2008年05月31日(土) |
「 便所の落書き 」 が凶器になるとき |
「 真理を知る人が必ずしも、真理を愛するとは限らない。
真理を愛する人が必ずしも、真理を好むとは限らない 」
孔子 ( 中国の哲学者 )
They who know the truth are not equal to those who love it, and those who love it are not equal to those who delight in it.
Confucius
マスコミの一部では、ブログを 『 便所の落書き 』 と呼んでいるらしい。
なるほど、上手いこと言うものである。
まず、大半のブログは匿名で書かれており、作者の氏素性が明らかでないことから、情報の 「 信頼度 」 という点で 『 便所の落書き 』 に近い。
新聞や雑誌のように、中立性を求められることもない為、個人的な価値観、先入観に基づいた文章が多いのもブログの特徴だ。
匿名性を悪用し、中傷や悪態、悪意に満ちた文章を並べる者がいる一方、善意の書き込みを 「 気に入らない 」 ために、中傷だと批判する者もいる。
ブログの場合、何が信頼できるか、何が正しいかは 「 読む人の判断 」 に委ねられており、どちらかというと責任の所在は 「 読み手側 」 にある。
私も、このような文章を書き始めて7年目になるが、これを読んだ人々から 『 便所の落書き 』 と評されても、「 上手いこと言うなぁ 」 と思う次第だ。
公益を重んじる大手メディアとは違って、数々の制約を受けない個人発信のブログには、大手が 「 書きたくても書けないこと 」 を書ける長所もある。
新聞や雑誌の記者からみた場合、ブログ作家は 「 文章を書く素人 」 かもしれないが、ほとんどの人は、「 何かの専門家 」 であることも事実だ。
たとえば、医学的な解説について、プロの新聞記者が書くことよりも、作家としては素人でも、医者が書く内容のほうが、より真実に近いケースもある。
また、たとえそれが真実でも、同じ医者が 「 実名を名乗り出て雑誌に掲載できる記事 」 と、諸般の事情で 「 掲載できない記事 」 がある。
そんな 「 専門家の本音 」 が垣間見れるところも、ブログの特徴なのだが、冒頭の名言が示す通り、必ずしも万人に真実が好まれるとは限らない。
仕事柄、カウンセリングの勉強を続けており、精神科医の著書を読んだり、講演を聴いたり、その後で質疑に答えてもらったりしている。
たまに、同じ人物の著書でも、「 一般人向け 」 に書かれた書店販売用の本と、「 研究者向け 」 に書かれた内容が、微妙に違うケースがある。
その矛盾について質問すると、「 真実を患者に伝えるのが、必ずしも得策とは限らない 」 という回答が返ってきて、精神医学の難しさを痛感した。
昔と違い、他の医療分野では 「 患者にとってショックな事実 」 であっても、できるだけ医者は正直に話すことが求められている。
しかしながら、いまだに精神治療の分野だけは、「 歓迎されない真実 」 を隠したり、誤魔化したりする必要があると、現場で認識されているようだ。
北九州市の女子高に通う同市在住の1年の女子生徒 ( 16 ) が、ネット上に 「 死ね 」 と書き込まれたのを苦に自殺したことが分かった。
詳細は不明だが、いくら 『 便所の落書き 』 といえども、「 死ね 」 などと書くのは問題で、それが事実なら、書き込んだ人間の罪が問われるだろう。
この学校の校長は、「 学校にいじめは全くなかった。生徒にもインターネットの怖さを教え、ブログなどのサイトを利用しないように指導した 」 という。
実は、精神科医らの間でも 「 インターネットの弊害 」 は話題になっていて、うつ病や、精神疾患のある人物のネット接続は、好ましくないとされている。
今回の事件のように、ネット上で 「 死ね 」 と書かれただけで、自殺にまで追い込まれる人がいる以上、そこは危険な場所と言わざるを得ない。
以前、私が相談を受けた人物 ( 20代前半の男性会社員 ) も、ネット上のトラブルが原因で 「 抑うつ状態 」 に陥り、深刻な悩みを抱えていた。
私の場合、病気を治す 「 治癒的カウンセラー 」 ではなく、仕事上の相談に乗る 「 産業カウンセラー 」 なので、彼らを治療することはできない。
どうしようかと困っていたら、様子をみかねた彼の父親が、彼の携帯電話とパソコンを廃棄し、一切、インターネットに接続できない状態にした。
この時代、携帯電話が無いというのは不便な気もするが、その結果、彼は元気を取り戻し、先日も連絡があったが、仕事に精を出しているという。
父親の談によると、それは 「 精神科医の勧め 」 による手段だったそうだが、患者本人に医師が 「 ネットを止めなさい 」 とは言わなかったらしい。
所詮 『 便所の落書き 』 だと思えば、腹も立たないことが、死にも追い詰められるような人たちには、ネットやブログを過大評価する傾向もみられる。
物事には様々な見方があり、人間には色々な意見があること、それは必ずしも自分の気に入るものや、共感できるものではないという事実。
自分で正しいと思い込んでいても、思わぬ角度から反論されたり、立場が変われば 「 正義が悪に 」 変わることだって珍しくない。
そして、そのすべては、お互いに名乗りあい、顔を見合わせて話し合うことのない 『 便所の落書き 』 の仮想世界で起こっている現象に過ぎない。
なんでもないことで気を病む 「 ピュアな人々 」 が首を突っ込むには不向きな環境であり、ストレス耐性の弱い方は、ネットに接続しないほうがよい。
2008年05月28日(水) |
船場吉兆の廃業について思うこと |
「 友人を得るには、色々なことをしなければならないが、
失うには、たった一つの行為でいい 」
英語のジョーク
Friends are made by many acts - and lost by only one.
English joke
二流以下の勤め人は、「 自分の給料は会社が払っている 」 と思っている。
一流は、「 自分の給料はお客様が払っている 」 ことを絶えず意識する。
牛肉産地偽装事件で、大阪府警が捜査している民事再生手続き中の料亭 「 船場吉兆 」 が、再建を断念し廃業すると発表した。
このところ、特に他府県の人から 「 船場吉兆は、いつ潰れるのか 」 という質問をされることが多く、面倒に思っていた矢先の発表だった。
一部経営陣を入れ替え、営業を再開したまではよかったが、今月になって、客が残した料理を別の客に回していた問題が露呈し、客足が遠のいた。
使い回しの発覚以降は、全く客が入らない日もあり、予約も数えるほどで、今後も売り上げが回復する見込みはないと判断した模様だ。
女将は会見の席上で 「 ( 廃業を ) 断腸の思い 」 と語ったが、人情に厚い大阪の食通を裏切り続けた行為は、もはや挽回の余地などないだろう。
たぶん、同時に写真を並べると似てもいないのだろうが、「 吉兆 の 女将 」 と、「 和泉 元弥 の 母親 」 の顔が、なんとなく重なるのは私だけだろうか。
それは、「 頼りない息子を影で支える “ したたかな母親 ” 」 という共通した印象によるところが大きいのかもしれない。
吉兆を巡る一連の不祥事では、経営者側の責任ばかりが報じられ、現場で悪事に手を染めた 「 従業員の責任 」 を問う声は聞かれない。
彼らは上からの命令に逆らえない立場で、やむを得ず不祥事に加担させられた後、勇気をもって内部告発した存在として、擁護されているようだ。
たしかに、そういった事情は理解できるが、どうせ内部告発をするのなら、どうしてもっと早い時期にしなかったのか、腑に落ちない点も多い。
一部報道によると、吉兆による 「 使い回し 」 は、10年以上も前から続いており、本店のみならず、各支店でも日常茶飯事だったという。
つまり、おそらく全ての従業員が 「 使い回し 」 を知っていたうえで、上からの指示があったにせよ、隠蔽していたとみて間違いないだろう。
吉兆といえば 「 大阪の誇り 」 とまでも称された名店で、その板場を預かる料理人たちも、常連客からは 「 一流のプロ 」 として評価されていた。
彼らに 「 プロとしての誇り 」 が本当にあったのなら、自分たちの腕を評価し、お金を払ってくれるのは誰なのか、知らないはずはない。
たとえ、雇用する店側が不誠実な仕事を指示しても、お客様に誠意を示し、誇りをかけて一蹴するのが 「 一流のプロ 」 なのではないだろうか。
吉兆を巡る一連の不祥事で、経営陣の責任が重いことは否めないけれど、かといって、従業員に 「 何の責任もなかった 」 とは思えない。
もともと 「 罪 」 という発想はキリスト教から出でたもので、それを信仰する欧米人には 「 罪の文化 」 が浸透してきた。
それに対し、日本人には、武士道などの美学から出でた 「 恥の文化 」 が根強く、自己の哲学に恥じない生き方が重要だと考えられてきた。
いくら従業員に 「 罪 」 が問われなくても、プロとして 「 恥 」 にあたる行為を続けてきたことは、紛れも無い事実なのである。
船場吉兆は廃業するが、そこで働いた多くの調理師の面々には、顧客第一の発想と、プロの誇りについて猛省し、再出発に臨んでほしいと思う。
2008年05月26日(月) |
大阪府 : 無能な者は減俸せず 「 解雇 」 せよ |
「 人生は公平だと思うな 」
ケネディ家の家訓
Don't expect life to be fair.
