○プラシーヴォ○
目次|←どうして?|それから?→
仕事中に移動が少ないパン屋のバイトでよかった 手術後4日目でも働けるんだもん。
バイトが終わり、シャッターを閉め、 反対方向へと帰るバイトの女子大生の子へ手を振る。
さあ、電車乗らなきゃ、と夜の空気を吸いこんだ時・・・ 携帯が鳴った。
「がちゃ子・・・?どこにいるの」 「バイトから帰るとこ」 「朝も・・・昼も鳴らしたんだけど」 「気がつかなかった(嘘。本当はわかってた)」 「気をつけて帰れよ。帰ったころに電話するよ」
こんなに弱々しい男の人の声を聞いたのは初めてだった。
家に帰り、夕食をすまして部屋に戻ると電話が鳴った。
「怖かったよ。仕事している間も、ずっと怖かった。 もう2度とがちゃ子に逢えないかと思った。 がちゃ子、辛いとかなんにも言わないから・・・。 俺、甘えててんな。 がちゃ子平気なはず無いのにな。 いっぱいいっぱい、しゃべろうな。 俺も言うから、がちゃ子も、もっとしゃべって。」
そう。私が1ミリも悪くないなんて、嘘。
引きつる笑顔で「楽しんでおいで」と 海へ送り出したのは私。 中絶の手術のことも、まるで虫歯を抜くくらいに 平気そうにしていたのも私。 助けを求めなかったのも私。
なのに
どうして私のことが分らないのと 無茶を言ってたのも私。
ウサギをダンボールで密封しておいて これはウサギなのにどうしてエサをやらないの どうして殺してしまったのと 何も知らない周囲の人に 言っているのと同じ。
分からないよね。気持ちなんて、言わなくちゃ分からない。
出会ってから、ハム男は毎晩電話をかけてくる。
あまりにもハム男への愛情を表現しない私を不安に思い、 「毎日電話しないと、がちゃ子、 俺と付き合ってることを 忘れてしまいそうなんだもん」 と言っていた。
昨日の夜、かかってこなかった。 海がよっぽど楽しいのだろう。
付き合ってから、初めてハム男のことが憎いと思った。
憎い。憎い。
子宮をほじくり出された私を置いて海に泳ぎにいき、 安否を尋ねる電話もない。 憎い。憎すぎるよ。
ハム男は優しい。 優しいけど、無神経なんだ。
『手術したばかりの私を置いて 海に行くあなたにがっかりしました。 私は、そんなに頑丈ではありません。』
メール送信。 もしかしたら最後の。
そして 今夜も電話は鳴らなかった。
生まれて初めて知った。 人は、怒りすぎると脱力する。
ジャッという音で、目が覚めた。 カバンのチャックを開ける音だった。
午前中に仕事に行っていたハム男が帰ってきていた。 いつもサッカーに行く時に使っている 大きいナイキのカバンに洋服をつめている。
「…なにしてるの?」 「あ、ごめん、がちゃ子。起きた?」
毎年恒例になっている、 悪友たちとの和歌山旅行に行くのだという。
主催の人(この人の別荘で泊まる) の叔父が一昨日お亡くなりになり、中止かと思っていたが 主催の人は、今晩お葬式が終わってから駆け付けるのだとか。
あ〜面倒くさいなあ。中止になればよかったのに・・・。
顔が、嬉しそうだよ?言葉と顔が一致してないよ? 私はまた、ドサリとベッドへ倒れこんだ。
嘘だ。嘘だ嘘だ嘘だ。 これは夢だ。 ハム男が手術してすぐの私を置いて、 海水浴に行くわけがない。
そんな私の上から、現実の声が振ってきた。 「がちゃ子、悪いけど帰る準備して。 俺、そろそろ出発するから。」
いいよいいよ、勝手に行きなよ。私は電車で帰るから・・・ と言ってやりたいところだが、途中で出血したりしたら困る。
怒りのあまり表情を失い、ノロノロと動く私。
言葉が出ない。 口を開くと叫んでしまいそうだ。
あなたが和歌山に行ってる間に、 私の具合が悪くなったら・・・ 死にそうになったら・・・ 夏休みで渋滞している高速道路を ノロノロと帰ってきてくれるわけやね。
ありがたくて 涙がでそう。
体中に力が入らない。 呼吸は全て ため息になる。
「マニキュアは落しなさいって 注意書きに書いてあったでしょ!?」
苛立ちをあらわにした看護婦の声。
足の指が、真っ赤にピカピカと光っている。
