Tonight 今夜の気分
去るものは追わず、来るものは少し選んで …

2008年04月27日(日) 聖火リレー : ソウル で投石合戦



「 低開発国では、水を飲むな。 開発国では、空気を吸うな 」

           ジョナサン・レイバン ( イギリスのノンフィクション作家 )

In an underdeveloped country, don't drink the water ;
in a developed country, don't breathe the air.

                                Jonathan Raban



短い文章だが、開発国、低開発国の長短所を、如実に表している。

実際、“ ほとんどの国 ” が、この定義に当てはまっている。


日本人でありながら、自国の不満ばかりを愚痴る人もいるが、この国では水道の蛇口をひねるだけで、およそ清潔な水が手に入る。

煮沸せずに飲んでも、それだけで病気になる危険は低く、豊富な水資源と、浄水技術の高さが、われわれの生活を支えてくれているのだ。

また、ヨーロッパの主要都市に比べれば、人も車も多いために空気は良くないが、それでもアジアの中では、東京の空気ですら マシ なほうだ。

それに引き換え、「 水も、空気も悪い 」 のが、今年のオリンピック開催地の北京で、言うなれば、開発国と、低開発国の短所を、併せ持っている。

これこそが、いまの 「 中国が抱える問題 」 を象徴しているわけで、急速な経済成長の影に隠れた様々な課題が、それぞれに集約されている。


アジアの主要都市における大気汚染の実態調査で、ワースト1位は北京、2位はマニラ、3位ジャカルタ、4位バンコク、5位がクアラルンプールだ。

以下、6位に台北、7位ソウルと続き、東京は8位に入るのだが、実は、7位のソウルと、8位の東京の間には、大きな差異がある。

この調査は、総浮遊粒子状物質、二酸化硫黄、一酸化炭素、二酸化炭素、オゾン、鉛 の6項目、A ( ごく低い ) 〜 E ( 深刻 ) の五段階評価だ。

先に挙げた8都市のうち、東京 だけが全項目 「 A か B 」 で、ソウル は、二酸化炭素の項目で、要注意の 「 C 」 をつけられている。

ちなみに1位の 北京 は、総浮遊粒子状物質 E 、二酸化硫黄 D 、一酸化炭素 D 、二酸化炭素 D 、オゾン C 、鉛 B という調査結果だった。


なぜ、北京は水も空気も悪いのか、理由を正確に解説するには長い文章を必要とするが、簡単にいうと 「 エネルギーと資源の爆食 」 に鍵がある。

3年前の資料で、中国が一年間に消費した石油は、世界全体の8%、鋼材は27%、石炭は31%、セメントは40%以上となっている。

今は、さらに数字が伸びているはずだが、その大部分は北京や上海などの大都市に集中しており、それに見合うだけの環境対策はとられていない。

この数字から 「 中国が1万ドルのGDPを創出する為のエネルギー量 」 を換算すると、インドの1.5倍、アメリカの3.5倍、日本の6.5倍になる。

すなわち、とてつもなく 「 効率が悪い 」 わけで、たしかに開発は進んでいるが、日本に比べると、6倍以上の無駄な資源を燃焼しているのだ。


ちなみに、中国がこの調子で資源を貪り続けると、彼らの持つ石油埋蔵量は14年で、天然ガスは32年で、石炭は98年で使い果たしてしまう。

中国国内に埋蔵されているエネルギー資源が枯渇すると、国外に供給源を求めるしかないが、それを賄えるだけの産出国は、地球上に存在しない。

つまり、この 「 爆食 」 も長くは続かない ( 続けられない ) が、命題である省エネルギー型成長への転換が、大気汚染を和らげるのは先のことだ。

今回のオリンピックでは 「 エコ 」 が一つのキーワードになっているけれど、それは環境対策というよりも、成長に必要な資源の節約が重点課題だ。

先進各国に対し 「 エコ 」 をアピールすることで、省エネルギー技術の導入や、研究開発に関して、協力を要請することが彼らの狙いである。


よほど人権問題に関心が深い人を除くと、「 チベットへの弾圧 」 に多少の嫌悪感を抱きながらも、聖火リレーを阻止しようとする日本人は少ない。

案の定、長野での聖火リレーも無難に行われ、次の韓国へとバトンを渡したわけだが、ここで予想外の投石や、乱闘騒ぎが勃発したという。

ソウルでは、チベット問題だけでなく、中国へ脱北した者の強制送還などを理由に、各種市民団体と、韓国在住の中国人留学生が激突したらしい。

政治的な外交問題は別として、日本と中国の経済交流が順調なのに対し、実は、このところ中国での 「 韓国企業の評判 」 が良くない。

日系企業に比べて賃金が安い、支払いが遅いなどの苦情が多く、そうした経済関係を基に、中国人の 「 反日 」 が薄れ、「 反韓 」 が増えつつある。






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2008年04月26日(土) 過剰配慮社会に対する警戒感



「 われわれは時代の変化に適応しながらも、

  変わらぬ原則を持ち続けなければならない 」

              ジミー・カーター ( 第39代アメリカ合衆国大統領 )

We must adjust to changing times and still hold to unchanging principles.

                                  Jimmy Carter



最近の日本は、一種の 「 過剰配慮社会 」 になりつつある。

そんな気がするのは、私だけなのだろうか。


老人、子供、障害者、被差別部落出身者、在日外国人、女性など、各人の所得や境遇を度外視し、すべて 「 社会的弱者 」 と位置づける人がいる。

政治家にも、こうしてカテゴライズされた対象を 「 福祉 」 や 「 社会参加 」 の課題として吸い上げれば、他に問題が無いような顔をする者が多い。

たしかに、強い者が弱い者を助け、富める者が貧しき者に手を差し伸べる心がけは大切だが、これでは 「 弱い 」、「 貧しい 」 の判断に問題がある。

たとえば老人を例に挙げると、65歳以上の男女で 「 寝たきり 」 の状態にある人は 「 60人に一人 」 という実態を、知る人は少ない。

すでに家財は揃っている上、定年まで勤め、往時に貯めたお金と、相応の退職金を基に、悠々と年金で食べていける老人も 「 弱者 」 に含まれる。


その一方で、先に述べたカテゴリーに含まれない人たち、社会的、政治的な 「 弱者 」 の枠組みに引っかからない立場の人たちにも苦悩はある。

日本企業の多くは、いまも年功序列型の給与体系がみられ、結婚、出産を控えた若いサラリーマンの生活は、けして楽なものといえない。

彼らの賃金を増やそうにも、かつての高度成長期と違い、雇用する企業側にも余裕がないわけで、そう簡単にはいかないのが実情だろう。

老人の医療費を減額し、企業や、若い層に負担を強いればよいという意見もあるが、はたして、そんな単純な論理で世の中は良くなるのか。

四六時中、必死で働き、年老いた親と、奥さんと、子供を養っている若者がいたとして、遊んでいる老人、子供と、若者の、どちらが 「 弱者 」 なのか。


あまりに情緒的な 「 社会的弱者 」 への配慮が過ぎると、それ以外の個別の生が抱えた困難な課題は、存在しないかのような錯覚に支配される。

先日、死刑判決が下された 「 山口県光市母子殺害事件 」 でも、弁護団らが語る被告への同情、憐憫を誘う訴えは、明らかに均衡を欠いている。

未成年であること、父親の虐待、母親の自殺など、被告が 「 社会的弱者 」 であったことは事実だが、それで許される犯行ではない。

裁判所は退けたが、それを不服とし、上告する弁護団の姿勢には、彼らの 「 職業倫理 」 に対する不信と、「 過剰配慮 」 への憤りを感じる。

理不尽に人を殺しておきながら、「 弱者が、国家によって殺される 」 などと詭弁を弄するのは、法に携わる立場にある者として、いかがなものか。


結果として死刑にはなったが、この裁判では 本村 洋 さん の涙ぐましい姿と、弁護団による荒唐無稽な弁舌が、世論を左右し、判決に影響した。

仮に、遺族が感情的な態度をみせ、弁護団が真摯な姿勢で臨んでいたら、あるいは違う結果になっていたかもしれない。

戦後民主主義の 「 弱者に優しく 」、「 弱者に福祉を 」 というスローガンは、否定すべき根拠がなく異を唱えられぬ、理想的な命題のように思われる。

ただ、犯罪者であろうが何だろうが、すべて弱者という観点から同一視し、「 個別性に対する鈍感さ 」 が生じつつあることに、警戒する必要がある。

そうしないと、「 少子高齢化 」 などの問題を抱える日本は 「 弱者だらけ 」 になり、近い将来、本当に困っている善人を救えない状況に陥るだろう。






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2008年04月25日(金) サラ金 の広告



「 計画を怠ると、失敗を招く 」

                    エフィー・ジョーンズ ( アメリカの教育者 )

Failing to plan is a plan to fail.