The family recepts of the Kennedys
たとえば、ある企業が給料を 「 一律 30% カット 」 するとしよう。
ここで従業員には、それでも残るか、辞めるかの選択を迫られる。
事情にもよるが、ここで 「 辞める 」 と答えた人は、転職しても現状の70%以上は稼げる 「 自信のある人 」 であることが多い。
逆に、それでも 「 残る 」 と答えた人は、転職すると現状の70%も稼げないだろうという 「 自信のない人 」 が多いとみるのが自然だ。
つまり、このような形で リストラ を敢行すれば、能力に秀で、自信のある人が会社を去り、能力の低い人、自信のない人ばかり居座る危険が高い。
仮に、全員が残ったとしても、自分の 「 市場価値 」 より低賃金で働かされていると感じる人は、やる気を失くしてしまう恐れがある。
業績不振などの影響から、人件費を削減せざるを得ない状況にあっても、個々の能力評価を鑑みない 「 連帯責任的な一律減棒 」 は好ましくない。
財政再建を進める 大阪府 の 橋下 徹 知事は、職員に対する 「 平均12% の給与カット 」 について、“ お詫びのメール ” を送ったという。
詫びるぐらいなら、最初から口にしなければいいようなものだが、たしかに、このような 「 連帯責任方式 」 はマズかったように思う。
総コストの中で、人件費が占める割合が高い場合、削減目標を立てること自体は間違っていないが、あくまでも目標は 「 財政再建 」 にある。
無能な者、怠惰な者、有害な者は 「 解雇 」 し、残った有能な者は逆に昇給させ、やる気のある少数精鋭主義で、事態を好転させる術もあるはずだ。
橋下 知事 はメールで “ 公務員の給料が高いと思っているわけではない ” と弁明しているようだが、そういう類の問題ではない。
同じ給与額でも、貢献度の低い者を雇えば 「 高い給与 」 となり、貢献度の高い者を雇うと 「 低い給与 」 になるのは、民間企業なら常識だろう。
公務員の貢献度は、営利企業と同じ尺度で計れないが、勤怠状況、仕事に対する姿勢、過去における不正やミスの数など、個人査定の基準はある。
特に著しく評価の劣る者は、いくら給与を下げたところで 「 無駄遣い 」 に変わりなく、即刻 「 解雇 」 するのが最善の方策だ。
逆に、有能な者の中には、悲願の 「 財政再建 」 に辣腕を発揮する逸材が隠れている可能性もあり、無能の “ 巻き添え ” で減棒してはならない。
有益な者も、有害な者も、「 少しづつ給与を減らしましょう 」 なんて政策は、有益な者のやる気を失くし、有害な者を排除できない愚策である。
あくまでも市民のための 「 公僕 」 であって、職員組合のために市民が働いているわけではない点を、知事も職員も、十分に認識すべきであろう。
極端な話、全員を解雇して、やる気と能力のある者を募っても良いわけだし、各人の能力に見合う 「 能力給 」 の制度を導入してもよい。
大阪府職員の場合、4人に一人は 「 何らかの不正行為 」 が過去にあったとされるが、この連中を解雇するだけで、25%の賃金カットが出来る。
反対する輩は、業務評価を公表し、「 こんな奴らを税金で雇ってよいか 」 という審判を、府民に尋ねてみるとよいのである。
税金の無駄遣いとは、公務員全体の給与水準ではなくて、不適格な人材を雇用し続けている問題が大きく、それに気付かねば再建はあり得ない。
2008年05月25日(日) |
揺れる韓国の北朝鮮政策 |
「 どの港を目指すのか知らぬ者に、順風が吹くわけがない 」
ルキウス・アンナエウス・セネカ ( 古代ローマの政治家、詩人 )
When a man doesn't know what harbour he is making for, no wind is the right wind.
Lucius Annaeus Seneca
何事も、目的を明確に認識していない者が、成功するわけなどない。
そのような考えを比喩的に述べたのが、この言葉である。
韓国の 李 明博 ( イ・ミョンバク ) 政権が発足して約3ヶ月になるが、各種世論調査での支持率が20%台に急落し、早くも試練に直面している。
先ずは、政権発足に際して、閣僚を含む要職人事で、不動産投機疑惑などの “ 不適格人物 ” を起用したことに、世論の強い批判が起きた。
次に、親米路線への復帰ということで、米国産牛肉輸入の全面解禁に踏み切ったことが、“ 狂牛病 ” 対策の甘さとして、一部国民の反発を招いた。
就任前、「 経済に強い 」 ことを看板としていたのに、国内経済が物価高や低成長の見通しで、さらに苦しくなっていることへの失望も大きい。
この現象は、旧 盧 武鉉 ( ノ・ムヒョン ) 政権時代の “ 左翼・革新体質 ” を維持している主要テレビ各局の 「 執拗な批判体質 」 も影響している。
李 政権 の今後で、関心を集めているのが、「 北朝鮮に対する食糧支援 」 への姿勢であり、これは、日本にとっても無関心ではいられない問題だ。
大阪で生まれ、在日韓国人としての過去を持つ 李 明博 氏 は、日本との関係を悪化させることを好まず、これまでは、親日的な姿勢を見せている。
北朝鮮に対しては、拉致問題を中心とした 「 日本の国民感情 」 も配慮し、南北首脳会談には応じるが、支援の透明性を重視する姿勢をとってきた。
これは、「 太陽政策 」 を基礎に南北関係を最重視した 盧 武鉉 前政権 と 大きく異なる点で、日本の拉致被害者救済にも、期待が寄せられている。
ところが、北朝鮮への 「 無原則的な支援はしない 」、「 支援は北の要請が前提 」 と繰り返してきた 李 政権 の姿勢に、変化の兆しが出てきた。
まず、最近になって 「 北朝鮮の食糧危機 」 がしきりに伝えられ、核問題をめぐる米朝交渉の “ 進展 ” で、米国が50万トン分の食糧支援を決めた。
米国よりも支援が遅れている 李 政権 に対して、北朝鮮側は連日のように 「 民族の反逆者 」、「 逆賊 」 と誹謗中傷を続け、韓国世論を扇動する。
その結果、李 政権 は内外から “ 支援圧力 ” を受ける形となり、「 深刻な状況が確認されれば支援もあり得る 」 と、原則後退の兆しを見せ始めた。
支援に踏み切った場合は、対北政策の変質となり、保守派の反発がさらに政権の基盤を揺るがすことになりかねないため、動向は未だ不明である。
だが、前大統領の任期末期 27.9 % を下回る 25.4 % と、就任直後としては異例の低支持率に喘ぐ 李 政権 が、政策転換を図る可能性は高い。
6月には、日本の北朝鮮による拉致被害者家族連絡会が、ソウルで開催される 「 韓国拉致被害者家族会主催の国際会議 」 に代表団を派遣する。
日本の家族会は、過日、李 政権 が日本人拉致問題の解決に向け積極的な関心を表明したことで、韓国との連帯に大きな期待を寄せているのだ。
ここで、李 政権 が “ 不人気対策 ” のため、対北政策を一変させてしまうと、日本政府による北朝鮮への経済制裁措置などの効果も薄れる。
本来は、同盟国である米国が、拉致問題の解決に至るまでは、支援を凍結させてくれるべきところなのだが、いまは韓国の協力に頼らざるを得ない。
拉致被害者家族の高齢化などを思うと、早期解決は悲願であり、せっかく良い方向へ向かい始めた風が、韓国の内政事情で変動するのは虚しい。
北朝鮮に対して 「 追い詰めると暴発する 」 と語る御仁もいるが、この意見には、「 北朝鮮に譲歩すべきだ 」 という政治的主張が隠されている。
彼らの国家予算は日本のおよそ二百分の一以下、経済規模を計るGDPは五百分の一以下で、島根県や福井県以下の経済力でしかない。
愉快犯的に ミサイル を撃つことは可能だが、日本やら韓国を敵に回して、戦争を仕掛けることなど不可能で、この状況では 「 暴発 」 しようがない。
拉致問題の解決が遅れている最大の障壁は、北朝鮮を 「 実像より大きく見せようとする人たち 」 の存在で、これは日本にも、韓国にも居る。
人口80万人の島根県より少ない国家予算で、その三十倍の人口を抱え、核開発、ミサイル開発をして貧困に喘ぐ国など、攻略は簡単なのである。
2008年05月23日(金) |
平均寿命世界一の日本人が 「 老人は死ねと言うのか! 」 と怒る摩訶不思議な現象について |
「 ある年齢になると、一部の人々の頭は似てくる。
知的な蓄えを食いつぶして生きるのだ 」
ウィリアム・ライアン・フェルプス ( アメリカ人教育者、作家 )
At a certain age some people's minds close up ; they live on their intellectual fat.