読んだ。読んだから、昨夜のうちに手のマニキュアは落した。 足は、つけておきたかったのだ。
なんとなく、 「オンナ」であることを主張したくてたまらなかったのだ。
「はい、じゃあ今から手術室に行くからトイレ済ませてね」 まだなんとなくイライラした口調で看護婦が私を立たせる。 手首に刺された点滴の針がうずく。
歩いて個室を出る。 後ろで彼がじいっと私を見てる。 私は振りかえらない。 戦場にいく父が、息子を振りかえらないように。
「心配しなくてイイよ。すぐ終わるから」 彼が私に言うべき言葉を、心の中で彼へとつぶやく。
手術室で天井を見上げて、一番怖かったのは あきらかに新人の看護婦が1人いたこと。 周囲の人に注意されながら、ぎこちなく準備を進めている。
「じゃ、まず詰めているものを取りますね」
ラミナリアを抜くのだ。 麻酔してからにしてよおおお! ちくちくとした痛みに耐えて、汗だくになった。
「じゃ、麻酔するよ」 しかし、私の横に看護婦が立っているだけで、チクッともナニもない。
「僕の言った数字を、後に続いて言ってね」 どうやら、手首に刺さっている針に、麻酔の点滴をつないだようだった。
「いつまでも眠たくならなかったらどうしよう」 の心配をよそに、 5まで数えたところで私は意識を失った。
いきなり、体が浮いた感じがした。 いや、実際浮いていた。 看護婦に抱きかかえられて、移動式のベッドに寝かされながら ナプキンをあてがわれたパンツをはかされていた。 すごい連携プレーだ。
・・・いつ終わったの。 どうしてそんなにあっという間なの
「手術に必要な、ギリギリの量の麻酔だったんだなあ 終わってすぐ、こんなに意識はっきりしてるんだもん」 と自分では思っていた。
ベッドに寝たまま個室に移動する時に、看護婦が 「すぐに動かないように。今、痛いところはない?」 などと私に質問していたようだ。 私もなんとなく聞こえたので返事をした。
ハム男が私に顔を近づける。 「全身麻酔したばかりなのに、 看護婦さんとベラベラしゃべりながら 帰ってくるから驚いたよ。 がちゃ子が何言ってるか、さっぱり分からなかったけど。 あ、俺、車を道路に止めたままだから駐車場にとめてくる」
ふっと
意識が戻る。いつの間にか寝ていた。ハム男がいない。 そうか、駐車場がどうとか言ってたな。 トイレがしたい。
のろのろと起きあがる。 痛みもないし、気分が悪いわけでもない。 手術が現実だったことの証明は、ナイ。 でも現実。
トイレをすませて、また横になる。 ハム男が戻ってきた。 「大丈夫だったか?ちょっと会社に行って用事をすませてきたんだ」 時計を見ると、手術が終わってから3時間もたっていた。 そんなに寝ていたのか。
看護婦がお盆に薬とお水をのせて入ってきた。 ごくり、と薬を飲み込んでコップを返そうとすると 「いいのよ。全部飲みなさい。昨日から絶食だから 喉乾いてるでしょ」
さっきマニキュアを叱りつけた時とは別人のように 優しくなっていた。
彼の車で彼の家へ帰る。
車の中で私は死ぬほど幸福だった。 とにかく、お腹のなかはからっぽになったんだ。 もう、成長する子にビクビクしなくていいんだ。 もう、痛いことされないんだ。
「いつか、近いうちに、お寺にいこうな」
ハム男がそう言うまで、 そんなこと、思いもつかなかった。
今日は、 ラミナリアという海藻でできた棒状のものを 子宮にいれる処置をする。
出産経験のない女性は、子宮口が小さく固いので 堕胎処置がしにくく、傷つけるおそれがある。
だから、水分を吸収してじわじわ膨らむ棒(ラミナリア)をいれ、 子宮口を広げておくのだ。
細い棒で、必要に応じた数をいれる。
朝6時に起き、シャワーを浴びる。 ハム男に車で病院まで送ってもらう。 高速道路で30分ほど走り、到着。
黒くて長いスカートをまくり、 診察台に座ると、半回転して 下半身だけカーテンの向こうへと出る。
子宮にとてつもない圧迫感がきた。 お腹が痛くなりトイレに行きたくなった。
チクッとしたり、ズンッと押しこまれたり いったい私の子宮の中はどうなってしまっているのか?
