2006年01月30日(月) |
前向きか後ろ向きかは、性格の問題ではない |
「 危険を冒せ、人生はすべてチャンスだ。
ふつう、一番遠くまで辿り着く者は、大胆に行動する意欲のある人だ 」
デール・カーネギー ( アメリカの著述家 )
Take a chance! All life is a chance. The man who goes the farthest is generally the one who is willing to do and dare.
DALE CARNEGIE
人生を楽しむためにも、健康で豊かな生活を過ごすことが望ましい。
そのためには、すべてが 「 守り 」 だけでは実現が難しいだろう。
すべてが守りというのは、すべてに 「 否定的 」 な姿勢のことだ。
やれない、やらない理由ばかりを列挙するのは、愚か者の所業にすぎず、「 こうだからできない 」 ではなく、「 こうすればできる 」 と常に考えたい。
同じ人生でも、物事を前向きに考える人と、後ろ向きに考える人では、精神の健康度にも差があるし、それは肉体的健康にも大いに影響を与える。
人生で本当に大事なことは、失敗をしないという 「 防御 」 ではなく、前向きに行動する姿勢と、失敗をしても立ち直るという 「 回復力 」 にある。
何に挑戦するかは人それぞれだし、どのような選択が望ましいとは言えないが、何を選ぶとしても、その根幹は普遍的なもので変わりはしない。
子供や若者に対して、あるいは子供を持つ親御さんには、とにかく何でもいいからスポーツを経験するように、私は勧めている。
重要なのは、スポーツを 「 する 」 のではなく、「 経験する 」 という部分で、一定期間、情熱の大部分を傾けて没頭することを指している。
大記録を樹立するとか、全国大会に出ようとか、そのような水準でなくても構わないが、生半可ではなく 「 真剣 」 に取り組んでほしいのだ。
自分の限界に近いところまで鍛錬した者だけが、タフな肉体と精神を手に入れることが出来、それは将来において、必ず役に立つはずである。
タフな肉体と精神があれば、厳しい状況にも 「 へこたれない 」 わけで、それこそが健康の証として、元気の源にもなる。
もちろん、だからといって不摂生をすれば病気にもなるし、鍛えた後の自己管理も重要で、自分の健康を過信してはいけない。
また、同じく若者や子供たち、あるいは親御さんに話しているのは、月並みかもしれないが 「 学歴を身に付けなさい 」 ということである。
ここでいう学歴とは、「 学校歴 」 のことではなくて、大卒だとか高卒だとか、どんな大学だとかは問題にしていない。
中卒でも構わないが、「 他人に負けないだけの知恵を身に付ける 」 ということが重要で、偏差値の高い学校を出てもバカでは話にならない。
この 「 知恵 」 というのは、もちろん 「 知識 」 のことではない。
さて、以上で 「 心身の健康 」 と 「 知恵 」 を身に付けたら、大抵の場合は 「 豊かさ 」 も手に入るのだが、一応、それにも触れておこう。
ホリエモンのように 「 お金で買えないモノはない 」 とは言わないが、ある程度のお金はあったほうが、充実した人生を過ごすには便利である。
そのためには自分に合った仕事を選び、努力して成果を挙げ報酬を得て、蓄財を有効に運用し、将来に備えて備蓄する方法が一般的であろう。
お金がすべてではないが、経済的に困窮しすぎてしまうと、望んだ生き方ができなかったり、人生の選択を誤る危険が大きい。
前向きに生きるためにも、お金が無いことは大きな妨げとなるのである。
これら 「 心身の健康 」 と 「 知恵 」 と 「 経済力 」 のどれかが不足していると、人間は不安を感じやすくなり、どうしても後ろ向きな発想に陥りやすい。
逆に、心身が健康で、知恵があり、お金があるならば、人生を辛く感じたり、不安な目で将来を眺める習慣はつきにくいものである。
人生に積極的か、消極的か、あるいは、楽観的か、悲観的かというのは、性格の違いだと思われやすいが、むしろこの違いのほうが大きい。
言い換えれば、過去の怠慢によって、このどこかにコンプレックスがあったり、欠落した部分があると、前向きに人生が楽しめなくなるのだ。
こういう言い方をすると、「 では、障害者は人生を楽しめないのか 」 などと反論する人もいるが、その人なりに努力した実感があればそれでいい。
もう一つ、人生で大事なものを付け加えるならば、それは、趣味とかライフワークなどの 「 生きがい 」 的なものだろう。
仕事でも知性や教養や品格を身に付けることはできるが、お金を目的としない部分で、自分らしさを発見したり、純粋に楽しんだりできる術となる。