William Lyon Phelps
昨年の一時期は歯科に通ったが、まず滅多に病院へ行くことはない。
健康診断も専業のクリニックで受けるから、普通の病院には行かない。
病院に行かない最大の理由は、「 健康だから 」 ということになるのだが、実際には、数年に一度ぐらい、熱が出たりして、体調を崩すこともある。
そんなときも、市販の薬を買って飲むとか、普段より仕事を早めに切り上げて寝るとかすれば、およそ次の日には元気になっているものだ。
生前には、あまり親孝行もできなかったが、いまでは、丈夫な身体に産み、健全な精神に育ててくれた両親に感謝している。
学生の頃、怪我で入院したり、長く通院したことはあったが、病気と呼べる病気にはまるで縁が無く、それで仕事を休んだ経験もない。
さすがに40代後半ともなれば、あちこちに 「 ガタ 」 がきてる事実は否めないけれど、それも 「 病気 」 という類の代物ではないようだ。
薬局に行くぐらいなら、病院に行ったほうがよいと助言される方もいるが、病院に行かない “ もう一つの理由 ” は 「 待たされるのが嫌 」 なことだ。
10年ほど前の話だが、風邪をこじらせ、珍しく病院に行ってみたら、大勢の患者が列をなしており、その繁盛ぶりを見た途端、嫌になって帰った。
行列の大部分は、どんな病気なのか知らないが、見るからに 「 健康そう 」 な老人たちで、常連の顔見知りなのか、患者同士で世間話をしている。
苦しそうにグッタリした学生や、何度も時計を気にする若者たちを尻目に、血色の良さそうな老人連中の笑い声が、ずっと待合室に響いていた。
そこで私は、頻繁に病院へ来る人々と、そうでない人々の違いが、「 病状の深刻さ 」 ではなく、「 余暇の大小 」 であることに気付いたのである。
特に私のような 「 寝てれば治るタイプの患者 」 が病院に行かない理由は、概ね、多忙で 「 病院で待つ時間がもったいない 」 と感じているからだ。
それに対し、老人たちは 「 時間を持て余している 」 わけで、余暇を過ごす場所として、映画館や喫茶店よりも、病院のほうが安上がりになる。
もちろん、どこにも悪いところが無ければ、通院する理由もないわけだが、相応の年輩になれば、多少の不具合を探すと、誰にでも見当たるだろう。
古典的なジョークに、病院の待合室で 「 今日は○○さんが来てないけど、病気なのだろうか 」 という小咄もあるが、まさにそんなところだ。
病院は、「 病気を治す施設 」 であって、「 老人たちの憩いの場 」 ではないはずだが、老人にとって 「 タダ同然の治療費 」 が、定義を変えている。
お金と時間に余裕のある老人たちが、娯楽場の如く病院へ集い、多忙で、経済的にもゆとりの無い若者たちが、苦悶しながら列の後方で待つ。
暇な老人たちにとって病院は、日常の遊技場かもしれないが、忙しい若者たちが来る理由は、「 よほど深刻な事態 」 を抱えている可能性が高い。
民主党などの野党4党は、老人たちに不評な 『 後期高齢者医療制度 』 を廃止し、旧来の老人保健制度に戻す法案を参院に共同提出した。
病院と同じく、選挙も 「 暇な人ほど参加しやすい 」 性質を持つので、老人たちの喜ぶ政策を唱えることは、選挙戦を有利に運ぶ材料となる。
問題は、「 老人の負担を減らすことで、誰の負担を増やすのか? 」 という部分にあるのだが、それを明言する政治家は、彼らの中に存在しない。
テレビ、ラジオもまた、「 暇な人ほど視聴しやすい 」 ので、老人のご機嫌を損ねないように、あからさまな 「 人気取り 」 に奔走している。
街頭インタビューでは、『 後期高齢者医療制度 』 で負担が増え、愚痴りたくて仕方がない老人を探し出し、ここぞとばかりにマイクを向ける。
すると、待ってましたとばかりに 「 老人は死ねと言うのか! 」 なんて過激な発言が飛び出し、スタジオでは、それを眺める司会者が喜色満面である。
年功序列のため、必死で働いても給料の安い若者たちにマイクを向けて、優雅な老人の負担を減らし、「 若者が負担する 」 ことの感想は尋ねない。
悠々自適に過ごす老人の待遇を改善し、結婚、出産など出費の多い若者の負担を 「 さらに増やす 」 ことの問題点は、誰も伝えないのである。
シェラレオネ という国について、ご存知の方は少ないと思うが、この国は 「 平均寿命が 34.2歳 」 で、世界ワースト1位として知られている。
男女とも平均寿命 「 世界1位 」 である日本の老人が、少しばかり医療費が上がったからといって、「 老人は死ねと言うのか! 」 と喚くのはどうか。
むしろ、日本では若者が 「 若い奴は “ 喰い物にしろ ” と言うのか! 」 と叫ぶほうが、的を得ているように思う。
選挙の票集めを目的に、老人のご機嫌ばかり窺う体質が、後の世代への 「 大きなツケ 」 を遺していることに、少しは注目したほうがよい。
地球環境、資源エネルギー問題について、「 未来ある若者たちのために 」 なんてスローガンを語る前に、世の老人たちは、そこを反省すべきだろう。
2008年05月22日(木) |
乱発する 「 過労死 認定 」 と、その弊害 |
「 仕事とキャリアの違いは、週に40時間働くか、60時間働くかの
違いである 」
ロバート・フロスト ( アメリカの詩人 )
The difference between a job and a career is the difference between 40 and 60 hours a week.
Robert Frost
概ね、仕事というものは、短時間で優れた結果を出すことが理想である。
闇雲に長く働けばよいという考え方は、間違っているように思う。
ただ、現実問題として、「 短時間で優れた結果を出せる人 」 の大部分は、初期の社会人生活で、長時間労働に耐えた経験を持つ人が占めている。
プロ野球の試合で、終盤の短いイニングを力投する 「 抑えの切り札 」 が、観客の目に触れないところでは、長い練習を積んでいるのと同じだ。
どれだけ資質に恵まれていても、「 最初から一流 」 なんて人は滅多にいないわけで、特に若い時期は、半人前の仕事しかできないものである。
仕事の成果を計ると、「 能力 × 情熱 」 という数学的な計算式が成り立ち、「 能力 」 は 「 技術 」 に、「 情熱 」 は 「 時間 」 に、置き換えが可能だ。
つまり、技術や能力の水準が低かったり、未熟である場合、短い労働時間で人並み以上の成果を挙げることは困難だし、実力も蓄積され難い。
経験の乏しい若手社員には、「 いま何をすべきか 」 という判断力に欠けているため、上司や、先輩社員の判断を仰ぐ場面が多い。
その段階を脱し、適切な判断力を持つ 「 仕事をコントロールできる人間 」 になるまでには、どうしても 「 場数 」 を経験する必要がある。
もちろん、理解力の高い人物なら、少ない機会から多くを学ぶし、低い人は習熟し難いが、同じ資質なら労働時間の多いほうが、経験値は増大する。
生産性を落とさず、短時間で合理的に成果を得る術は、経験の豊富な人にこそ身に付く技で、未熟者が真似をしても、たいてい失敗するものだ。
たまに、若手社員で 「 職場の効率が悪いから、無駄な時間が多い 」 などと愚痴を吐く人もいるが、本当の無駄は、そこから学ばない無能さにある。
年間に計10回、183日間の海外出張をした後で、くも膜下出血で死亡した社員の妻が、松本労働基準監督署長を相手取り、労災を求めて訴訟した。
その控訴審で、東京高裁は22日、請求を棄却した1審の長野地裁判決を取り消し、男性の労災を認める判決を言い渡した。
裁判長は、「 残業や休日出勤は少なかったけれど、多数回の海外出張で疲労が蓄積し、病気を発症した 」 と述べている。
体力や、ストレスを処理する能力に個人差はあるだろうが、かなり多くの人が、年間200日を越える規模の出張機会を経験している。
この程度で 「 過労死 」 が認められるのなら、雇用する企業側は、おちおち出張にも行かせられないわけで、ずいぶん偏った判決のように思う。
ちなみに私の場合、年間に250日の出張をしたこともあるが、それにより体調を崩したとか、過酷だと感じたことは一度もなかった。
毎日、4時間前後しか睡眠が取れない中、会社に泊まりこんで徹夜したり、40日間、休みなしで働いたことも、若い頃には経験した。
最近は、さほど長時間に亘って働くこともないが、いざとなれば対応できるだろうし、その経験があるからこそ、作業を短縮する術が身に付いている。
なんだか、世間では 「 長時間勤務や過酷な作業の マイナス面 」 ばかりが取り上げられているようで、そういった経験がもたらす利点を語らない。
余暇を利用し、仕事以外の人生を楽しむのは良いことだが、一度も苦しい経験をせず、「 楽に儲けよう、出世しよう 」 としても、上手くはいかない。
企業の利益を優先するあまり、従業員の健康を害する過重労働を強いる職場もあるので、「 過労死 」 を認定する制度そのものには反対しない。
しかし、たとえそのような職場でも、従業員には 「 転職する 」 という自由な選択肢があるわけで、死に至るまで働いた事情については理解し難い。
ましてや、今回の認定理由のように 「 別に珍しくも、過酷な内容でもない 」 と思われる事例にまで司法が介入するのは、いかがなものか。
今後も、過労死を認定するハードルが低下し続けると、企業側は、体力の無さそうな者、神経の細そうな者に対する雇用を、見直す必要が生じる。
企業側に 「 従業員に対する責任 」 があるのは間違いないが、司法による行き過ぎた擁護は、将来的な雇用の減退、消極化の危険を伴うだろう。
2008年05月21日(水) |
一枚の写真から、中国で日本人賞賛の嵐 |
「 われわれは、人が自分のために行動してくれる以上に、
自分と一緒に感じてもらいたいのだ 」
ジョージ・エリオット ( イギリスの作家 )
We want people to feel with us more than to act for us.