「そうそう、うまいわよ。その呼吸をしといてね」
あまりの痛さに ハッハッと、妊婦さんが赤ちゃんを産む時の呼吸に なっていたらしい。
汗でぐしゃぐしゃの手で、私は椅子のひじ掛けを握り締めていた。
10分か20分か・・・ 処置が終わり、待合室の彼のところへ行く
通常診察が始まる1時間前に処置をされたので、 他には誰もいない。 いなくてよかった。
吐いてもいいように小さいバケツを持たされ、 診察室から汗まみれでヨロヨロと出てくるところを、 他の人に見られるなんて・・・想像しただけで恐ろしい。
彼と一緒に待合室のソファーで15分ほど黙って座っていた。
「コンビニに寄って、食べるものを買おう。 俺、すぐ会社にいかなくちゃ行けないから」 とハム男。
気持ち悪くて吐きそうだから、 先にとりあえず私を家の前でおろして、 それからあなた、どこかで食事すればいいじゃない。
ハム男は「わかった」と言って 私を彼の家の前で下ろした。
しばらくすると、コンビニの袋を下げて 帰ってきた。 寝ている私の横でお弁当を食べている。
心配そうな視線を私に送りながら 仕事に行った
それからずっとお腹の痛みが続いた
子宮が膨らんで大腸を圧迫しているのか 下痢の時のような痛みだった 事実、便が大量にでた
夜、彼が帰ってきて、慌てふためいて食事の準備をしていた。 「20時までに食事せなあかんもんな!」 魚をお味噌で煮た、よく分からないおかずを作ってくれた。 あんまり味がしなくて美味しくなかった。
夜、いつもテレビを見て夜更かしのハム男が、 私に合わせてベッドに早々に潜りこむ。
「大丈夫だよ。 痛くないよ。がちゃ子はなんにも心配しなくていいよ」
いつもの私なら フザケンナ!ナニガワカルッテイウノヨ!! と激怒するところだが なぜかこの日は、 根拠のないハム男の励ましが嬉しかった。
それぐらい、怖かった
嘘でも気休めでもいいから すがりたかった。
家から歩いて十分ほどのところにある産婦人科。
建物がキレイだし、なんとなくここしかないって思ってた。
前日に電話で予約を入れていたので 1人でサクサクと入っていった。
私の書いた問診表をチラリと見て、 お医者さんが
「じゃあ、今回は妊娠を継続できない・・・というわけですね」
ああ、 そういう表現もあるのか、と とても納得してしまった。
とても早口のお医者さん。 デスクの上の、使っている様子の無いimac。 診察室を出て行く時ドアを開けっぱなしにしたり、 お腹のエコーをとっている妊婦さんのすぐ横で 私に説明をする看護婦。
なんだか雑だなあ、という印象を持った。
手術は来週に決定した。 1日でも早く、とお願いしたのだ。
お腹の子が大きくなって、 手術の負担が増えるのが嫌だった。
私は、私のことしか考えていなかった。 お腹の子を「モノ」としか考えられなかった。
まるで妊娠してしまった彼女を遠くから見ている彼氏のように 動揺はしているけれど、 どうも実感が沸いていなかった。
最近、それがわかった。
私はつらすぎて、怖すぎて 心のシャッターを閉めきっていたのだ。
感じないように、考えないように、狂わないように。 脳から分泌されたモルヒネのような成分が 体中を駆け巡っていたのだろう。
嬉しかった。 嬉しかったんだよ。
初めて君から 「会いたい」って連絡をもらえて
バイト先のパン屋さんまで 迎えに行って 僕の車に乗り込んだ時は 何も感じなかった
僕の家について、 テレビを見る。
そしてふと君を見ると、 少し口を笑顔の形にして・・・ でも目は笑ってなくて一点を見つめている。
言いたいことがあるのに 心にためこんでいる時の顔だ。