                                    Effie Jones



世界中どこでも、高利貸しというのは、一番 「 卑しい職業 」 とされてきた。

そのため、どこの国でも、なるべく目立たぬように商売を行っている。


ところが、最近の日本では、駅前の一等地に サラ金 の看板が立ち並び、テレビを点けると、朝から晩まで、膨大な量の CM が流されている。

監督官庁からの指導でもあるのか、彼らの CM は、必ずと言っていいほど 「 ご利用は計画的に 」 という文言が含まれており、いつも首を傾げる。

どう考えても、「 計画的な人物は、金利の高いサラ金を利用しないはず 」 であり、たとえ、お金が必要だとしても、何か他の手段を利用するだろう。

あるいは、何かの事情があり、銀行などでお金が借りられない人のため、それが セーフティ・ネット として必要な可能性はあるかもしれない。

しかしながら、サラ金を利用している層は、そうじゃない人たちが大半だし、むしろ 「 サラ金がなければ、借金していなかった人 」 が多いと聞く。


前述の CM でも、お金の使い道は 「 旅行 」、「 デート 」 などのレジャー、「 プレゼント 」、「 ショッピング 」 などの贅沢を想起させるものが中心だ。

食費や住居費や光熱費など、生きていくのに必要な最低限の出費であればともかく、お金も無いのに贅沢しようとは、そもそも発想がおかしい。

子供の頃からの習慣からか、私なんぞは、欲しい品物があったら、お金を貯めてから買うのが普通だと思うし、それまでは我慢してきたものだ。

お金が無くてもモノが買える仕組みは、たしかに便利かもしれないけれど、先送りになった債務について、どうしても意識が薄くなってしまう。

それに、「 なんでも簡単に手に入る 」 ことで、買った品物への愛着心や、物を大切にする姿勢が、損なわれる傾向に繋がっているような気がする。


つまり、資源を大切にするというエコロジーの観点からみても、安易にお金の貸し借りができる制度は、あまり好ましくない。

大手メディアは、省資源の必要性や、財政破綻者の問題を訴えかけながら、片方では終日に亘り、元凶となる サラ金の CM を垂れ流している。

日本人の金銭感覚や、適切な人生設計を狂わせるサラ金会社が、CM で 「 ご利用は計画的に 」 などと語るのは、まことに笑止千万なのである。

サラ金を 「 計画的に利用している人間 」 より、「 利用しない人間 」 のほうが正しいという事実について、一切、それらの広告は触れていない。

若者による言葉の乱れや、教育指導要綱の見直し以前に、日本の良識を取り戻すには、まず、サラ金の広告を規制することが望ましいと思う。






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2008年04月24日(木) 硫化水素ガスによる相次ぐ自殺報道



「 あなたが育った家庭は、今後、あなたが持つ家庭ほど大切ではない 」

           リング・ラードナー ( アメリカのジャーナリスト、小説家 )

The family you come from isn't as important as the family you're going to have.

                                   Ring Lardner



1999年3月27日、俳優の 沖田 浩之 ( 享年36歳 ) が首吊り自殺した。

芸能人の自殺は珍しくないが、彼の死には 「 驚くべき特徴 」 があった。


当初、この自殺の動機は 「 借金苦 」 と伝えられたのだが、順調に仕事をこなせば返済できない金額でもなく、どうにも不可解な点が多い。

彼の死には、借金苦だけでない “ 何か ” があると、周囲は感じていたそうだが、その後、注目すべき 「 衝撃の事実 」 が判明した。

数十年前、弁護士だった彼の祖父は、担当した事件絡みで正当性を主張するために、自殺を遂げている。

また、会社を経営していた彼の父は、自分の生命保険金で会社の損失を補填しようとして自殺、その6年後、今度は彼の兄も自殺した。

つまり彼の一家は、無理心中などと違い 「 別の場所 」、「 別の時間 」 で、親子3代に亘り “ 4人の自殺者 ” を出していたのである。


医大教授らで構成された 『 健康家族研究チーム 』 によると、自殺傾向の遺伝は、科学的にも肯定されているのだという。

自殺者と、その家族の DNA サンプル を多数用いて研究を行ったところ、いづれにも自殺を生じやすい 「 精神疾患傾向 」 が見られた。

感受性遺伝子の影響で、うつ病などの神経症が ( 特に男性に ) 遺伝しやすいことは既成事実で、自殺衝動に結びつきやすいことも証明されている。

もちろん、遺伝による自殺傾向があっても、100%自殺するというわけではなく、自殺行為に及ぶまでには、精神を暴発させる引き金が存在する。

沖田 浩之 の場合は、芸能界という得意な場所に身を置いたことでの葛藤や、噂されている借金苦などが、その引き金になったのかもしれない。


このところ、自殺に関する報道が多く、自殺ではないが 「 死刑になりたくて人を殺した 」 などという “ 間接自殺型の殺人 ” も、後を絶たない。

山口県光市の母子殺人事件でも、被告の母親が自殺しており、罰を恐れぬ病的な性向の背景に、「 遺伝説 」 を唱える学者もいるようだ。

こういった学説は、“ 差別や偏見につながる ” という理由から、世間的に堂々と公言し難い空気があるため、一般的にあまり知られていない。

だが、欧米の一部など 「 精神異常者の婚姻を禁じた歴史のある国々 」 の自殺率が低く、そうではない日本などの自殺率が高いことも、事実である。

精神疾患、自殺傾向の遺伝性に加え、子供は 「 親の姿勢をみて育つ 」 という側面を持つので、この問題の因果関係は、あながち無視できない。


幸いなことに多数の人は、「 自分次第で運命を変えられる 」 という事実を知っているし、また、そのための努力を惜しまない傾向にある。

冒頭の名言が示すように、大事なことは、自分が育った環境なのではなく、これから自分が創り上げていく環境であり、過去よりも未来こそが重要だ。

ただ、そのような遺伝的血脈にある人は、自殺衝動などの激しい感情や、行動を理性でコントロールする心構えを、少し意識されることが望ましい。

子供への虐待は言うに及ばず、偏った思考を押し付けたり、自暴自棄的な態度を示したりすると、その性向が受け継がれる危険も大きいのである。

硫化水素ガスによる連日の自殺、警察官による拳銃自殺など、自殺報道の相次ぐ中、「 環境に打ち克つ姿勢 」 に、多くの人が目覚めて欲しい。






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2008年04月23日(水) 判決後、死刑囚はどうなるか



「 道を間違えた時に走って、何になるというのだ ? 」

                                      ドイツの諺

What is the use of running when we are not on the right road ?