George Eliot
自己愛の強い人は、自分のために周囲が行動することを求める。
あるいは、自分の不幸や苦労に対し、憐憫の涙や、同情を期待する。
しかしながら、そんな人に精一杯の奉仕をしたり、親身になって励ましたり、一緒に涙を流しても、あまり感謝されないか、すぐに忘れ去られる。
自分中心のスタンスでは、「 他人が自分のために、力を尽くすのは当然 」 という甘えた考えが根底にあり、協力的でない相手は 「 嫌な奴 」 なのだ。
世界には様々な人がいて、それぞれが個性的に、自分の意思に基づいて、幸せを追求しながら生きているという現実を、まるで理解しようとしない。
子供の頃から、過保護に育てられたり、世間知らず的な 「 偏った教育 」 を施された人物に、そういう タイプ が多いのは周知の事実だ。
そんな タイプ でも、唯一、本気で感謝する機会が生じるとすれば、それは、言葉や行動ではなく、他人の 「 真心 」 が伝わる瞬間にあるだろう。
中国大地震の救援活動を展開した日本緊急援助隊が、母子二人の遺体を発見し、黙祷を捧げる写真が、現地の新聞で大きく取り上げられた。
政治的な思惑、現場での軋轢もあって、彼らは、期待されていた生存者の救出を為し得なかったが、この写真に、多くの中国人が感動したという。
どの隊員にも、目立った憐れみの表情や、涙はないが、母子の生命を救えなかった 「 悔しさ 」 や、真摯な追悼の念が滲み出ているようだ。
いかなる英雄的な行動や、奇跡的な成果や、慈しみの言葉よりも、外国人が同じ思いを 「 感じてくれた 」 ことこそが、その真心を雄弁に伝えている。
無念な面持ちで帰国した彼らを、賞賛の声を上げて成田で出迎えたのは、普段なら反日的発言をすることの多い、中国人留学生たちであった。
中国の 「 ブログ事情 」 も、この写真に関する好意的なコメントが殺到したことによって、その様子が激変しているという。
もともと中国のブログ界は、日本、あるいは日本人に対し、批判的な意見が日常的に多く溢れ、いわば 「 反日の温床 」 と呼ばれる性質を持っていた。
今回の救援活動に対しても、当初は、「 政治的パフォーマンスに過ぎない 」 と嘲笑したり、さほど好意的な書き込みは少なかったらしい。
ところが、中国側の当局者が遺体を乱暴に扱うのに対し、母子の遺体に深々と黙祷する日本援助隊を見てから、彼らの態度は一変する。
今回の大地震で亡くなった多くの方々の中で、「 この母子ほど敬意を払われた者はいない 」 という事実を、誰もが認めざるを得なかったのである。
それは、日本人の持つ 「 死者に対する畏敬の念 」 や、職業的倫理観から派生する厳格さ、真面目さにも、大きく影響されているだろう。
私も仕事で、毎日のように中国と交信しているが、「 尊敬 」 や 「 感謝 」 というよりも、「 共感 」 や 「 親しみ 」 が深まったという声が多いようだ。
少し不安に思うのは、中国政府が、過去に偏った “ 反日教育 ” を施して、公正で客観的な情報を人民に与えていなかった事実が露呈する問題だ。
過去に中国政府は、「 内政への不満を “ 反日 ” に向けさせて誤魔化す 」 という常套手段を用いてきたが、このままでは「 嘘 」 がばれてしまう。
内政、外交の両面からみて、対日感情は 「 良すぎても、悪すぎても困る 」 のが中国政府の本音で、今後、何らかの工作が企てられる危険を感じる。
2008年05月20日(火) |
竹島問題 : 知識と現状のギャップ |
「 本当に危険なのは、何もしないことだ 」
デニス・ウェイトリー ( アメリカのビジネス・コンサルタント )
The real risk is doing nothing.
Denis Waitley
アメリカで彼の講演を実際に聴いたが、とても刺激的な内容だった。
スポーツに造詣が深い点も、彼に好感を持った理由の一つである。
現在、ビジネス・コンサルタント、カウンセラーとして、世界の最高峰に立つ彼は、常に 「 ビジネスとプライベートで成功する重要性 」 を説いている。
21世紀は、家庭や私生活を犠牲にして、仕事に没頭する 「 古いタイプ 」 が通用せず、より人生を楽しむことこそが、成功の必須条件だという。
そのためには、学問だけが優秀でも駄目だし、心身ともに健康で、趣味やスポーツを通じて幅広く交友を深める 「 対人能力 」 が求められる。
また、学問についても、ただ 「 多くを知っている 」 ことに意味はなく、その知識を有効的に活用してこそ、そこに価値が生まれるという考えだ。
偏差値の高い大学を出て、マトモ に社会へ適応できない 「 教養バカ 」 がいる一方、学歴は地味でも 「 考える力 」 を発揮して、成功する人もいる。
文部科学省では、中学校の新学習指導要領 ( 2012年度完全実施 ) の解説書に、「 竹島は、我が国の固有の領土 」 と明記する方針を固めた。
竹島の記述は、中山成彬文科相 ( 2005年当時 ) が 『 指導要領に明記すべきだ 』 と国会で答弁し、その後、文科省が検討を重ねていた。
ところが、新指導要領案の公表時期が、韓国の 李 明博 ( イミョンバク ) 大統領の就任時期と重なったこともあり、記述が見送られていたという。
共に領有権を主張して譲らぬ 「 韓国の反撥 」 が大きくなることは明白で、今後、この記述を巡って、新たな反日運動の火種になる可能性もある。
それでも ( 日韓関係への配慮を鑑みても )、子供たちに 「 竹島は日本の領土だ 」 という事実を教える必要があると、文科省は判断したようだ。
領土に関する知識として、教科書に記載することは反対しないが、問題は、「 固有の領土が侵犯されているのに、何もしない 」 という矛盾点にある。
戦後の日本人を臆病者の腑抜けにした 『 日本国憲法 』 でさえ、「 自国の領土が侵犯されたら迎撃する権利 」 は認められている。
文科省のいう 「 我が国の固有の領土 」 が他国に侵犯されて、占拠されているのに、なぜ、政府は黙って眺めているのか、どうやって説明するのだ。
けして 「 竹島を武力攻撃して奪取することが正しい 」 と言っているのではなく、「 何もしないで領有権を主張する資格はない 」 という論旨である。
つまり、日韓関係の悪化や、戦争の勃発を恐れて 「 何もしない 」 のなら、いまさら教科書に竹島問題の記述を加えたところで、何の意味もない。
私は日本人で、どちらかというと右翼的な思想の持ち主であるが、あえて 「 竹島は韓国の領土である 」 と考えるのが、現状では妥当と思っている。
おそらく多くの人は、その意見に対し 「 間違ってますよ 」 と反論されるだろうし、その根拠が “ 歴史的事実 ” にあることを、もちろん私も知っている。
だが、領有権を巡る争いで重要なことは、歴史的事実や、諸々の知識よりも、「 その土地を命がけで守ってきたか 」 という国家の姿勢にある。
合法的でなくとも、命がけで死守してきた韓国と、教科書に 「 ホントは俺の土地なのに、韓国の奴らが … 」 と嘆くだけの日本では、勝負にならない。
教科書に 「 我が国の固有の領土 」 と記述したいのなら、たとえ力づくでも奪還してから実行すべきで、空虚な 「 知識 」 を語っても無駄である。
「 健康とは、ただ単に、できるだけゆっくりと死に近づくこと 」
ベンジャミン・フランクリン ( アメリカの政治家、著述家、物理学者 )
Good health is merely the slowest possible rate at which one can die.
Benjamin Franklin
どれだけ裕福で、健康に恵まれても、人は皆、いつか死ぬ運命にある。
だからこそ、「 限られた時間 」 を有効に使うことが、賢い選択だといえる。
硫化水素による自殺が流行ったことで、マスコミの 「 自殺報道 」 に対し、追随する輩を増やすことになるのではないかと、批判の声が多い。
たしかに、「 ( ネット上に ) 製造方法が書かれているよ 」 とか、不必要だと思える情報まで広く知らしめたのは、いささか報道姿勢として疑問を感じる。
日本では年間3万人以上が自殺するけれど、基本的にマスコミ各社では、わざわざ自殺ぐらいで紙面を割いたり、話題として取り上げたりしない。
ただ、ここまで社会問題化してしまうと、善意の第三者を 「 巻き添え 」 から救うための警鐘を鳴らす必要があるし、放置できないのが実情である。
国民の利益を鑑み、こと細かく記述することが必要な場面と、それが逆に、悪意で利用されてしまう危険とを判断し、選別する能力が求められている。
日本には昔から 「 キチガイ に 刃物 」 といって、正しく使用すれば価値のある道具でも、異常者の手に渡ると凶器になる喩えがある。
硫化水素で自殺する輩が増えたからといって、原料となる薬品が悪いわけではなく、あえて危険な使い方をする連中が悪いのは明白だろう。
仮に包丁で首を斬る自殺方法が流行っても、包丁という便利な調理器具を廃止することはできないのと同じで、道具そのものには何の罪もない。
報道各社は、硫化水素がどうのこうのよりも、自殺するという行為そのものに対して、愚かなこと、恥ずべきことという認識を、もっと伝えるべきだ。
森の石松は、「 馬鹿は死ななきゃ治らない 」 と言ったそうだが、実際には、「 馬鹿は死んでも馬鹿のまま 」 なので、死ぬことに意味など無い。
あるいは、どうせ 「 危険な使い方 」、「 死に方 」 を告知するのなら、もっと徹底的に伝えたほうがよいかもしれない。
商品に記載される 「 デメリット表示 ( たとえば “ ○○と混ぜるのは危険 ” など ) 」 も、さらに詳細な情報を加える方法が考えられる。
従来の 「 混ぜると危険 」 ではなく、「 混ぜると硫化水素ガスが発生して、長時間、苦しんだ挙句に死ぬか、脳に後遺症が出ます 」 という具合だ。
テレビのニュースも、単に 「 硫化水素で自殺した奴がいるよ 」 ではなくて、緑色に変色し、悶え苦しんだ様子の死体まで映せば、追随する輩は減る。
死にきれず、脳に重い後遺症を残しつつ、世間に迷惑をかけた代償として 「 慰謝料 」 や 「 損害賠償 」 のために奔走する輩を映すのも、効果的だ。
2008年05月16日(金) |
今週のクダラナイ事件 |
「 来週は、何も危機が起こらないよ。
私のスケジュールがもう、ぎっしりだ 」
ヘンリー・A・キッシンジャー ( アメリカの国務長官 )
Next week there can't be any crisis. My schedule is already full.
