「 仮定とは危険なものである 」
アガサ・クリスティ ( 小説家 )
Assumptions are dangerous things.
AGATHA CHRISTIE
推理小説においては、最初に疑わしい人物を登場させることが多い。
信頼していた別人が真犯人だったというのも、珍しくない展開である。
民主党の若い代議士が、政局に “ 爆弾 ” を落とした。
逮捕された堀江被告が、昨年の総選挙前に自民党の武部幹事長の次男宛に、3000万円を送金するよう指示したメールが存在するのだという。
もし事実であれば、それが善いか悪いかはともかく、どのような理由でそうなったのか、武部氏なり自民党なりから事情を尋ねたいのは当然だろう。
政権交代をもくろむ民主党としては、与党の資質を問う絶好の機会を得たわけで、意気軒昂に国会へ提議したのである。
もちろん、与野党だけではなく、一般の有権者にも大いに興味深い話だ。
ところが、それが事実だと立証できるだけの “ 証拠 ” がみられない。
どこかに証拠品なり証人が存在するのかもしれないが、すべては指摘した議員の発言と、ところどころ黒塗りされた胡散臭いメモだけである。
ご承知の通り “ 疑わしきは罰せず ” は民主主義の大原則であって、いくら議員の話が巧みであっても、それだけでは誰を裁くこともできない。
逆に、「 証拠もないのに、特定の人物を名指しで中傷した 」 ということになると、議員側の責任問題であり、ただでは済まされないはずである。
堀江被告と同じく “ 風説の流布 ” であり、国会の権威を貶めた罪も含めて、かなりの罰則を適用されることが予想される。
この代議士はまだ30代半ばで、なかなかの男前だし、学歴やら主義主張などに共感できる点もあるので、個人的にはあまり攻撃したくない。
しかしながら、根拠の提示を求められ、それに応じきれないとなるや、みっともない弁明と屁理屈に終始し、なんとも情けない姿をさらけ出した。
世間では “ 小泉チルドレン ” と呼ばれる人々を嘲笑ったりする風潮もあるが、追い詰められた彼の言動は、それよりもはるかに “ バカっぽい ”。
与党から 「 事実である証拠を出せ 」 と追求されると、「 事実でない証拠を出せ 」 などと、耳を疑うような戯言を口にする。
情報提供者については、「 ネタ元を明かすと、身の危険がある 」 などと芝居じみた台詞を吐き、周囲を煙に巻ことうとする。
彼の言い分は、「 疑わしい人物は、証拠などなくてもしょっぴけばいい 」 という、戦前の憲兵隊、特高警察の発想と同じで、実に危険きわまりない。
しかも、捜査側が犯行を立証できなくても、容疑者側が無実を立証できなければ 「 犯人 」 だと決め付けられてしまうのである。
きっと彼自身は、このような馬鹿げた思想の持ち主ではないのだろうけれど、性格的に 「 窮地に追い詰められると弱いタイプ 」 のようだ。
また、この証拠なき 「 噂話 」 には、確たる根拠がなくても彼を陶酔させて魅了する、何らかのエッセンスが含まれていたのだろう。
彼の年代では、山本リンダさんの 「 噂を信じちゃいけないよ♪ 」 という歌も知らず、教訓として心に刻まれていなかったのかもしれない。
正義感を持つのは良いことだが、根拠を示せない話はすべて 「 仮定 」 であり、可能性として議論するのはよいが、断定的に語るべきではない。
それを語る場所がトイレなら 「 独り言 」、居酒屋なら 「 噂話 」 で済むが、国会なら 「 名誉毀損、偽証、侮辱 」 と捉えられても仕方がない。
確たる証拠を出すと 「 情報提供者が危険だ 」 というが、それが事実なら、この問題を国会へ出した議員こそ、情報提供者を危険に晒したはずだ。
今後、どのような展開が待ち受けているのか不明だが、決定的な証拠が出ないかぎり、議員の進退が問われる結果になるだろう。
いわゆる 「 ガセネタ 」 を信じて支持した民主党は、前回の総選挙に続いて今回もとんだ 「 赤っ恥 」 で、しばらくは何を言っても信憑性を疑われる。
赤っ恥をかいたのは、民主党だけではない。
この話題に触れ、自分のブログを持つ素人やプロ市民の中には、「 事態の背景には、実は巨悪が潜んでいるんですよ 」 などの記述をした人もいる。
それもすべて 「 仮定 」 を基にして話を組み立てた推論であって、当たればそれも面白いが、事実無根となれば単なる 「 嘘つきの赤っ恥 」 で終わる。
あれだけ検察がライブドアを一斉捜索し、サーバーに遺されたメールまでも調べ上げたのに、「 そんなメールの存在は知らない 」 と証言している。
今週も引き続き討議されるだろうが、もし事実だったとしても、証拠を提示できる段階で持ち出すべき話で、国会を空転させた民主党の責任は重い。
2006年02月01日(水) |
大阪市のホームレス問題 |
「 世に生を得るは事を為すにあり 」
坂本 竜馬 ( 土佐藩士 )
To be born into this world means you've come to accomplish a mission.