                                 German proverb



極悪非道な殺人鬼といえども、死刑を宣告するには相応の時間が掛かる。

それが法治国家の良いところでもあり、歯がゆい部分でもある。


昨日、山口県光市の母子殺害事件で、殺人や強姦致死などの罪に問われた元会社員の被告に、死刑が言い渡された。

戦後、最高裁が 2審の無期懲役判決を 「 量刑不当 」 として破棄した例は3件目だが、前の 2件は差し戻し審で死刑が言い渡され、確定している。

前の2例は、4人射殺の 永山 則夫、仮出所中に強盗殺人事件を起こした 西山 省三 で、2例とも差し戻し審判決から死刑確定まで約3年かかった。

今回の判決を不服とし、被告側ならびに弁護団は即日上告したが、最高裁判決がいつになるのかは、いまのところ不明である。

ただ、最高裁としても、「 我々にとって9年は非常に長い 」 と語った遺族の言葉や、世論を重く受け止め、早期に結論を出す必要を感じているだろう。


同じ日、福岡市に住む27歳の専門学校生が、東海道新幹線 「 のぞみ 」 の非常用ドアコックを操作し、走行中の車内から飛び降り、自殺している。

この影響で、東海道新幹線は全線 ( 東京〜新大阪 ) で運転を見合わせ、上下合わせて44本の列車に遅れが発生し、約42000人の足が乱れた。

一人の人間の生命を与奪する重大さについて、検察、弁護士、裁判所が、時間を掛けて慎重に吟味する一方で、あっさり自分の命を絶つ者もいる。 

イギリスでは少し前まで、自殺未遂は 「 犯罪 」 として問われ、たとえ自分の命といえど、むやみに奪う ( 失う ) ことを固く禁じていた。

いくら、国家が死刑罰を慎重に扱ったところで、かたや、野放図に自殺する連中を、ただ眺めているようでは、生命の尊厳を伝えることなど難しい。


ちなみに、警察官には 「 特殊勤務手当て 」 が条例で定められており、たとえば東京都の場合、死体の収容、運搬は、一体当り 1200円 である。

腐乱死体は 2420円、検視または見分に従事すれば、通常で 1370円、それが腐乱死体なら 2740円、解剖に立ち会っても同額が支払われる。

それに対し、刑務官が死刑執行に立ち会った場合の手当ては 20000円 で、同じように死体を扱う仕事でも、ずいぶん大きな違いがある。

もちろん、刑務官の場合は、まだ生きている人間の生命を抹消することに、それぞれの葛藤や、心理的な重圧を強いられるかもしれない。

ただ、死体そのものは原型を留めており、列車自殺などでバラバラになった轢死体を 「 1200円 で運ばされる 」 警察官よりは、マシ な気がする。


刑法11条により、死刑の場所と方法は 「 監獄内において、絞首して執行する 」 ことが定められ、執行に至るまでは監獄に拘置される。

通常の場合、判決が下された囚人は刑務所、判決を未だ受けていない者は拘置所に拘禁されるが、死刑囚は、拘置所の独居房と決まっている。

つまり、死刑が執行されるのは、刑務所じゃなく拘置所で、死刑囚は、まだ罪が確定していない者と同じ屋根の下で “ 最後の日 ” を待つのだ。

日本の現行刑法では、たとえ殺人を犯しても、残虐性、殺害した人数など、複数の条件が揃わなければ死刑に処されず、改悛の道はある。

冒頭の諺が示す通り、道を間違えたら 「 軌道修正 」 するのが本筋で、さらなる犯行を重ねたり、自殺に走るのは、愚の骨頂としか言えない。






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2008年04月22日(火) 死刑判決と 「 命の尊厳 」



「 規律なき人生を送る者は、尊厳なき死を迎える 」

                                  アイスランドの諺

He who lives without discipline dies without honor.

                                Icelandic proverb



この世に 「 生まれてこないほうがよかった人間 」 は、いない。

ただし、その命を 「 抹消したほうがよい 」 ところまで貶める人間もいる。


1999年4月、山口県光市の会社員 本村 洋 さん ( 当時 24歳 ) 方で、妻の 弥生 さん ( 同 23歳 ) と、長女 夕夏 ちゃん ( 同 11ヶ月 ) が殺害された。

1審の山口地裁、2審の広島高裁判決は、検察の死刑求刑に対し、加害者の 「 犯行時 18歳 」 という年齢などを理由に、無期懲役を言い渡した。

しかし最高裁は、2006年6月、上告審判決で 「 加害者が少年だったことは死刑回避の決定的事情とまでは言えない 」 と判断する。

結果、「 2審判決の量刑は甚だしく不当 」 として破棄し、審理は同高裁に差し戻され、ようやく今日、差し戻し控訴審判決が広島高裁で下された。

楢崎 康英 裁判長 の口から 「 被告人を死刑に処する 」 と極刑が言い渡された被告は、退廷の直前、傍聴席の 本村 洋 さん に頭を下げたという。


被告が法廷を出るとき、傍聴人の中から拍手が湧き上がったのは、事件を知る多くの人々が、この判決を 「 妥当 」 と感じたからだろう。

以前にも書いたが、私は 本村 洋 さん にお会いしたことがあり、その他の 『 全国犯罪被害者の会 ( あすの会 ) 』 の方々からも話を伺っている。

報道でお気づきの方も多いだろうが、彼自身、けして ヒステリック な感情や、加害者への復讐心から極刑を求めていたわけではない。

ただ、反省の色も無く、罪を逃れるために詭弁を弄するばかりの加害者には、それ ( 極刑 ) 以外の “ けじめ ” が考えられないだけのことだ。

私も含め、今日の判決文に満足された方は多いだろうが、その大部分は、加害者が真摯に罪を認め、深く改悛することに期待していたはずである。


判決後、裁判長から次々と主張を退けられた形の弁護団は、予想通りに 「 極めて不当な判決だ 」 と記者会見し、不満を露にしている。

主任弁護人の 安田 好弘 弁護士 は、死刑反対論者として知られており、人権だの、生命の尊厳だのではなく、自己の哲学を賭けて争ってきた。

私も、「 たとえ犯罪者といえど、人命は尊ぶべし 」 と思うが、加害者の死をもって償うことでしか、守れない 「 生命の尊厳 」 もあると思う。

突然、理不尽に、愛する家族の 「 尊厳ある生命 」 を奪われた 本村 さん が評価する判決に、痛みを知らぬ弁護人や、我々が口を挟む余地はない。

すべては終わったことと、被告ならびに弁護団は、潔く、粛々と刑の執行を受け入れることで、事件の “ けじめ ” をつけてもらいたい。


かつては日本にも、アメリカのような 「 終身刑 」 があり、もし、その制度が続いていたら、死刑廃止論に同調する人の数は、もっと多かっただろう。

現行法の 「 無期懲役 」 は、永久に刑務所から出られないという意味ではなく、あくまでも 「 有期 」 に対する 「 無期 」 でしかない。

つまり、刑の期間が決まっていないということを言っているに過ぎず、その平均刑期は 「 約19年半 ( 仮釈放の場合 ) 」 というのが実態だ。

最も長い 「 有期懲役 」 は 20年 だから、下手をしたら結果として、無期刑より有期刑のほうが、長く入る可能性も考えられる。

そのうえ、現在、日本では 6万人以上が 「 塀の中 」 に暮らしており、収容定員をオーバーしているため、総体的に刑期は短縮される傾向にある。


法務省は 「 終身刑 」 について、“ 緩やかな死刑、そのため導入しない ” という考え方を示しており、今後、導入される目処もない。

年間、約 2万人以上の受刑者が刑務所から出所するが、データによると、そのうち、5年以内に約半数の者が再び罪を犯し、刑務所に戻っている。

軽微な罪ならともかく、凶悪犯罪に手を染めたうえ、改悛の様子も認められない輩には、社会秩序の防衛策として、現在は 「 死刑 」 しか手段がない。

本当は、特に少年犯罪の場合、このような事態が起きる前に、親や、教育に携わる人々が、もっと 「 命の尊厳 」 について、躾をすべきなのである。

年間 3万人以上の 「 自殺者 」 が出る日本では、子供に対して命の尊厳を語ることも難しいが、精一杯に生きる姿を、大人が示すしかないだろう。






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2008年04月20日(日) 有権者が望む次の首相とは



「 民主主義とは、誰が責任をとるべきかを、人々が自由に選択する

  システム である 」

                 ローレンス・J・ピーター ( カナダの教育学者 )

Democracy is a process by which the people are free to choose
the man who will get the blame.