これは 「 自分らしい個性 」 という要素が重要で、きっかけは他薦でもよいが、たとえ親からでも、強要や、過度な影響は受けないほうがいい。
こういう趣味がいいとか、他人に価値観を押し付ける人もいるが、参考程度に聞くぐらいにして、すべては自分で決めるべきものである。
また、不健康な精神の人たちにとっては、趣味も 「 宗教的 」 な心の拠り所になってしまっていて、自分と違う趣味を見下したり、否定することが多い。
冒頭の “ Take a cance! ” を 「 チャンスをつかめ 」 ではなく、「 危険を冒せ 」 と訳すのは、無謀な挑戦をしろという意味ではない。
ただ、「 チャンスをつかめ 」 では、道に落ちている幸運を拾いなさいという程度にしか意味が伝わらないと思うので、あえて 「 危険 」 とした。
チャンスというものは、最初からそこにあるのではなく、自分の熱意と行動から産み出すものであり、逆に、その気になればどこにでも存在する。
もちろん、失敗もつきものだが、それを怖れていては幸福にはなれないし、日頃の鍛錬と、立ち直る気力さえあれば、何も怖れることはない。
前向きに生きて幸せになりたいなら、性格を変えることなど考えず、心身を健康に保ち、一生懸命に働き、お金を大事にさえすれば簡単なのである。
「 毎日をその日の収穫高で判断せずに、まいた種で判断しなさい 」
ロバート・ルイス・スティーブンソン ( イギリスの作家 )
Don't judge each day by the harvest you reap, but by the seeds you plant.
ROBERT LOUIS STEVENSON
有名な 『 宝島 』 や 『 ジキル博士とハイド氏 』 などの作家だ。
元々は弁護士で、肺病の療養でサモアに住み、作家活動を始めたという。
お金というものは本来、稼げば増えるし、使えば減るのが普通である。
しかし場合によっては、持ち主が気付かないうちに、何もしないのに増えたり、あるいは減ったりすることもある。
たとえば、銀行預金の利子や、借金の金利が変化する場合などだ。
お金そのものではなく、広く 「 資産 」 という見方をすればさらに、外部的な要因によって価値が変動するケースは多い。
自分の保有する不動産の価値、国債、有価証券、外貨、貴金属など、相場によって価格が変動する諸々の資産が、その可能性を秘めている。
最近は日本でも、個人で株の取引を始める人が増えてきた。
個人資産の運用面をみると、アメリカに比べて日本では、銀行預金の比率が圧倒的に高く、株式投資の構成比が今までは低すぎたのである。
株の場合は値下がりしたり、あるいは企業が破綻した場合などに 「 紙屑 」 と化してしまう危険があるが、銀行なら安心と思う人が多いのだろう。
たしかに、日本の金融システムを鑑みれば、銀行は過保護に守られているので、その考え自体は間違っていない。
ほとんど 「 増やす 」 ことは難しいけれど、減る心配も少ないので、無難に財産を維持・管理していくには、相応しい方法ともいえる。
時流的にも、最近までデフレ傾向が続いており、銀行預金は利点が多い。
インフレの場合は、物価の上昇速度に利子がついていけないため、数年後に同じ金額が還元されても、価値が目減りしているためである。
しかし、やはり 「 預けているだけで大幅に増える 」 ことなど期待できないので、これだけでは楽しみがないし、将来への備蓄として心細い。
だから最近は、銀行預金一辺倒ではなく、ある程度は株を買ったり、他の金融商品に投資する人たちが日本にも増えてきた。
何事もバランスが大切で、「 すべてを失う 」 ほどに傾注しなければ、株の取引もさほど、素人が手を出せないほどの恐いことではない。
私自身も、銀行を 100% は信用していない ( 日本の銀行で、能力の高い人間が育つとは思えない ) し、資産は分散して運用する主義である。
当然、ある程度の株式も保有しているので、今回の 「 ライブドア騒動 」 には少なからず関心があり、市況全体の動向に注意を払っている。
ライブドアや関連企業の株は持っていないが、こんな時期は、あおりを受けて大幅に値動きする可能性はあるので、やはり気になるものだ。
ただ、私の場合は、ギャンブル的に短期の投機で儲ける部分と、値上がりしても売る気がなく長期的に保有する部分を使い分けるようにしている。
長期で保有している株には、「 その企業の成長に自分の夢を託す思い 」 を込めているわけなので、単に含み益だけに留まらない期待がある。
昔ほど多くはないが、こんな時代にでも 「 素人が株に手を出すと危ない 」 みたいなことを言う人がいて、また、それで不安になる人もいる。