Henry A. Kissinger
サイクロンだ、大地震だと、最近は大きなニュースが相次いで発生した。
ブログを書く人たちも、当然、歴史的大惨事に話題が集中する。
隣国が 「 えらいこっちゃ 」 の大騒ぎになっている中、日本では相変わらずの姑息な政権争いや、クダラナイ事件、ツマラナイ犯罪が起きている。
週末、泊りにきた彼女が食事の後片付けをした後、長風呂に浸かっている時間を利用し、今夜は “ 今週のクダラナイ事件 ” を振り返ってみたい。
まず最初は、青森市の男性会社員 ( 47 ) が自動車運転過失致死容疑、助手席にいた20代の女性が重過失致死容疑で逮捕された事件だ。
2人は昨年12月、自動車の運転中に 「 チョコレートを口移し 」 しようとして前方不注意となり、前を歩いていた男性をはねて死亡させたという。
あり得ない話でもないが、それが事実なら 「 チョコレートを口移し 」 しようとしたなんて自供を、目撃者もいないのに、普通、するだろうか。
もし、そのような事故を自分が起こした場合、多少なりとも減刑を嘆願する気があるなら、もう少し酌量の余地があるような言い訳を考えるはずだ。
脇見をしていたとか、二人で口論になり視線を外したとか、もっと裁判官の心象を悪くしない程度の言い訳が、いくらでも他にあるだろう。
また、ベテランの運転手であれば 「 チョコレートを口移し 」 するぐらいは、さほど運転の妨げにもならないはずで、通行人を轢くのは不自然だ。
それに、単なる脇見事故なら運転手だけの責任だが、そのような言い訳をすることによって、同乗した女性にまで罪が問われるではないか。
あくまでも邪推に過ぎないが、そんな “ 原因 ” を彼らが供述した理由は、実際には 「 もっとスゴイこと 」 をしていたからではないだろうか。
私自身の正直な経験から言うと、飲酒運転、居眠り運転はしないけれど、女性とのドライブでは、少々、“ 無謀な チャレンジ ” をしたことがある。
こちらは運転する立場なので、能動的には動かないが、長時間のドライブに飽きてきた女性から、色々と 「 ちょっかい 」 を出されることは多い。
もちろん、そこで 「 駄目だよ、大人しくしていなさい 」 と諭すべきなのだが、若気の至りというか、なかなか、そう立派には振舞えなかった。
そんな経験は誰にでもあると思うが、そこで事故を起こすかどうかの差は、資質 ( 運転の熟練度 + 平常心の保持力 ) の違いかもしれない。
たまたま私は無事故で通したが、運転中に ○○○ を ×× で △△△ するのは 「 実に危険 」 なので、良い子の皆様は真似をなさらないように。
他にも、ローカルニュースを眺めていると、なんとも “ クダラナイ事件 ” が目白押しで、当事者は深刻なんだろうけど、笑っちゃう内容のものが多い。
もう一つ、二つ紹介したいところだが、バスルーム から微かに ドライヤー の音が聞こえてきたので、そろそろ画面を閉じなければならないようだ。
いつまでも ダラダラ と、過去に交際した女性との “ エロ・エピソード ” など書き綴る様子を発見されると、こちらが 「 事件の主役 」 になりかねない。
女性は 「 母になると強い 」 と言うが、頻繁に部屋へ泊りに来るだけでも 「 かなり強い状態 」 と化し、気の弱い私は “ ビビリっぱなし ” である。
まぁ、楽しいのも事実だが、ウルトラマン のように、用が済めば M78星雲 にでも帰ってくれると、さらに 「 好き 」 になるが、そう都合よくはいかない。
2008年05月15日(木) |
中国大地震にみる人民気質 |
「 意見は最終的に感情で決定され、知性によってされない 」
ハーバート・スペンサー ( イギリスの哲学者、社会学者、倫理学者 )
Opinion is ultimately determined by the feelings, and not by the intellect.
Herbert Spencer
追い詰められた時こそ、人間の本性が出やすいものだ。
言い換えれば、その人間の 「 真価 」 が試される時でもある。
中国で発生した大地震は、諸々の悪条件が重なったこともあって、救出が遅々として進まず、想定される死者数が 5万人、10万人とも言われる。
地震発生の直後、海外からの好意的な人的支援を受け入れられなかった理由が 「 道路状況の悪さ 」 であったことは、けして嘘ではない。
かつて日本でも、阪神大震災の直後に海外からの人的支援を断ったことがあるし、ことわざの “ 船頭多くして船山に登る ” という現象も考えられる。
ただ、日本と違う点は、大規模な災害救助の ノウハウ や 機材、緊急時を想定した マニュアル や 訓練が、整備されていないところにある。
だから、一人でも多く救助するためには、面子や配慮を捨て、海外からの支援を積極的に受け入れるべきなのだが、そう簡単な問題ではない。
今年の2月頃だったと思うが、普段は雪など降らない温暖地域を含めて、中国では広範囲に未曾有の大雪が降り、パニック に陥ったことがある。
私も中国と貿易をしているが、積雪による通行止めや、航空機の離発着が遅れたことで、積荷の到着が滞り、ずいぶんと困ったものだ。
そのときも、今回の大地震ほどではないが多数の犠牲者を出し、相当な数の家屋が倒壊したけれど、外は大雪なだけに、それは死活問題だった。
一部の中国人民には、そのとき 「 政府が手を差し伸べてくれなかった 」 という怒りが残っており、今でも “ わだかまり ” になっているという。
今回の地震によって、災害予防や救助施策などの 「 政府への不満 」 は ピーク に達し、当局には、なるべく外国人を招きたくない実情もある。
悲惨さは、中国政府の対応だけでなく、人民の 「 集団的アイデンティティ 」 が崩壊し、いまや人心が バラバラ になっている面にも見られる。
阪神大震災では、被災者が救助に協力したり、不足した食料を分け合ったりしたが、中国では救援物資を巡って、その奪い合いが激しいという。
いまの中国は、被災者を装った 「 振り込め詐欺 」 が横行したり、略奪や、暴行などの犯罪行為が後を絶たず、まるで収拾がつかない状況にある。
悪の象徴とされた関西の暴力団でさえ、阪神大震災のときには、近隣住民に食糧を配ったりしていたことを思えば、その違いは格段に大きい。
政府に頼らずとも、被災者が 「 自分たちで出来ること 」 はあるはずだが、個々の エゴイズム が表出し、まったく機能しない状況にあるのだ。
住民同士の助け合いにしても、政府筋の支援策にしても、中国と日本では、どちらが 「 社会主義国家 」 なのか、わからないのが実態だ。
極端な個人主義気質を持つ人民に、無理やり社会主義思想を押し付けた反動は、いづれ大きな ムーブメント となって、中国を動かすだろう。
それは避けられないことでもあるが、急速な革新は 「 天安門事件 」 のように血をみる結果になるので、中国政府は、それを恐れている。
諸外国からの同情と憐憫は集めたが、これで五輪の開催も “ お祭り騒ぎ ” には出来なくなり、首脳陣も頭の痛いところだろう。
緩やかな ソフトランディング による民主化の実現には、さらなる GDP額 の成長や、人民による政府への信頼が肝要で、ここは正念場になる。
「 準備をしておけば、恐れることはない 」
英語のことわざ
If you are prepared, you don't have to worry.
English proverb
日本の 「 備えあれば憂いなし 」 と、ほぼ同じ意味で使われる。
用意することは防止すること ( Providing is preventing ) という表現もある。
中国の四川省で大地震が発生し、既に1万2千人以上の死亡が確認され、瓦礫の下などに生き埋めとなっている数も、1万人以上と発表されている。
先日、ミャンマー で発生したサイクロンに続き、アジア では大規模災害が相次いでおり、なんとも心配なところだ。
被災地には、人民解放軍や武装警察など、約5万人が投入されているが、道路が寸断されているため、一部の部隊は徒歩で移動しているという。
中国当局によると、各国からの支援も、交通状態が悪く、受け入れ態勢が整わないため、現時点では支援金と物資の受け入れに限定されている。
形式的な外交手段よりも、こういう場面での人道支援こそ “ 日中友好 ” の足がかりとなる機会であるから、政府も惜しみない支援を心がけるべきだ。
年に何度か中国への出張をしているため、昨日から今日にかけて携帯に 「 無事か 」 という内容の着信が多かった。
仮に、出張していたとしても、上海の周辺が多いため、地震による直接的な被害は免れただろうと思う。
一応、中国の事務所へ電話で安否の確認をしたが、予想通り、全従業員の無事が確認されたので、一安心というところである。
日本語力の堪能なスタッフによると、私の事務所がある地域は 「 福地 」 といって、昔から天災の少ない土地柄なので、心配は無用だという。
ただ、もしも大規模な災害に見舞われたら、日本のような防災対策が敷かれていないので、「 地震がきたら死ぬだけ 」 だと、笑って話していた。
けして笑い事ではないと思うのだけれど、日本のように、行政の怠慢を自由に糾弾したり、政府に物申すことができないため、そうするしかないのだ。
自分の住む地域が危険だと思えば、場所を移動するなり、個人的な努力で被害を防ぐしか方法はなく、国家に陳情しても埒があかない。
楽天的というよりも、「 騒いだって仕方がないさ 」 という諦めムードが強く、愛国心は深いけれど、政府に対する防災面での信頼は、極めて低い。
彼らから見た日本は、防災に関する意識水準が高く、国単位、地域単位の防災対策が、日頃から十分に練られ、幅広く浸透している印象が強い。
日本に住んでいると、そのような 「 恩恵 」 を忘れがちだが、安全な避難所の確保や、耐震基準が無い被災地の家屋を見ると、それを実感する。
同じ震度でも、建物の耐震構造が強く、安全な避難場所の確保さえされていれば、犠牲となる死傷者の数を、格段に減らせたことは間違いない。
日本人の長所は、天災など 「 マイナスの経験 」 から多くを学び、同じ失敗や悲劇を繰り返さないところにあると思う。
戦後、長らく平和を保ってこれた理由も、憲法や、安保条約の成果以上に、この 「 挫折から立ち直り、失敗から学ぶ 」 という民族的特長にある。
経済水準の違いもあるが、おそらく中国の被災地では、災害復旧後も同じ安全レベルの家屋を建て、避難所の設置も十分に行われないだろう。
普段は怠りがちな 「 備えあれば憂いなし 」 の心がけが、いざとなれば役に立つわけで、災害の経験から、それを知ることが肝要である。
2008年05月12日(月) |
キムタク、生きテク、松本 人志 について |
「 死に方ではなく、生き方が問題である 」
サミュエル・ジョンソン ( イギリスの辞書編纂者、詩人 )
It matters not how a man dies, but how he lives.