                               Laurence J. Peter



自分たちの失敗は公的資金で補わせ、儲かっても、利益を還元しない。

無能なだけでなく、倫理観も無い恥知らずが、日本の銀行関係者である。


彼らほど有害ではないけれど、多くの企業が、株価が上がると 「 自分達の努力による賜物 」 と語り、株価が下がれば 「 政府が悪い 」 と悪態をつく。

そういう意味において、知事だとか、総理大臣という立場にある人は、その原因がどこにあろうと、成功していない人々の標的にされやすい。

小泉政権下では、「 最悪の総理 」 と批判し、安倍政権に代わると 「 小泉のほうが良かった 」 と愚痴り、現在は 「 安倍のほうがマシ 」 と語る。

そのような、人生を 「 他責 ( 他人のせい ) 」 にして生きる連中までが納得する宰相は、永遠に現れることがない。

彼らにとって、内閣の支持率が低ければ 「 それみたことか 」 と言い、逆に高ければ 「 大衆は馬鹿 」 と罵るのが常套手段である。


最近、時事通信社が実施した世論調査結果によると、首相にふさわしいと思う政治家は、自民党の 小泉 純一郎 元首相が 21.2%でトップだった。

2位は、16.00%の 麻生 太郎 前幹事長、民主党の 小沢 一郎 代表 は 7.2%で3位、福田 康夫 首相 は 7.1%で4位となっている。

あまりの不人気ぶりに、進退が問われている 福田 首相 だが、政権転覆を目論む 小沢 代表 とは、0.1%の差しかないことが明らかになった。

これは 「 民主党に風が吹いている 」 と言われる中、意外な結果であるが、与野党が逆転し、小沢 政権 になっても、支持率の低いことが予測される。

当然、小沢 代表 以外の民主党議員は、さらに順位が低いわけで、有権者の多くは、選挙戦で民主党を支持しながらも 「 期待はしていない 」 ようだ。


結局、政権与党が代わっても、小泉批判、安倍批判、福田批判を続けてきた人々にとっては、それが 「 小沢 批判 」 に変わるだけのことだ。

冒頭の名言が示すように、自分の力不足には言い訳ばかりし、他責で物を考える人々は、常に 「 誰に責任を押し付ければよいか 」 しか頭に無い。

小泉 氏 自身は再登板を否定しているが、案外、「 アンチ小泉 」 を語っている輩こそ、叩きやすい 「 小泉 再登板 」 を期待しているのかもしれない。

私自身は誰が総理でも良いのだが、中国との取引が太い現状の個人的な思惑から言うと、摩擦の激しい 「 小泉 再登板 」 は、あまり歓迎しない。

いづれにせよ、次の宰相に期待する人も、ただ ケチ をつけるだけの人も、責任の押し付けやすい 「 頼れるタイプ 」 を、支持する傾向にあるようだ。






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2008年04月18日(金) 名古屋高裁 : 裁判長による越権行為



「 持論を持てば持つほど、ものが見えなくなる 」

                   ヴィム・ヴェンダース ( ドイツの映画監督 )

The more opinions you have, the less you see.

                                  Wim Wenders



決断の場で必要とされる資質は、「 物事を客観的に判断する能力 」 だ。

思い込みの激しい人や、原理主義的な思想の持ち主は、そこが弱い。


自衛隊のイラク派遣は憲法違反として、派遣の差し止めや、慰謝料を国に求める訴訟の控訴審判決が、名古屋高等裁判所で下された。

1審の名古屋地裁判決は、派遣差し止めについて 「 具体的な権利や義務に関する紛争ではなく、訴えは不適法 」 と却下している。

1人1万円の慰謝料請求についても、「 市民の具体的権利が侵害されたとは認められない 」 として棄却した。

名古屋高裁の 青山 裁判長 は、主文で国側を勝訴としながらも、「 自衛隊のイラク派遣は違憲 」 という判断を下し、物議を醸している。

原告の訴えは退けられ、被告の国側は、判決内容に反論があっても、主文で勝訴しているために上告ができず、なんとも後味の悪い結末となった。


この判決を巡り、「 司法によるイラク派遣への違憲判断が出た 」 などと、意味不明な報道や、一部ブログでの記述が乱れ飛んでいる。

司法の判断とは、「 争点になっている訴えに関する判断 」 を指すわけで、この場合でいうと 「 国側の勝訴 」 という判決こそが、司法の判断である。

判決の主文に影響しない憲法問題について、裁判長が 「 違憲 」 だとする解釈を示したのは、司法の判断でなく、彼個人による 「 越権行為 」 だ。

裁判所は、訴えたことについてのみ判断する義務があり、問われていない 「 違憲かどうか 」 を判断する立場になく、軽率に発言すべきでない。

この裁判長がしたことは、個人的な意思と職権の乱用によって、いたずらに法廷を 「 違憲主張の場 」 にする暴挙であり、これは厳罰に値する。


事実、単なる “ 独り言 ” に過ぎない彼の発言を受け、マスコミは 「 司法によるイラク派遣への違憲判断 」 と騒ぎ、一部の市民は鵜呑みにしている。

もちろん、この裁判長が主文で 「 イラク派遣は違憲だし、国側の敗訴 」 という判決を下したのなら、それは司法判断として認められる。

日本は 「 三権分立 」 を遵守しており、たとえ政府が相手でも、悪いことは悪いと言う権利が保障されているわけで、いささかの遠慮も要らない。

ただし、肝心の主文で 「 国は悪くない 」 とする判決を下しながら、個人的な意見や、感想を加える権限は、裁判長といえども与えられていない。

たとえば、無罪になった被告に対して、「 法律的には無罪なんだけどさぁ、個人的には嫌いだなぁ 」 などと裁判長が語るのは、それこそ違憲である。


私は司法の立場にいる人間じゃないので、個人的な見解を述べさせていただくが、イラクへの自衛隊派遣は 「 明らかに違憲 」 である。

ただし、「 憲法自体に矛盾点、問題点が多い 」 ことや、「 憲法を守るよりも、はるかに重要なことがある 」 ことから、派遣は適切だと思う。

この裁判長が、どのような哲学を持っていたのか知らないけれど、個人的な感慨を吐露することで、中立性、客観性を欠いてしまう恐れは大きい。

誰にでも感情があり、司法の世界に身を置く人々も例外ではないが、その立場上、胸にしまっておく義務があることを、忘れないようにすべきだ。

控訴審で言及されていない憲法解釈について、不用意な発言をした彼こそが、「 三権分立制度を危うくする不心得者 」 なのではないだろうか。






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2008年04月17日(木) 大阪センチュリー交響楽団



「 オペラは、18世紀と19世紀の芸術なのに、20世紀の聴衆を

  見つけなくてはならないんだ 」

          ジョーラン・ジェンテレ ( メトロポリタン・オペラ総支配人 )

Opera is an 18th-and 19th-century art that must find a 20th-century audience.

