しかし私が注目せざるをえないのは、南方が生涯を通じて、
自分の立場を国家や家やアカデミーなどのそれと、
一度も結びつけて考えたことがなかったという点なのである。
簡単にいえば、彼にはインテリの自覚が欠けていたのである。無責任だったのである。
ちなみにいう。私は、インテリという言葉を良い意味で使ったことは一度もない。
無責任という言葉を悪い意味で使ったことも、一度もない。
この無責任の立場、自由の立場は、南方の博物学者としての立場と、
見事に釣り合っているといえよう。
その体系を欠いた博覧強記は、権威によって拘束されない無私の情熱、
無償の情熱の結果なのである。
無責任、無邪気、無私、無償──これらは南方熊楠の頭上に冠すべき輝かしいエピテートであろう。
漱石は悩みに悩んだ末、ようやく「自己本位」などという哲学(?)にすがりついたが、
こんなしみったれた哲学を、南方はおそらく笑いとばしたことであろう。
鴎外は「かのように」の哲学(?)に立脚して、
ことさら快活ぶらなければ生きてゆけなかったが、南方にとっては、
快活ぶる必要なんかまったくなかったにちがいない。
★悦ばしき知恵あるいは南方熊楠について/澁澤龍彦★
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