Sarmuel Johnson
フジテレビ系列で新番組 『 CHANGE 』 の放送が開始された。
主演は キムタク ( 木村 拓也 ) で、今回も高視聴率が期待されている。
あまりTVドラマは観ないのだが、その理由は、番組の放映時間を気にして自分のスケジュールを組むのが面倒なだけで、興味がないわけではない。
かといって、録画したり、レンタルするのも面倒なので、面白そうな作品や、人に勧められた作品は、放映終了後に DVD を買って観ている。
すると、いつのまにか溜まってしまうので、二度と観ないだろう作品などは、友人が訪ねてきたりするときに、持ち帰ってもらうことにしている。
その結果、我が家には 「 忘れた頃に、もう一度観よう 」 と思う作品だけが滞留するわけだけれど、その多くが、キムタク の主演作品なのだ。
彼の演じる役柄は、パイロット だったり、検事だったり、レーサー だったり、ホッケー選手だったりするが、どれも同じような特徴を漂わせている。
その特徴とは、いづれも 「 実際に、その職業で、こんな奴はいない 」 というものだが、かといって、現実離れした違和感に辟易することもない。
いわゆる 「 ワンパターン 」 かもしれないが、どの役柄でも 「 彼らしさ 」 を演じ、「 この職業に、こんな奴がいてもいいな 」 と思わせる魅力がある。
たまたま時間が合ったので、今夜は第一回の放映を観たが、政治家という難しい役柄に挑戦しているせいか、従来よりは迫力に欠ける気もした。
あるいは、『 CHANGE 』 という題名通り、わざと最初は “ ぎこちなさ ” を演じておいて、徐々に “ らしさ ” を出していく戦法なのかもしれない。
いづれにせよ、物語の全貌を私が観るのは、しばらくして DVD が出た後になるだろうから、買うか、買わないか、評判を教えていただくと幸いである。
ネットの世界では、キムタク よりも 『 生きテク 』 というサイトが話題になっているらしく、私も、検索して覗いてみた。
これは、過去に自殺を思い止まった人々の体験談を集めたもので、一種の自殺防止サイトだが、「 生きるためのテクニック 」 が寄せられている。
主催者は、重度の 「 うつ病 」 を克服した方で、杉並区がバックアップしているようなので、ご当地の方なのかもしれない。
昔から十人十色というが、健常者に悪人も善人もいるのと同じで、一口に 「 うつ病患者 」 といっても、良い患者がいれば、悪い患者もいる。
公共の電波を通し、愚痴ばかりこぼして マイナス・オーラ だけを垂れ流す御仁もいれば、ご自分の体験を糧にして、世間に役立てる人もいるのだ。
自殺といえば、吉本興業 の 松本 人志 が、硫化水素ガスを用いた自殺者に、「 そんなアホが死んだら、俺はええけど 」 と “ 問題発言 ” をした。
この発言での 「 どこが問題か 」 は、人によって解釈が違うと思うけれど、私は、死にたい人が 「 死んでよい 」 という部分に、強い抵抗を感じる。
すべての生物にとって 「 進化 」 とは、本来 「 生きるための知恵 」 であるから、自殺者を 「 アホ 」 と呼ぶこと自体に問題はないと思う。
ただし、「 死にたいと思う 」 ことと、「 実際に自殺を試みる 」 ことの間には大きな差があるわけで、前者を 「 アホ 」 だとは思わない。
自殺したいほど辛い経験をした者に対しては、『 生きテク 』 のように活路を与えるべきで、「 死んでもいい 」 と暴言を吐くのは、死への誘引にあたる。
実際、大部分の人が、一度や二度は 「 死にたい 」 と思うほどの挫折感を味わいながら、それでも死なずに、頑張って生きているのが現実だ。
だから、ときには 「 死にたい 」 と思うのも無理はない話だが、ほとんどの人間は、勇気と理性をもって、生命の尊厳を保っている。
自殺した者の9割には何らかの精神疾患があり、これを止めることは困難だが、それ以外は、「 手を差し伸べれば止まる可能性が高い 」 のだ。
どれほど日本が自殺大国で、年間3万人以上の自殺者がいるといっても、「 一億人以上の国民が、自殺をしていない 」 ことこそ重要なのである。
これ以上、自殺者を増やさないため、自殺した者を、アホとか、犯罪者扱いすることは大いに賛成だが、悩んでいる人には、光を当てるべきだと思う。
2008年05月11日(日) |
飛び込み自殺という大罪 |
「 時間の無駄遣いは、一種の自殺行為である 」
ジョージ・サヴィル ( イギリスの政治家 )
Misspending a man's time is a kind of self-homicide.
George Savile
東海道新幹線の、一列車あたり平均遅延時間は 「 一分以下 」 だ。
高速・長距離を運行する列車としては、世界に類をみない正確さである。
2005年4月25日に発生した 「 JR福知山線脱線事故 」 は、乗客106名と、運転士1名の生命を奪う大惨事となり、現在も後遺症に苦しむ人がいる。
事故の凄惨さはもとより、このニュースが世界中で大きく扱われた理由は、その原因が 「 約90秒の遅れに対する、運転士の焦り 」 だったことだ。
事故調査委員会は、「 運転士が無線の会話に気を取られ、ブレーキ操作が遅れて70km/h制限のカーブに116km/hで進入した為 」 と発表している。
その後、「 運転士のヒューマンエラーに限定するのはおかしい 」 など、JRの企業体質を問う声も出たが、原因が “ 遅延 ” だったのは間違いない。
わずか1分の遅延も許さない鉄道会社と、時間通りの運行を求める乗客のせっかちぶりは、世界中から大いに驚かれ、また、呆れられたのである。
大部分の日本人は、他人との待ち合わせや、約束の時間をきちんと守り、多少の個人差はあっても、それぞれが遅れないように努力している。
時間が守れない人間は 「 だらしがない 」 とみなされ、特にビジネスの世界では、人物評価の面で、それが致命的な欠陥となりかねない。
だから日本人は、常に約束の時間から、移動時間や身支度の時間を逆算することを忘れないし、目覚まし時計や、携帯のアラームは必需品である。
実際、約束の時間に遅れることは、その分だけ 「 他人の時間を奪う 」 ことに等しく、待たせた相手に何らかの “ 損害 ” を発生させてしまう。
相手が一人ならまだしも、三人の場合なら三倍、十人ならば十倍の損害を発生させているわけで、待たせた人数が多い分だけ、損害は拡大する。
最近は車での移動が多いけれど、酒席が予定されている日などは、当然、電車かタクシーを利用することになる。
先週も、二日連続で宴席が予定されており、JRの環状線を利用することにしたのだが、二日連続で “ 人身事故のため ” 運行が遅れていた。
彼らのアナウンスする “ 人身事故 ” とは、たいてい 「 飛び込み自殺 」 を指しており、東京、大阪などの都心では、連日のように人が身を投げる。
前述した日本人の 「 時間厳守主義 」 を支えているのは、公共交通機関のダイヤグラムだが、飛び込み自殺がある度、それは大きく狂わされる。
電車の運行が止まると、場合によっては 「 数十万人 」 の時間が奪われるわけで、その社会的、経済的損失は、計り知れない額にまで及ぶ。
遅れた電車を待つ間、ホームでは人々の喧騒が渦巻き、駅員に詰め寄る者や、口々に愚痴をこぼす者、誰かに携帯で連絡する者の姿がある。
よく考えると先週は 「 GWの連休明け 」 にあたり、そういうときは、えてして自殺する人間が増える時期でもあるから、遅延の覚悟が必要だった。
会社や学校に行きたくないなら、家で引きこもっていてくれたほうが、他人に迷惑が及びにくいのだけれど、自殺する側に、そのような配慮は無い。
そのとき、近くにいた若いサラリーマンが、同僚らしき連れに対し、なかなか面白い意見 ( というか愚痴 ) を言っている声が耳に入った。
彼の意見とは、「 自殺する人間は、どうやっても撲滅できないわけだから、それで電車を停める “ JR のほうが悪い ” 」 というものである。
つまり、「 飛び込み自殺があること 」 と 「 それで電車を停めること 」 は、常識的にイコールと考えがちだが、そこに問題があるのだと言う。
たとえ線路に飛び込む人間がいても、大多数の善良なる利用者に迷惑が及ばないように、停車も、減速も、しなければよいという意見だ。
当然、轢死体を引き摺って走るわけにはいかないので、先頭車両の頭部に 「 網 」 か 「 ショベル 」 のようなモノを付けて救う方法があると言う。
あるいは、そんな方法で救出できなかったとしても、線路の側溝などに人間が納まるぐらいのスペースを設け、そこへ押しやる仕組みも考えられる。
とにかく、日常的に 「 飛び込み自殺を企てる輩 」 がいることを知りながら、ダイヤを乱して停めるしか策がないというのは、鉄道会社の怠慢だと言う。
電車の運行を最優先して、轢死体を側溝に放置するなどという対処法に、人権活動家の皆さんが同意なさるとは思えず、実現は不可能だろう。
しかしながら、では 「 何十年先までずっと、このままで良いのか 」 というと、それはまた、間違った考えのようにも思う。
飛び込み自殺は 「 事故 」 ではなく、実行することで多大な迷惑や被害が及ぶことを知りながら、意図的に計画された行為である。
人間の一生には必ず終わりがあり、誰かが自殺をするために、第三者の貴重な時間の一部を奪うことは、よく考えてみれば罪深いことだ。
なかには、「 そんなに焦らず、のんびり行こうよ 」 という人もいるだろうが、日本流の効率的な生産性、信頼性は、時間厳守の基に成立している。
2008年05月08日(木) |
硫化水素で死ぬ前に、これを読め |
「 計画を怠ると、失敗を招く 」
エフィー・ジョーンズ ( アメリカの教育者 )
Failing to plan is a plan to fail.