                                 Georan Gentele



これは、メトロポリタン・オペラの総支配人になる決意を語った台詞だ。

日本でも、伝統芸能などに携わる人々は、同じような苦労があるのだろう。


私の仕事柄、いまは一年で最も忙しい時期にあたるが、古い友達や知人に誘われて、このところ 「 コンサート 」 に出かける機会が多い。

さすがに、同級生の奥さんから誘われた 『 Hey!Say!JUMP 』 だけはお断りしたが、それ以外は、なんとか都合をつけて付き合っている。

今週も、月曜はシンフォニー・ホールで 『 大阪センチュリー交響楽団 』 を、火曜は四ツ橋で 『 シカゴ/ヒューイ・ルイス&ザ・ニュース 』 を聴いた。

前者は、さほど興味もなかったのだが、知人からチケットを押し付けられたもので、後者は、前々から学生時代の仲間と約束していたものだ。

クラシック音楽も嫌いではないし、オフィスのBGMに利用したりしているが、わざわざチケットを入手して会場へ出向くことは、極めて稀なことである。


シンフォニー・ホールの会場前では、楽団の関係者とおぼしき人々が並び、大阪府の 橋下 知事 に宛てた 「 嘆願書への署名 」 を集めていた。

事前に報道で聞いていたが、このたび大阪府では、財政を立て直す目的で、不要な補助金の打ち切りを進めており、この楽団も対象になっている。

大阪センチュリー交響楽団は、年間7億円程の予算で運営されているが、そのうち4億5千万円は 「 補助金 」 で賄われているのが実態だ。

潰す、解散させるという話ではなく、他の在阪オーケストラとの統合を図り、それぞれ別に組んできた多額の補助金を、見直そうとする試みである。

当事者の皆さんには災難かもしれないが、困窮する府の財政を鑑みると、贅沢ばかりも言ってられないというところだろう。


私自身、ジャンルを問わず、音楽は好きだが、一つの楽団を維持するため 「 4億5千万円の公費 」 が遣われることには、少なからず疑問を感じる。

黒字ならまだしも、破綻寸前の大阪府が、ポンと酔狂に出せる範囲の金額ではないし、この予算を削ったところで、府民の生活が脅かされもしない。

音楽には 「 人心を豊かにする効能 」 があるし、経済的に窮しても守るべき文化というものもあるが、運営を補助金に頼りすぎるのもどうかと思う。

昨年度、日本で最も売れたCDは、テノール歌手 秋川 雅史 さん が唄った 『 千の風になって 』 であり、「 クラシックは儲からない 」 ともいえない。

プロ である以上、公演やCDの売上などによって採算をとる努力をすべきであり、署名を集める暇があるのなら、チケットでも売りさばくべきだろう。
( * 今回は法人会員に招待されたので、チケット制かどうか知らないが )


それに、どうも納得できないのは、彼らが 「 ロック 」 や 「 ヒップホップ 」 でなく、「 クラシック 」 奏者だから補助金の対象になっているという事実だ。

数ある音楽ジャンルの中で、クラシックが優れ、ジャズが劣るという比較は、まるで 「 空手と相撲は、どちらが強いか 」 と同じように、成立しない。

クラシック音楽には、歴史の重みに支えられた格調があるけれども、芸術として評価するには 「 創造性 」 の部分で致命的な欠点がある。

つまり、すべてが 「 コピー音楽 」 なのだという宿命を背負っているわけで、いくら上手に演奏できても、芸術作品としての “ オリジナリティ ” は無い。

稀代の贋作画家が、ダ・ヴィンチより上手に 「 モナリザ 」 を描いたとしても “ 芸術 ” と評価されないように、オーケストラは “ 継承者 ” でしかない。


また、いくら技術に秀でていても、聴衆が集まらず 「 商売 」 にならないようでは、プロ を語る資格が無いのも事実だ。

民間の製造業に置き換えると理解しやすいが、たとえ 「 最高の商品 」 だと自負する品物を持っていても、お客に売れなければ会社は倒産する。

大衆に支持されず、不採算だが 「 芸術的なんだから府で面倒みろよ 」 と自治体に タカる のは、身勝手で、自意識過剰といわざるを得ない。

彼らは、「 府に補助金を打ち切られる 」 ことよりも、「 自分たちの音楽に、大衆がお金を払ってくれない 」 ことにこそ、問題点を見出すべきなのだ。

かつて大阪は、地元文化の象徴であった 『 中座 』 さえ、不採算を理由に切り捨てた過去があり、不採算オーケストラの存続は、風前の灯だろう。






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2008年04月16日(水) 出会い系サイト



「 私たちは、不必要なものだけが必需品である時代に生きている 」

           オスカー・ワイルド ( アイルランド出身の作家、劇作家 )

We live in an age when unnecessary things are our only necessities.

                                   Oscar Wilde



新しい技術の開発は、世の中を便利に変えてゆく。

ただし、便利であることが 「 豊かさ 」 につながるとはかぎらない。


携帯電話の無かった時代に、どうやって、初対面の人と 「 待ち合わせ 」 をしていたのか、ハッキリと思い出せない。

たぶん、予め時間と場所を決めておいて、髪形や身長、服装などの特徴を伝えたうえで、時間に遅れないよう、出かけていったのだろう。

大幅に時間を過ぎても相手が見当たらないときは、会社だとか、自宅とか、固定電話のある場所に連絡し、ただ、ひたすら待ったように思う。

何かの事情で自分が遅れそうなときは、相手が怒ってるんじゃないか、もう帰っちゃったんじゃないかと、ずいぶん気を揉んだ記憶がある。

もし、昔から携帯電話があったら、儚い運命の悪戯による 「 すれ違い 」 を防げたカップルなども、さぞかし多かったことだろう。


そう考えると、携帯電話という機械は我々の生活に大きな便益をもたらし、多大な貢献を果たしてくれているような気がする。

自動車や、電子レンジなどの利便性と比較することは難しいが、少なくとも通信手段というカテゴリーにおいては、画期的な大発明といえるだろう。

また、固定電話には無かった 「 ネット接続 」 の長所を活かし、メールや、種々のサイト検索が出来るようになったのも、大きな進歩である。

たかだか煙草ぐらいの大きさで、これだけ豊富な情報を入手できる機械が現れようとは、偉大な科学者やSF作家でさえ、想像できなかっただろう。

あるいは、こんな機械の登場を予測する人物がいたとしても、その機能を 「 悪用する人間 」 が現れることまでは、考えが及ばなかったはずだ。


携帯の 「 出会い系サイト 」 を通じて知り合った男に監禁され、覚せい剤を打たれたと思われる19歳の女性が、行方不明になっているという。

時代遅れなのか、私からみれば 「 出会い系サイト 」 なんぞに “ 出会い ” など無いと思うのだが、若者を中心に、かなりの人数が利用している。

どのような方法による調査か不明だが、報道では 「 出会い系サイトを利用する目的は、75%が援助交際 」 なのだそうである。

なかには、純粋な交際を求めてアクセスされる方もいるのだろうが、不純な目的や、犯罪に通じる危険が孕んでいることは、既に周知の事実だろう。

犯人も悪いが、無警戒に利用する女性にも 「 落ち度 」 はあるのだから、無事に救出されたら、以後は気をつけてもらいたいものである。


現在、このような 「 危険サイト 」 へのアクセスを禁ずる仕組みの構築や、未成年者の利用を防止する呼びかけを、携帯電話会社は行っている。

不思議なのは、「 75%が援助交際目的 」 と認めつつ、そのような売春の温床となっているサイト自体の取締りが行われていないことだ。

違法、合法の線引きや、悪質、良質の見極めが困難だという事情もわかるが、このようなサイトが存続するかぎり、再発は防げないだろう。

特に若い頃は、未知の刺激や誘惑を求める欲求が激しく、このようなサイトに興味を示す気持ちは共感できる。

しかしながら、そこには大きな 「 落とし穴 」 のあることが明白なのだから、これは、サイト運営そのものを規制することが望ましいはずだ。


けして自分は 「 恋愛の達人 」 でもないが、本当の “ 出会い ” とは何か、 “ 恋愛 ” とは何かについて、若い人には考えてもらいたいと思う。

また、地味なように見えて、すべての人の人生が刺激に満ちたものであり、夢や、憧れや、冒険を含む波乱万丈のドラマであることを知ってほしい。

それらを理解することで、「 なくてもいい機能 」 の利用や、「 しなくてもいい挑戦 」 や、「 冒す必要のないリスク 」 を回避してほしいと願う。

一生懸命に生きていれば、「 犬も歩けば棒に当たる 」 ように、思いがけず美女と巡り合ったり、気の合う異性と親しくなったりするものである。

偶発的な “ 思いがけず ” で不満なら、週に8回コンパしたり、「 しつこい 」 と言われるまでお願いすると、かなり確率は上がる ( らしい )。






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2008年04月13日(日) 北京五輪に関する日米の対応



「 暴動とは、声無き人々の言葉である 」

     マーチン・ルーサー・キング・Jr ( アメリカ公民権運動の指導者 )

A riot is at bottom the language of the unheard.

