、サイナラ…」というふうにだなぁ…。

細野 何もそこまでしなくても…。


★僕らのアメリカ/細野晴臣×大瀧詠一★

2004年12月05日(日) 僕らのアメリカ/細野晴臣×大瀧詠一
<日本人はお神楽造り>

細野 ところでアメリカ人の友達いる?

大瀧 日本人の友達もいないのに、アメリカ人の友達がいるわけないじゃない。

細野 外国からマニアがコンタクトしてきたりしないの?

大瀧 ひとりくらいはいるけど、変わり者だよ。


★僕らのアメリカ/細野晴臣×大瀧詠一★

2004年12月04日(土) 僕らのアメリカ/細野晴臣×大瀧詠一
<日本人はお神楽造りだ>

細野 で、日本に帰ってきたあとも、ヴァーチャルな気分が続いていた?

大瀧 帰ってきて、たまたま子どもが生まれて、住んでいた家が手狭になったんで、

基地に近い福生に引っ越したよ。

細野 僕も同じだよ。狭山の米軍ハウスに引っ越した。

つまりふたりとも、日本の中のアメリカに移り住んだからヴァーチャルが続いたんだね。

大瀧 僕はいまだに同じ家に住んでるよ。


★僕らのアメリカ/細野晴臣×大瀧詠一★

2004年12月03日(金) 僕らのアメリカ/細野晴臣×大瀧詠一
<はっぴいえんどのアメリカ>

細野 ところで、あの時ディズニーランドに行ったけど、結局、

あれが僕たちにとってのアメリカだったと思わない?

大瀧 たしかに。自分らが思っているところのヴァーチャルと現実がジャストフィットした感じ。

ファンタスティックな、何ひとつ曇りのないアメリカ体験。


★僕らのアメリカ/細野晴臣×大瀧詠一★

2004年12月02日(木) 僕らのアメリカ/細野晴臣×大瀧詠一
<はっぴいえんどのアメリカ>

細野 大瀧くんも、72年にはっぴいえんどのレコーディングで

ロスアンジェルス行ったときが初めてのアメリカだったでしょ?

大瀧 僕はあれが最初で最後。あれがなきゃ、行ってなかったでしょうね。

細野 福生から出たことあるよね?

大瀧 富士山より西は行ってないですね。

細野 アメリカの印象はどうだったの?

大瀧 アメリカの印象はレコード屋だけ。レコード屋に行ったときは高揚しました。

「レコード屋のおやじになるつもりか」といわれるくらい買ったからね。

細野 みんな、レコードはすごい量買ってたよね。

大瀧 宝の山に入ったことはないけど、入ったらああなるだろうなと

思うくらいの体験をしましたね。


★僕らのアメリカ/細野晴臣×大瀧詠一★

2004年12月01日(水) 僕らのアメリカ/細野晴臣×大瀧詠一
<はっぴいえんどのアメリカ>

細野 FENの影響は大きかったな。

大瀧 細野さんもFEN聴きながら順位をつけたり、

何度もテープレコーダーを止めながら歌詞を聞き取ったりしてたでしょ。

FEN派は、どこかイリュージョン的で現実に対する能力が薄いね。

でもって、周囲から浮いてしまう。

細野 最近の若者はFEN体験がないから、浮いている要素が少ないね。

特に、女性のリアルな感じとか…(笑)。みんなリアルでせまってくるからかなわないよね。

大瀧 刀や拳銃探してる間に殴られるわけだよ(笑)。

我々が「アメリカでは○○だろう」というのも、完全にフィクションや想像の産物だったからね。

細野 そう考えると、僕たちのアメリカ体験というのはおおかたヴァーチャルだね。

アメリカ大陸の土を踏む前に、ずいぶんシミュレートしちゃったわけで。


★僕らのアメリカ/細野晴臣×大瀧詠一★

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