Effie Jones
十分な予備知識が無いのに、勢いで仕事をすると失敗しやすい。
世間の噂に翻弄される人などが、そういうタイプに多く見られる。
警察庁はこのほど、「 硫化水素 」 の製造や利用を誘引するようなネット上の書き込みを 「 有害情報 」 に指定し、一部、削除を要請することにした。
硫化水素による自殺は、第三者の健康を害す恐れがあり、傷害罪を誘因する情報だと判断したことが、その理由らしい。
そもそも 「 自殺 」 に 「 成功 」 も 「 失敗 」 も無いわけで、「 良い自殺 」 も 「 悪い自殺 」 も無く、自殺など、しないほうが正しいに決まっている。
わざわざ “ 死に方 ” を教える人間も馬鹿だが、それに従って、自分の命を粗末に捨てるのは、愚の骨頂としか言いようがない。
硫化水素に限らず、自殺の方法を指南した者と、自殺未遂を図った者を、すべて 「 犯罪者 」 として処罰し、生命の尊さを知らしめるべきである。
警察庁が、特に、硫化水素による自殺の拡大を阻止しようとする理由は、それが 「 第三者の健康を害し、命を失う恐れが極めて高い 」 からだ。
硫化水素は空気を 1 としたときに比重が 1.19 と重く、マンションなどの場合、配管などを伝わって階下へ伝わり、巻き添えが発生しやすい。
助けようと入った救急隊や警察官なども危険に晒されるし、濃度が下がるまでの間、しばらく近隣の住民は退去しなければならず、大迷惑である。
日本人は 「 判官びいき 」 の性向が強く、自殺を図る ヘタレ には寛容だが、他人を巻き添えにして殺すことも容赦するほど、けして甘くはない。
首吊り、列車への飛び込み、ガス中毒、いづれも、周囲の人間にとっては大迷惑だが、特に硫化水素の場合は、被害の拡大する懸念が大きい。
ちなみに、どうして 「 硫化水素による自殺が大流行 」 になったかというと、「 簡単に製造できて、キレイに、楽に死ねる 」 という噂によるものだ。
たしかに、サリンなどの有毒ガスを作るより簡単だが、「 キレイに死ねる 」、「 楽に死ねる 」 は、どう考えても “ 誤り ” のようである。
毒性は強いのだが、市販の洗剤を混ぜて発生する程度のガスで、首尾よく短時間で 「 即死するほど高濃度のガス 」 が発生するとは考えられない。
長時間に亘って悶え苦しみ、万が一、死に切れなかった場合、呼吸器系が損傷し酸素が脳にいかないため、脳に重い後遺症を残すことになる。
また、法医学の専門家によると、硫化水素で死んだ遺体は緑色に変色し、溺死体のような 「 見るに耐えない姿 」 になることが報告されている。
つまり、素人でも簡単に製造できるのは事実だが、「 キレイに死ねる 」、「 楽に死ねる 」 というのは、“ まったくの デマ ” なのである。
おそらくは、偽の情報をネットで流布し、自殺をする人間を苦しめてやろうとした者たちの 「 悪趣味な悪戯 」 であろう。
ちなみに、他の死に方が 「 キレイ 」 か 「 楽 」 かといえば、死んだ経験がないので判断し難いが、どれも “ ぞっとしない ” ようだ。
死亡すると括約筋が弛緩し、大小便を垂れ流した状態になり、死後硬直を経た後、腐敗ガスが体内に充満して、顔も身体もパンパンに膨張する。
死に瀕した病人と違って、自殺の場合、健康な肉体の細胞は 「 生きよう 」 と反撥するわけで、どうやっても、「 楽に 」、「 キレイに 」 は死ねない。
2008年05月07日(水) |
今度こそ終わり : 船場吉兆 |
「 都合のいいことと正しいことは、めったに一致しない 」
チャールズ・ブロワー ( アメリカの冒険家 )
The expedient thing and the right thing are seldom the same thing.
Charles Brower
概ね、倹約家は、「 チリも積もれば山になる 」 という表現を好む。
物を使い捨てず、大事にする姿勢は、リサイクル時代の思想にも適う。
大阪の高級料亭 「 船場吉兆 」 本店 が、客の食べ残した料理を別の客に回していた問題に続き、博多店 でも同様の不正が発覚した。
釈明会見で女将は、「 先代の社長は “ もったいない ” を口癖にしており、その影響からか、使い回しをするようになった 」 と重苦しく語った。
この釈明を聞いて、「 なるほど、エコロジーだね 」 とか、「 捨てちゃうのは、もったいないよね 」 と共感した人は、ほとんどいないだろう。
下手な言い訳をするぐらいなら、黙っていたほうが マシ という典型的な例だが、それにしても、この答弁は常軌を逸している。
リサイクル時代の風潮を逆手に取り、「 情状酌量 」 を願い出たつもりかもしれないが、商道徳に反する戯言は、かえって彼らの悪質さを露呈させた。
アパレルの仕事をしていた頃、異業種である食品や、医薬品の業界に従事する人たちから、羨ましがられた 「 業種特性 」 がある。
それは、食品や、医薬品と違って、「 売り場から返品された商品を、簡単に再販できること 」 であり、たしかに、言われてみればその通りであった。
商品が劣化しないかぎり、アパレルには消費期限やら賞味期限がないし、仮に少し傷んでいたとしても、値引きして販売することが可能だ。
いくら安くしたところで、客が開封した食品や、期限切れの医薬品を、再び売り場で販売することなど、許されるはずがない。
食品、医薬品など、返品再納品ができない商品群は、そのため “ ロス率 ” が高いことは常識で、コスト構造にも、その認識が含まれている。
ましてや吉兆の場合、返品、キャンセルの類ではなく、「 食べ残し 」 を販売したのだから、一つの商品を複数の客に 「 二度売り 」 したのである。
不衛生なうえに、明らかな不正であるし、前の客の食べ残しを食べさせられたと自分が知れば、このうえなく不快なはずだ。
しかも、吉兆が販売していたのは、低価格の牛丼やハンバーガーではなく、数万円以上の懐石料理であり、この点が特に許しがたい。
昨今、さまざまな企業が食品偽装問題で摘発を受けたけれど、いづれも、熾烈なコスト競争が招いた不祥事であり、吉兆とは本質的に異なる。
事業の再開後、支援していた贔屓筋も、今度こそは愛想が尽きた様子で、いまや 「 大阪商人の恥 」 となった吉兆は、もう終わりである。
「 柔らかい物腰で話し、大きな棍棒を持ち歩け 」
セオドア・ルーズベルト ( 第26代アメリカ合衆国大統領 )
Speak softly and carry a big stick.
Theodore Roosevelt, Jr.