                           Martin Luther King, Jr.



概ね、暴動を企てるのは、「 言い分を聞いてもらえない人々 」 である。

平和的解決が最良なのは言うまでもなく、暴動は武力衝突を生む。


3月10日、中国からの弾圧に抗議する 「 チベット暴動 」 と、それを強硬に制圧した中国政府の姿勢は、広く世界各国の批判を集める結果となった。

折しも今年は北京五輪の開催年でもあり、いまのところ競技不参加を表明した国はないが、開会式、閉会式の参加取りやめを検討する国は多い。

当初、大会を盛り上げるために企画された世界規模の聖火リレーも、各地で抗議運動の標的と化し、まったくの逆効果となってしまっている。

かつて靖国参拝問題などで、ことごとく中国に反撥した小泉政権下ならば、日本政府も堂々と 「 遺憾の意 」 を示したことだろう。

しかし、現政権の福田総理も、政敵である小沢氏も 「 親中派 」 で知られることから、この問題は、政府として慎重な対応が続くものと予想される。


日本政府が他国に対する外交の意思決定を検討する場合、同盟国であるアメリカの見解を重視するのは必然で、とても気になるところだ。

ソ連の崩壊後、アメリカの一極支配を妨げる国は 「 中国以外にはない 」 とみられ、政治形態や思想の違いからも、敵対関係のように思われがちだ。

ところが、意外にも両者は 「 お互いに一目置く存在 」 と認め合い、相手に敬意を払う中国人の気持ちは、アメリカを意味する中国語にも表れている。

日本の漢字でアメリカを表すと 「 亜米利加 」 になり、省略すると 「 米国 」 となるが、中国語では 「 美利堅 」 と書かれ、省略すると 「 美国 」 になる。

つまり、中国語でアメリカは 「 美しい国 」 と表現されており、さらに、多くの中国人はアメリカのことを 「 老美 」 と呼んだりもする。


中国語の 「 老 」 とは、目上の人を敬うときに使う敬称で、たとえば、自分が仕える主人や社長は 「 老板 」、先生のことは 「 老師 」 と呼ぶ。

ちなみに、日本のことは 「 小日本 」 と呼ぶ中国人が多く、この 「 小 」 は、 “ ○○ ちゃん ” というような意味で、目下の者に対して使う蔑称である。

歴史的にみて、列強が中国を侵略していた当時でさえも、アメリカが単独で中国を攻めたことはなく、中国本土で戦争をしたこともない。

朝鮮戦争のときは交戦したが、そこでアメリカは中国に勝てなかった事実を素直に認め、そのフェアな姿勢に、中国人は敬愛の気持ちを抱いた。

それはアメリカ人にとって、中国が 「 初めての “ 勝てなかった相手 ” 」 という事実でもあり、安易に戦ってはいけないという感情につながっている。


唯一、アメリカが中国に兵を進めたのは、1900年の 「 義和団事件 」 の時で、鎮圧後、アメリカは清王朝から 4870万円 の戦争賠償金を受け取った。

アメリカは、鎮圧に関わった8カ国連合軍の一員だったのだが、他の国々と違っていたのは、必要経費を除いた 1670万円 を中国に返還したことだ。

ただし、直接返金したのではなく、この返還金を使って中国にアメリカ留学予備校・精華学堂 ( のちの精華大学 ) を設立したのである。

精華大学といえば、胡錦濤国家主席をはじめ、歴代の中国指導者を数多く輩出した超名門大学で、当然のことながら、出身者の親米感情は色濃い。

アメリカに対しては 「 好戦的な印象しかない 」 という御仁も多いようだが、実は、このような長期戦略に基づいた友好関係の構築にも長けている。


経済の実情からみた場合、中国は大量の米ドル、米国債を保有しており、それを一挙に売却してしまえば、アメリカ経済が大混乱する事態に陥る。

アメリカの財政赤字は、国債を買い上げている外国のお金で穴埋めされていて、中国は大量の外貨準備保有高でアメリカ経済を人質にとっている。

その一方で、中国経済を急成長させている源泉の一つは、アメリカ国民の中国製品に対する購買力にあり、彼らの不況は中国にも悪影響が出る。

このように 「 連携 」 と 「 対立 」 の米中関係は、相互補完的な結びつきが強く、アメリカが 「 中国を制裁する 」 ような行動は簡単にとれない。

北京五輪に関しても、アメリカ国民の多くが人権問題を声高に叫んだところで、両国政府では関係を保つための 「 舞台裏の駆け引き 」 が行われる。


もちろん、かといって チベット をはじめとする少数民族が弾圧され、彼らの歴史的文化や、宗教、あるいは生活が、排除されてよいわけではない。

ただし、中国はいま、環境、貧困、格差の問題や、過熱気味の経済成長、安全保障など、とてつもなく大きな未曾有の国内問題を抱えている。

経済の民主化に続き、今後 「 政治の民主化 」 が起こることも間違いないところだが、性急に焦り過ぎると、失敗や混乱を招く恐れも考えられる。

北京五輪の対応について、「 日本は独自の見解を示すべき 」 と語る御仁も多いが、中国の民主化が成功する鍵は、米中関係のバランスにある。

日本政府としては、アメリカのご機嫌をとるためでなく、少数民族を含めた中国人民の未来を鑑み、アメリカ政府の指針に同調することが望ましい。






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2008年04月11日(金) 老人の医療費負担



「 人生は トランプ・ゲーム に似ている。

  配られた手は決定権を意味し、どう切るかは貴方の自由意志だ 」

               ジャワハルラール・ネルー ( インドの初代首相 )

Life is like a game of cards. The hand that is dealt you represents determinism ; the way you play it is free will.