RYOMA SAKAMOTO
すべて人間には 「 死ぬ権利 」 は無いが、「 生きる権利 」 を有している。
当然、権利には義務が伴うので、それは同時に 「 生きる義務 」 でもある。
大阪市内を生活の拠点にしていると、ほぼ毎日 「 無宿者 」 を目にする。
浮浪者とはかぎらず、風呂に入り、それなりに身奇麗にしている者、労働の対価として収入を得ている者もいる。
昔はなかった呼び名だが、いつのまにか彼らは 「 ホームレス 」 と呼ばれるようになり、一種の生活形態として認知されるようになってきた。
彼らが 塒 ( ねぐら ) にしているのは、公園や地下道など、公共の施設や建物の一角で、家賃や使用料を支払ってはおらず、不法占拠をしている。
野外の場合はダンボールやブルーシート、あるいはテントなどで雨露をしのぎ、なかには調理器具などを使って炊事をする 「 本格派 」 も居る。
アメリカでは、経済力はあるのだが一箇所での定住を嫌って、キャンピングカーやクルーザーを住まいとし、移動生活を楽しむ人たちがいる。
彼らも 「 ホームレス 」 なのだが、日本にはほとんどいないタイプだ。
日本での大半は、あまり働かない、あるいは働けないといった事情に加え、施設への入所や、生活保護などの措置を拒んでいる人たちである。
あるいは、「 何かから逃れている 」 というタイプもあり、たとえば、借金取りから逃れたり、一時的に身を隠す必要がある人物もいる。
そればかりか、指名手配犯が潜伏しているケースもあるので、単なる貧しい人々として総称し、処遇を判断するには問題がある。
今に始まったことでもないが、普段は黙認されている彼らを、自治体が威力によって排除しようとする時がある。
大抵は、何かのイベントがあったり、工事などを行うときだが、特に、外国人観光客が大勢押し寄せるような行事があると、にわかに激しくなる。
1990年、鶴見緑地で 『 花と緑の博覧会 ( 通称:花博 ) 』 が行われた際には、かなり大規模に地下街や公園からの “ 閉め出し ” があった。
あるいは、彼らの存在が環境に悪影響を与えたり、治安を乱したり、悪臭、美化の阻害などによって、行政が動かざるを得ない場合もある。
当然、公園や公道の管理責任は自治体にあるので、地域住民からの苦情が多く、事故や犯罪の発生する恐れが強ければ、黙認などできない。
差別用語になるけれども、私が子供の頃 ( 35年以上前 ) には 「 乞食 」 と呼ばれる人たちを見かける機会が多かった。
ホームレスは彼らと違い、物乞いをしたり、他人からの施しを受けようとすることはなく、何らかの方法によって自力で生活している。
昔の乞食は、戦争で負傷した人や、戦災孤児のように、身体が不自由だったり、身寄りが無いために、やむを得ずそうなった気の毒な人が多かった。
今のホームレスは、努力次第で市民生活に参画できる人が大半で、事実、施設に入って再起を目指し、退所後に社会復帰した人も珍しくない。
つまりは、「 現状に満足している 」 のか、「 努力を怠っている 」 という人が大勢を占めているので、あまり気の毒な感じはしないのである。
人は皆、生きる権利があり、今の自分が恵まれた環境にあるからといって、貧困に苦しむ人に対し 「 一切、手を差し伸べない 」 のはどうかと思う。
個人レベルでは 「 実力主義 」、「 成果主義 」 に大賛成だが、国家レベルにおいて 「 弱肉強食 」 の構図が強すぎるのは、いい結果を生まない。
本当に成熟した政府というのは、「 努力した人は報われ、そうでなかった人も、ある程度の生活は保障される 」 仕組みが理想的であろう。
ただ、だからといってむやみに金品を与えたり、公共の場に住まわせたり、あるいは私財を投げ打って支援する方法が正しいとは思えない。
そんなことをしても、すべての人間を公平に救済する機会は生まれない。
その問題を公平に解決するために 「 福祉 」 という制度があり、富に応じた税を徴収して、弱者を公平に救済する主な財源に充てているはずだ。
もちろん、「 税金を払っているのだから、弱者に温情などかけなくてよい 」 という話にはならないが、ある程度、困っている人は助けられる。
ところが、ホームレスの多くは、国や自治体の準備した救済措置や、社会復帰への支援を拒み、好き勝手に野宿をして奔放に暮らしている。
つまり彼らは、「 自分たちの怠慢とわがままによって、現在の境遇にいる 」 わけで、国が彼らを見捨てたり、社会が彼らを突き放したのではない。
彼らを支援するという団体もあるが、彼らの生活を支援しているのではなくて、彼らの 「 主張 」 を支援しているだけのことが多い。
どこかの離島にでも住んでいるのならともかく、彼らは一般市民と同じ街に住み、自分たちだけで勝手に決めたルールで暮らしているのである。
定住せず浮浪すること、公共の敷地を占拠することなど、一般市民に許されない権利を、ホームレスだからという理由で与えることはできない。
たとえば疫病が流行った場合に、けして衛生的ではない生活を続ける彼らが、公園に遊びに来た幼い子供たちへの 「 媒体 」 になる危険もある。
皆さんの大切なお子さんが、そんな理由で命を落としたとしても、「 公園は彼らの住居なので、遊びに行った子供が悪い 」 と納得できるだろうか。
国民は等しく、最低限度の生活を送る権利を有しているが、それは同時に 「 最低限度の生活をする義務 」 でもあり、それに違反してはならない。
憲法13条には、国民は個人として尊重され、生命、自由及び幸福の追求に対する権利があると謳われている。
ただしそれは、「 公共の福祉に反しないかぎり 」 という注釈付きであり、公園に住んで浮浪したいという彼らの希望を、叶えるわけにはいかない。
収容施設を拡張すると同時に、もっと徹底的に不法占拠を撤廃し、現状に甘えさせないことこそが、将来的には真の救済措置となるだろう。
公園などから彼らを閉め出すことと、「 生きる権利を奪う 」 ことは別問題であり、それを混同して判断するのは、誰のためにもならない。
ただ、大阪市側にも問題があると思うのは、「 なぜ、この寒さ厳しい時期に退去をさせるのか 」 という点で、少し人道的配慮に欠けていると思う。
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