彼は、この言葉通り、紳士面と軍事力を背景に、外交を推進した。
ただし、それは彼にかぎらず、アメリカの一貫した外交姿勢でもある。
中国の国家元首としては10年ぶりに、胡 錦濤 国家主席 が来日し、早速、福田 首相 主催の夕食会では、お得意の 「 パンダ外交 」 が披露された。
先日、上野動物園のパンダが死亡し、同園のシンボルがいなくなったこともあり、日本政府による雄雌計2頭の借り受け要請に応じたものだ。
明日以降、5日間の滞在期間中に、種々の議題を 福田 首相 と会談する予定になっているが、途中、京都、大阪、奈良などにも立ち寄られる。
来日の主目的は、「 日中関係を長期的、安定的に継続させる土台作り 」 と位置づけられているが、実現に向けて、話し合うべき課題は山積している。
チベット問題、東シナ海のガス田開発、ギョーザ中毒事件などの不安要素について、どこまで踏み込んで話し合えるかが、会談の焦点となるだろう。
また、日中ハイレベル経済対話、環境関連の技術協力、日本の国連安保理常任理事国入り、北朝鮮問題、台湾問題なども議題になる見込みだ。
前回の日記で、死者が1万名以上と書いた ( 現時点では2.5万人以上の見込み ) ミャンマー への復興支援も、それに加わる公算が高い。
中国側としては、日本との友好関係を世界に向け発信することで、チベットへの弾圧に抗議する 「 国際社会の信頼を回復したい 」 思惑がある。
日本政府 ( 福田 内閣 ) としては、支持率の低迷を挽回するために、首脳会談で一応の成果を上げ、ポイントを稼ぎたいというのが本音だろう。
以前のように、靖国参拝問題などの 「 堂々巡り 」 に翻弄されることもなく、お互いに、具体的な解決策が話し合えるのではないかと期待している。
福田 首相 としては、その外交手腕が問われる重要な局面であり、今回の会談に賭ける意気込みは相当なものだろう。
わかりやすく言うと、「 中国が国際社会から認められるように、一役かってやるから、代わりに何の手柄をくれるんだ? 」 という交渉力が求められる。
たとえば、「 北朝鮮に働きかけて、拉致被害者を帰してくれる 」 なら 「 五輪の開会式に出てやる 」 とか、お互いの切り札を見せ合う可能性もある。
現時点で、中国側が日本に望むものは、環境分野での技術協力を除くと、おそらく、「 イメージアップ戦略に対する協力要請 」 が大きいだろう。
切り札は少ないが、それを上手く活用し成果を挙げて欲しいところであり、間違っても 「 パンダ2頭だけ 」 という結果にならないことを望む。
2008年05月05日(月) |
ミャンマーのサイクロン被害 : 犠牲者1万人超す恐れ |
「 時間の浪費は耐えがたい罰だ 」
チン・グァンシュー ( 中国の植物学者 )
Wasting time is an unbearable punishment.
Quin Guanshu
どれほど大金を支払っても、手に入らないものはある。
その一つが 「 時間 」 であり、だからこそ大事に扱わねばならない。
ミャンマー中南部を襲った大型サイクロンにより、一時、死者は4千人前後と伝えられたが、実際には1万人を超えるものと報じられている。
昨年の11月には、隣接するバングラディッシュでも、大型サイクロンの直撃で、4千人を超える死者、行方不明者の被害があった。
今回の被害は、それを大きく上回るもので、最大都市ヤンゴンなどを含む各地域では、10万人以上が家を失い、通行や通信も困難な状況だ。
ミャンマーは、昨年9月に日本人カメラマンの 長井 健司 さん が巻き添えになった 「 民主化デモ 」 に象徴される通り、軍事政権の支配が続いている。
そのため厄介なのは、被災地の窮状を知った諸外国が支援を申し出ても、物資や医療チームを送り込むことが容易でないという点である。
このままでは、時間が経つにつれ、食糧や水の不足が深刻な事態に陥り、二次災害や感染症などの影響で、さらなる被害の拡大も避けられない。
一刻を争う事態であるにもかかわらず、未だ軍事政権は、国連などによる被災者への支援活動を許可していないため、まるで見通しが立たない。
今後、支援を受け入れる可能性もあるが、災害復旧は 「 時間との勝負 」 によるところが大きく、無駄な時間の浪費は、多くの生命を奪う。
特に、われわれ関西人は、阪神大震災の際に 「 その教訓 」 を学んだが、思想や、外交政策の枠を超えて、迅速に支援を仰ぐことが肝要である。
インフラが整備され、民主的な日本でさえ、初期段階における対応の遅れが大きな損失を招いたわけで、ミャンマーの場合、その被害は甚大だ。
もともと昨年の民主化デモは、その前月、軍事政権がガソリンなど燃料費の大幅値上げを強行したことへの国民の反発が、騒動の発端だった。
その後、さらなる圧制で国民は発言の自由を奪われ、デモは鎮静化したが、燃料費の高騰が物価上昇を招き、以前より生活は圧迫されている。
今回の被害が困窮に追い討ちをかける中、軍事政権は5日、新憲法案への賛否を問う10日の国民投票を、予定通り実施する方針を示した。
軍の権力維持を担保する条項をちりばめた新憲法の成立を、多くの被災者が救援を求める現状で強行すれば、さらに、国民の反発が強まるだろう。
困窮を深める国民と、その心情を無視する軍事政権の対立が、抗議行動の再燃に結びつき、今後、また、昨年の悲劇が繰り返される不安もある。
2008年05月04日(日) |
五月病、軽症うつ の予防、克服法 |
「 物事について自分の側しか知らない人は、ほとんど何も知らない 」
ジョン・スチュアート・ミル ( イギリスの哲学者 )
He who knows only his own side of the case, knows little of that.
John Stuart Mill
多忙な4月を過ぎ GW に入ったが、今度は遊ぶのに忙しい。
余暇には 「 しっかり遊んでおく 」 ことも、自己管理の一部である。
企業の人事をサポートする仕事柄、特に今の時期は、新入社員の面々が職場に慣れ、新しい生活に馴染むまでの 「 目が離せない期間 」 である。
入社した当初は、やる気満々で張り切っていたのに、連休明けの頃から、体がだるいとか、気分が乗らないとか、不眠に陥る人たちがいる。
いわゆる 『 五月病 』 と呼ばれる症状で、新しい環境への戸惑い、焦りや、それを原因とするストレスが、精神的、肉体的変調となって表出する。
症状だけをみると 「 うつ病 」 に似ているが、ほとんどは一時的なもので、投薬などの必要がない 「 軽症うつ 」 だから、大げさな心配は無用だ。
実際には、連休前の4月時点でストレスに気付く人のほうが、長期の休暇を利用してストレス発散ができるので、五月病を回避しやすいようである。
連休明けに五月病の症状が出た場合は、ゆっくり風呂に入り、睡眠時間をたっぷりとって、友達や先輩などに悩みを聴いてもらうとよいだろう。
趣味やスポーツに打ち込んだり、日々の仕事を工夫し楽しさを見出したり、自分なりのストレス解消法、リラックス法が見つかれば、さらに望ましい。
そういった努力を心がけなくても、大抵は1〜2ヶ月で自然に症状から脱するものだが、夏期休暇を過ぎても改善しなければ、少し注意が必要だ。
特に、内向的な人、友達が少なく孤立しやすい人、過保護に育てられた人、頑固な人、潔癖症な人などは、慢性的な 「 うつ病 」 にも発展しうる。
そんな人は、自分が五月病だと気付いた時点で、先に挙げた改善方法を意図的に取り入れ、心身をリラックスさせる訓練を早期に開始すべきだ。
過去にも書いたが、「 病気であること自体は恥じゃないが、けして、自慢にできることでもない 」 わけで、本人にとってはマイナス面が大きい。
五月病、うつ病ともに症状は人によって様々だが、職場などで周囲に与える影響を考慮すると、患者に 「 治療する責任 」 があることは間違いない。
なかには、病気であることを 「 聖化 」 させて、治療する責任よりも、周囲の 「 配慮する責任 」 を強要する人もいるが、当然、周囲の反感を買う。
ついていけないのなら潔く辞めるか、本人が努力して環境に適応するしか方法はないわけで、「 体調管理も仕事のうち 」 といわれる所以である。
軽症うつの五月病も、重度のうつ病も、本人の 「 気の持ちよう 」 で簡単に治るし、予防できる病気だけに、それで人生を棒に振るのはもったいない。
五月病や、うつ病の場合、見るからに精神病患者という人は少なく、概ね、ほとんどの日常的活動は支障なく行える人が大部分である。
自分は 「 狂人ではない 」 と思っているし、事実、そのようなことはないが、片や、「 何の問題もないなら、精神科の世話にならない 」 のも事実だ。
それを素直に認めて、「 自分は狂人ではないが、少し、考え方には誤りがあるのかもしれない 」 ことに気付く人は、うつ病に陥っても治りが早い。
私の知り合いにも数人いるが、そういうタイプは治りが早く、薬にだけ頼り、治療に専念せず無理をして、イライラを鎮めない人は治りが遅い。
同じ病名でも人それぞれだが、予防や克服のための 「 気の持ちよう 」 とは何か、「 謝った考え方 」 とは何かについては、ほぼ共通している。
その答えだが、冒頭の名言にある 「 自分の側しか知らない 」 という部分に重要なヒントが隠されている。
環境の変化に追いつけず五月病になる人は、“ 自分だけが追いつけない ” と思うから悩むのであり、周囲の苦悩や、焦りに気付いてはいない。
少し深呼吸をして、同僚も、先輩も、あるいは上司にも、“ 自分と同じような経験や、悩みがあったのではないか ” と気付けば、ストレスは半分になる。
自己嫌悪や、逆に自意識の過剰さから、「 自分だけが特別 」 という意識を持つことで、どんどん自分を追い詰め、迷宮に彷徨いこんでしまうのだ。
自分が悩んでいるようなことは、他の人にも経験があり、誰もが失敗を重ねながら自然に克服してきたのだと考えれば、肩の重荷が降りる。
良くも悪くも 「 自分中心の発想 」 は疲れるわけで、自分も社会の一部だという視点で客観視すると、精神的な苦痛から解放されやすい。
自分のことは棚に上げ、社会や他人の批判ばかりする人もいるが、それも 「 自分は特別 」 という意識が働いており、意外と楽な発想ではないのだ。
ごく稀に、“ 特別な悩み ” を抱える人がいたとしても、北朝鮮の強制収容所で暮らす人より不幸かといえば、おそらく、そうではないだろう。
冷静に、客観的に悩みを見つめるほど、それが 「 取るに足らないもの 」 であることが見えてくるはずだし、その特異性にも疑問符がつく。
そんなわけで、「 五月病になった新人 」 を抱える管理職の方々は、ご自分の成功事例より失敗の経験を巧く話し、克服の一助になってもらいたい。
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