                               Jawaharlal Nehru



童話 『 アリ と キリギリス 』 は、子供に 「 勤勉の重要性 」 を説いている。

そこに登場するのは、一生懸命に働く アリ と、怠け者の キリギリス だ。


夏の間、汗だくになって働く アリ を、キリギリス は 「 うぜぇ奴ら 」 と横目で嘲笑い、趣味のバイオリンを弾いたり、遊び呆けながら暮らしている。

やがて食物の採れない冬になり、飢えた キリギリス は凍える足で アリ の家を訪ね、心優しい アリ は、備蓄しておいた食糧を与えてやる。

我々が子供の頃は、この話を聴いて 「 遊んでばかりいて怠けると、後から惨めな目に遭うのだろう 」 と思い、勤勉の重要性を感じた記憶がある。

近頃は、“ 価値観の多様性 ” が認められる社会になり、この話に 「 誰もが アリ のように働く必要はない 」 と、否定的な考えを示す子供が増えている。

飢えた キリギリス が訪ねて行くと、膨大な食糧と、働きすぎて 「 過労死 」 した アリ の遺体があった … なんて、オチ を想像する子も多いそうだ。


一生懸命に働くことが 「 善 」 で、働きたくないから怠けていることが 「 悪 」 だと決め付けるのは、たしかに、今風の考え方ではない。

私の知人には “ 筋金入りのニート ” がいて、どうせ短い人生なのだから 「 我が生涯に一片の職歴なし ! 」 と豪語し、ブラブラと遊んでいる。

誰もが同じように、真面目に勉強して、定職に就き、一生懸命に働いて蓄財しなければならないわけではなく、各人が自由に生き方を決めればよい。

ただ、それなりに恋をしたり、お金を稼いだり、人並みの暮らしを手に入れたければ、ある程度は真面目に働かなければならないのも必定である。

遊んでばかりいた キリギリス が、豊富な食糧を得た アリ に対し、不公平だとか、「 格差社会だ 」 などと愚痴を吐くのは、理不尽というものだろう。


社会には、本人の努力だけでは解決しない 「 不可抗力的な弱者 」 がいる一方、本人が努力を怠ったことによる 「 必然的な弱者 」 も存在する。

すべて万全というわけではないが、幸いなことに日本という国家は、前者の 「 不可抗力的な弱者 」 を救済する制度が、かなり整った環境にある。

古来より共同体意識が根強い日本は、富める者が貧しい者に分け与える伝統を擁し、資本主義国家の中では断トツに、貧富の差が少ないのだ。

お隣の中国と見比べた場合、一体どちらが社会主義なのか、その判断に苦しむぐらいである。

あまり海外の実態を知らない方は、福祉が不十分だと感じるかもしれないが、けして 「 不可抗力的な弱者 」 を切り捨てるような国ではない。


問題は、後者の 「 必然的な弱者 」 のほうで、いわば 「 好き好んで貧乏になった人 」 や、「 働けるのに働かない人 」 の処遇である。

冒頭の言葉が示す通り、大半の人にとって人生は 「 選択の問題 」 であり、勤勉を選択しなかった人が金銭的に困窮するのは、必然の結果だろう。

真面目に働く、働かない、仕事に生き甲斐を感じる、感じないは個人の自由だが、そこに自由を求めるのなら、その結果も享受する必要がある。

活き活きと働き成果を残した者が、嫌々ながら働き 「 企業の害 」 になっている者を救済する仕組みは、これ以上に拡大すべきではない。

あまりにも 「 弱きを助け、強きをくじく 」 仕組みが大きくなり過ぎると、全体のモチベーションが低下し、経済の発展に弊害をもたらすだろう。


老人の医療費負担が増加することに対し、反対の声をあげる御仁がいて、儲かってる企業に増税したり、若者の負担を増やせばよいという。

当然、気の毒な境遇の老人もいるだろうが、老人というのは、ある日を境にして、いきなり突然的に老人へと変化するわけではない。

老後への備えとして、一生懸命に働き、お金を稼いだり、蓄財をするための時間は、十分にあったと考えてよいはずだ。

利益が出たからといって過度の重税を企業に強いれば、本拠地を移転するだろうし、若者の負担をかけすぎると、彼らの生活が成り立たない。

高齢者への医療費負担は、まだまだ少ないぐらいで、この程度の金額に 「 年寄りは死ねと言うのか 」 などと怒るのは、まったく筋違いである。






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2008年04月10日(木) “ 悔い倒れ ” になった 「 くいだおれ 」



「 優れた作戦すべての真髄は、単純さである 」

                   エリック・アンブラー ( イギリスの小説家 )

The essence of all good strategy is simplicity.

                                   Eric Ambler



世の中には、物事を複雑に考えて楽しむ御仁がいる。

そういう人々は、概ね、人並みに仕事が出来ないようだ。


大阪の道頓堀界隈には、「 グリコ 」、「 かに道楽 」、「 くいだおれ 」 などの大型看板、あるいは看板人形が立ち並び、観光客の人気を集めている。

そのひとつである昭和24年創業の食堂 「 くいだおれ 」 が、建物の老朽化などを理由として、7月8日に閉店することが明らかになった。

老朽化が理由なら、閉店せず 「 改装 」 すれば済む話だが、最近は売上が低迷し、赤字続きなことが本当の閉店理由のようだ。

大阪人なら誰もが知る老舗なのに、意外と 「 食堂を利用した 」 という人は少なく、そこに食堂があったことすら、ご存じない人もいる。

私自身は、何度か食事をしたし、少し前の話ではあるけれど、新年会などの宴会に利用した経験もあるので、廃業されることを残念に思う。


ちなみに、「 くいだおれ 」 の筋向いには 「 びっくりドンキー 」 という若者に人気のハンバーグ店があり、食事時は常に満員の盛況ぶりである。

面白いのは、続々と観光客が写真を撮る 「 くいだおれ 」 が閑古鳥なのに対し、記念撮影などしない 「 びっくりドンキー 」 に人が溢れていることだ。

老舗の廃業に、地元からは 「 淋しくなる 」、「 大阪文化の消失だ 」 などといった声も聞かれるが、よく考えてみると、これは自然の成り行きでもある。

いくら看板に人気があっても、いざ食事をするとなると、安くて美味しい店に客が流れるわけで、「 味や品質の割に “ 値が高い ” 店 」 は淘汰される。

ハッキリ言って 「 くいだおれ 」 は、それほど美味しくないのに値段が高い店だったから、どんどん客足が遠のき、廃業せざるをえなくなったのだ。


大阪に対する他府県民の印象は、「 安くて美味しい飲食店が多い 」 という意見が多く、事実、庶民的な価格で食事を楽しめる店は珍しくない。

逆に、「 美味しくない 」うえに 「 値段が高い 」 と死活問題で、いくら看板が立派でも、そのような店には誰も寄り付かないだろう。

写真撮影の後、お義理で食事をする観光客はいても、そこそこ舌の肥えた大阪人は、ほとんど立ち寄らなかったというのが実態なのである。

知名度の高い看板を武器に、本当なら、他店よりも楽に操業できたはずの同店が、経営に行き詰ってしまった背景は、まさにそれであろう。

全国規模の知名度を誇る看板人形を擁しながら、来客を増やすことができなかったのは、単純に 「 行く価値のない店 」 だったからにすぎない。


史跡などと違って、いくら地元の文化的財産といっても、それが商業施設である場合、生殺与奪の決定権は 「 顧客 」 が握っているものだ。

遠のいた顧客を再訪させるために、味や品質を向上させるか、販売価格の引き下げを行うなど、店側は創意工夫と努力をするのが本筋である。

それが出来なかった ( あるいは怠った ) 店舗は、むしろ淘汰されるべきであって、空いたスペースに新しい店舗を招致することが望ましい。

立地にも優れ、名物の看板人形があるのだから、さほど高度な経営手腕がなくとも 「 再生 」 の期待は大きいわけで、誰かが継承されるとよいだろう。

難しい理屈など不要で、ただ単純に 「 安くて美味しい店 」 を目指すことで結果は出せるから、思い切って 「 大阪府が買い取る 」 のも一計だと思う。






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2008年04月04日(金) 映画 『 靖国 』 と、表現の自由



「 何も読まない者は、新聞しか読まない者よりも教養が上だ 」

           トーマス・ジェファーソン ( アメリカ合衆国第3代大統領 )

The man who reads nothing at all is better educated
than the man who reads nothing but newspapers.