僕は、君の無言の声が聞こえてしまったのかな。 勝手に、口が言葉を発したんだ。
「がちゃ子、そういえば最近 今生理だからエッチできないよって 言わないね」
顔色が変わるって、こういうことを言うのかって 思ったよ。
本当に,『サッ』って音がするくらい 君の顔が青くなった。
そして小さい声で 「赤ちゃん、できた」って・・・。
「よし、結婚しよう!」
僕のプロポーズに 君は体をカチコチにして答えた。 「今は・・・欲しくない。産みたくない」
君は、なんでも1人で決めてしまうから、 もしかしてこの時も、 もうすでにお腹の中に赤ちゃんはいないんじゃないかとさえ 思ったほどだったよ。
「がちゃ子は、な〜んも心配しなくていいんやで」
って、ぎゅうぎゅうと頭をなでながら 僕達は眠った。
だけど、僕はなにをどうしたらいいのか 全く分らなかった。
そりゃあ、ハム男は驚いただろう。
3月に付き合ってから、 私の方から連絡とったことがないのに (待ち合せに遅れる、等、必要な時以外)
急に
「近い内に会えるかな?」
ってメールを送ったんだもの。
「絶対会おうね。」 って、なんとも可愛らしい返事が返ってきた。
明日。 明日言おう。
以前から約束していた友達とのショッピング。
13時に某大手スーパーで待ち合わせ。 少し早めに来て、薬局で検査薬を買った。 その足でトイレに行く。
尿をかけて・・・ 何分待つのかな?と説明書を読んでいる間に、
結果が出ていた。 1分もたたないのに。
説明書の写真と同じ、赤いライン。 なんて鮮やかな。
血が全て、足の先に集まる感触。 瞬間的に「産めない」 と決断した。
体全部で、そう思った。
これから取りたい資格、なりたい職業がある。 今ここで、人生をとめて育児するわけにはいかない。
そしてなにより、ハム男とは付き合い出して4ヶ月だ。 まだ、恋人でいたい。 夫婦になりたくない。
待ち合わせ時間になって ようやく私はノロノロと動き出した
その日会った友達に言うと、 「病院にいかなきゃ分らないでしょ!」 と言う。
最近の検査薬は、もう、とてもとても確実なのだと 友達に説明するのも面倒で
ソウダネ、チカイウチニ イッテクル
と答えておいた。
お酒をがぶがぶ飲んだ。 これが影響して 死んでくれれば・・・と思った。
こない。 こないこないこない。
ほぼ1週間遅れている。
いつも、 いくら遅れようとも 「もうすぐ始まりますよ〜」 という体の兆候は確実にあったのだ。
イライラしたり 体全部がむくんでるような破裂しそうな感じがしたり
それが、ない。 全然無い。 始まる気配がない。
そして、乳首が異様に大きくなってる
きっと、きっとそうだ。 早く、確認しなくては。
がちゃ子は、会社を辞めた後 リストラされた働き盛りの青年男子のように 途方にくれてた。
そして、急に
「接客業がしたい。 しかもパン屋で働きたい!」
って言いだした。
そして本当に、ふらふらと散歩してた時に 見つけたパン屋さんで働きだしちゃったね。
そこは、近所でも有名な ヘルシーなパンを置いている店で、 すっごくすっごくおいしかったね。
ただし、制服が妖精のように可愛らしくて 4年間の肉体労働でつちかわれた 君のがっちり体型には似合ってなかった・・・。
「店に来たら殺す」 って言う君の目は本気で 僕はお迎えに行く時に窓越しに こっそり見ることしかできなかった
週に3回バイトで、 バイトが無い暇な日は 僕の家に来て、掃除や洗濯をしてくれてた。
こうやって、 何も問題無く日々を過ごし、 幸せなまま結婚できるのだと 疑ってなかった。
君も、僕も。
|