                               Thomas Jefferson



彼が ジャーナリズム を嫌ったのには、理由がある。

若い奴隷との間に “ 隠し子 ” がいたことを、すっぱ抜かれたからだ。


ただ、そのような私怨がなくとも、「 ジャーナリズム は常に正しいのだ 」 と妄信することには疑問があり、事実、彼らが間違いを犯した例もある。

あるいは、「 嘘 」 や 「 間違い 」 ではないけれど、公平さ、公正さに欠ける報道姿勢に、その中立性が問われる場面も多いように思う。

たとえ事実だけを列挙したとしても、伝える側の主張に反する部分を削除したり、縮小することで、世論を操作し、誘導することは可能だ。

ひとつの新聞に書いてあることが、あたかも 「 この世のすべて 」 だなどと思い込むのは、そういう意味において、とても危険なことのように思う。

下手をすると、冒頭の言葉が示す通り、「 読まないほうが マシ 」 ということも、十分に考えられるのではないだろうか。


現在、映画 『 靖国 』 の上映中止問題に絡んで、それは 「 表現の自由 」 に抵触するのではないかという議論が、新聞誌上を賑わせている。

試写会を観た与党の議員は、「 靖国神社が “ 国民を侵略戦争に駆り立てる装置だった ” というイデオロギー的メッセージを感じた 」 という。

映画監督の 羽仁 進 氏 は、「 慎重に作られており、靖国神社への批判を強硬に打ち出している映画ではない 」 と論評している。

この映画は、文化庁管轄の独立行政法人 「 日本芸術文化振興会 」 が、製作に750万円を助成しており、一部には、それを問題視する声もある。

日本映画監督協会の 崔 洋一 理事長は、「 映画の表現の自由が失われ、作り手が自己規制する空気が生まれないか心配だ 」 と話している。


過去、いくつか “ 問題作 ” と呼ばれる映画があって、規制を受けることはあったが、映画館での公開が中止に追い込まれたのは異例のことだ。

映画館側としては、右翼団体の街宣活動が行われたり、抗議電話が殺到するなどの影響を恐れ、「 営業上の判断 」 で中止を決めたらしい。

誰かが直接的に圧力をかけたわけではないけれど、前述の与党議員らが 「 反日映画 」 というレッテルを貼り、右翼を刺激したことは間違いない。

こうなると黙ってないのが “ 左翼系 ” の人々と、それに追随する新聞などの ジャーナリズム で、彼らは 「 表現の自由 」 を盾に声を荒げる。

日本国憲法 ( 私は信奉者じゃないけど ) 第二十一条にも、表現の自由は謳われており、検閲をしてはならないことが、たしかに明記されている。


では、この映画を公開すべきか否かというと、私は 「 公開すべきでない 」 という意見だ。

それでは、憲法によって保障された 「 表現の自由 」 に抵触するじゃないかという声も聞こえてきそうだが、まず、「 表現の自由 」 自体に矛盾がある。

たとえば、戦後の日本映画界で数多くの 「 戦争映画 」 が製作されてきたけれど、その大部分は湿っぽい 「 反戦映画 」 に属している。

作品のどこかに、「 戦争は虚しいね 」、「 人が死ぬと悲しいね 」、「 平和が一番だね 」 という要素が入っていない映画は、ほぼ皆無に等しい。

ごく一部、娯楽的な作品 ( 岡本 喜八 監督 の 『 独立愚連隊 1960 東宝 』 など ) もあるが、大部分は “ 日本の汚点 ” として戦争が描かれている。


表現の自由があったところで、「 日本は仕方なく戦争に巻き込まれただけで、鬼畜米英を相手によく戦った 」 といった映画は、作れないのである。

仮に、日本の将兵を英雄視して、南京大虐殺など無かったし、慰安婦なぞ存在しなかったという映画を作ったら、はたしてどうなるのか。

たちまち周辺諸国からは ボコボコ に叩かれ、深刻な国際問題に発展することが明白で、国内世論、とりわけ新聞各社は大騒ぎを始めるだろう。

反日映画の上映中止を 「 表現の自由 」 に抵触する大問題だと主張する ジャーナリズム が、好戦映画には 「 表現の自由 」 を認めないのである。

この場合、表現の自由よりも、太平洋戦争は 「 間違いなく日本が悪い 」 という “ 根拠の無い決め付け ” が優先され、上映は見送られることになる。


どんな映画でも 「 つくることは可能 」 だし、上映することも自由なのだが、では、なんでも 「 現実的に上映できるか 」 という点では、疑問符がつく。

たとえ合法的な作品でも、上映する時代や、場所における 「 国民感情 」 を無視し、思うがままにフィルムを回すべきではない。

憲法で保障された自由や権利を尊重する姿勢も大事だが、環境に配慮し、周りに不快感を与えず、無用な憎悪を生み出さないことも大切である。

すべて ジャーナリズム を疑えとは言わないが、彼らが 「 表現の自由 」 を持ち出したときは、そこに “ 誘導 ” や “ 偏重 ” が潜むことも多い。

表現の自由を侵すというが、「 大暴動が起きていることを国民に知らせない五輪開催国 」 よりは、ずいぶん マシ という事実も、広く伝えるべきだろう。






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2008年04月01日(火) ガソリン代 値下げの功罪



「 どんなことであれ、その結末を考えておくべきである 」

                 ジャン・ド・ラ・フォンテーヌ ( フランスの詩人 )

In everything one must consider the end.

                            Jean de La Fontaine



私の使用する ガソリン は、月平均、およそ 200リットル というところだ。

20円 ぐらい下がっても、1ヶ月あたり 4000円 程度の違いである。


ガソリン税の暫定税率の期限が切れ、20円前後の値下げをする店が現れはじめ、安くなったガソリンを求める消費者が、GSに列をなしているという。

減税前に仕入れた在庫を安価で販売するために、店側の利益は薄いが、特に、他店との競合が激しい地域では、値下げせざるをえないのだろう。

一ヵ月後、税率が元に戻されるのか、このまま維持されるのかは微妙で、どちらというと値下げを喜ぶ人よりも、市場の混乱に不安を抱く人が多い。

民主党は、国民の利益を代弁したかのように勝ち誇るが、国民の大半は、さほど恩恵を享受したとは感じていない様子だ。

おそらく、ほとんどの人は、ガソリン代の値下げが無い代わりに、住民税を少し安くしてくれるとか、お米を安く買えるほうが、むしろ喜ばれるだろう。


少なくとも一ヶ月間は、ガソリンが安く買えるということで、車からポリタンクなどにガソリンを移し替えて 「 買いだめ 」 をする御仁もいるそうだ。

ガソリンをポリタンクで保管した場合、気化してキャップ部分から漏れ出し、静電気などで引火する可能性があるから、これは実に危険な行為である。

たかが一ヶ月間、ガソリンを安く買えたところで、庶民の懐が顕著に暖かくなるわけでもないのに、そんなことで火事にでもなると、目も当てられない。

自民党との話し合いを拒絶したことで、民主党は暫定税率の “ 一時的な ” 中断に成功したが、これで本当に良かったのだろうか。

本気で 「 国民のため 」 を思うなら、とことん協議することによって、永続的な撤廃、縮小に尽力すべきではなかったかと、私は思っている。


テレビの街頭インタビューでは、ガソリンの値下げを喜ぶ人々の声を報じていたが、総じて 「 今月の給油は多くなるだろう 」 と予測されている。

せっかくだから遠出をするとか、普段よりもガソリンを使う計画の人が多いようで、公共交通機関を使う予定だったのを、マイカーに変える人もいた。

おそらく、彼らの多くは 「 地球温暖化 」 の話題や、それに大きく関連する 「 CO2 の削減 」 に無関心でないと思うが、一体、これはどうしたことか。

マイバッグ、マイ箸を揃え、「 地球に優しい 」 顔をしながら、たった 20円 の値下げで、排出ガスを出しまくるという “ 変わり身 ” には驚いてしまう。

先日、「 省エネ のために、電気製品の使用は深夜12時までにすべき 」 と主張されたブログが、深夜2時過ぎに更新されていたのと同じで、笑える。


民主党は、国民を “ 愚民 ” 扱いしているのか、なにかと目先の利益を餌にして有権者の気をひこうとし、事実、それに乗っかる人もいる。

しかし、今回の騒動では 「 大人の対応 」 が出来ないことや、将来に向けての 「 長期的な展望 」 に欠ける部分が露呈し、一気に株を下げた。

冒頭の名言が示す通り、何をやるにせよ 「 その結末 」 を考えておかないと、有権者の信頼を裏切るばかりか、多大な損失を招く危険がある。

いくら立派な船を準備しても、目的や、海図や、磁石を持たずして出航した場合、遭難したり、座礁したりして、結局、どこにも辿りつけない。

けして自民党に肩入れするわけではないが、十分な政権交代能力を擁する第二政党としては、民主党に 「 その資質 」 を見出せないのが実態である。






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