こんなのは、明治時代に 「 写真を撮られると、魂が抜かれてしまう 」 などの迷信が流布されたのと同じく、今では時代錯誤以外の何物でもない。
たしかに、たとえば手探りで全財産を、博打で知らない企業に賭けるなどという暴挙に出れば、一瞬にして破産してしまう危険はある。
しかし大部分の投資家は、それほど愚かなわけではなく、慎重に分析して、あらゆる角度から見極め、大切なお金を委ねているのだ。
他の資産運用とのバランスを考え、計画的に取り組めば、株式投資は怖いものでもないし、多少のリスクはあるが、将来への備えにもなる。
だいたい、「 素人が株に手を出すな 」 と言うタイプは、民主党議員と同じく、「 自分以外の一般的な国民はバカ 」 だと思い込んでいる人間に多い。
なぜ 「 民主党議員と同じ 」 かといえば、去年の総選挙で自民党が大勝し、民主党が大敗したのは 「 国民がバカ 」 なせいだと思っているからだ。
素人では情報が足りないし、知識も不足しているというのは、たしかにもっともな指摘だが、それならば情報を集め、勉強すればいいのである。
株を始めることで勉強をし、知識が増えるのであれば、それも金銭以外に収穫となる面が大きいわけだから、大いに結構な話ではないか。
むしろ、周囲の上手くやっている連中をみれば、機関投資家よりも個人のほうが、貴重な資金を丁寧にやり繰りするので、大きな失敗は少ない。
安く買って値上がりしたら売ろうとするのではなく、「 配当 」 の見込めそうな優良企業に長期的な投資を続ける方法は、比較的リスクが少ない。
それほど大儲けは期待できないが、銀行に預けているよりはいいし、株主ならではの特典もあるので、お金に余裕がある人にはお勧めしやすい。
私としては、ライブドアのように話題性はあるが 「 無配 」 だった企業よりも、地味でも堅実に配当を出している企業を評価し、買うことが多い。
投機的に値上がりしたら売ることを目的で買う場合は、よほど信頼できて、「 あまり多くの人間が知らない情報 」 を入手したときだけにしている。
冒頭の名言の示す通り、できれば長期的視野で判断し、短期間で大儲けをしようとしないことが、株式投資の極意ではないかと思う。
2006年01月28日(土) |
児童心理からみた堀江氏 |
「 実際に持っているお金を勘定できるのであれば、
本当の金持ちではない 」
ジーン・ポール・ゲティー ( アメリカの石油産業による大富豪 )
If you can actually count your money, than you are not really a rich man.
JEAN PAUL GETTY
同じ人の事を3回連続して書くのは、これが初めてだと思う。
堀江氏について、私が興味深く感じている事柄を、今夜も考察する。
彼は以前、「 お金で買えないものなどない 」 と豪語していたらしい。
この発言を聞いて、彼を嫌いになった御仁も多いようで、私の周囲の何人かも、その言葉から悪いイメージを感じ始めたという。
本音かどうかはともかく、大企業の経営者が安易に吐くべき台詞ではないように思うし、これでは人格を疑われても文句は言えない。
ただ、彼自身は本当に、そんな風に考えていたのだろうか。
また、その発言がもたらす 「 イメージダウン 」 について、彼は計算していたのであろうか。
この発言から、彼を 「 拝金主義 」 だとか、お金に細かい狡猾な大人としてイメージする人も多いが、むしろ私は 「 まったく逆 」 である。
自分に対する風当たりを気にする大人は、普通、このような暴論を吐かないものであり、それを平気で言ってのけられるのは 「 子供 」 の証なのだ。
この 「 お金で買えないものはない 」 という言葉の裏には、とても無邪気な 「 お金で何でも買えたらいいな 」 という妄想的願望が含まれている。
実社会には、「 お金を持ってきても、売ってもらえない 」 場合があることを、彼自身は商売を始める前から、十分に知っていたはずだ。
事実、数年前にプロ野球チームを買おうとして失敗したときにも、「 お金を持っているだけでは買えない 」 世界があることを、痛感したはずである。
親戚中を駆け回りお年玉を集め、普段は ¥500 ぐらいしか持っていない小学生が、にわかに ¥100,000 の大金を獲得したとしよう。
彼は、「 これだけあれば、何でも好きなモノが買える 」 と喜んで、有頂天になるのだが、それでも買えないモノがあるぐらいは、十分にわかっている。
金額の大小を考えないとしても、空の星や雲、過ぎていく時間、あるいは 「 お金に興味の無い人の心 」 までは買えないことも知っている。
だが、せっかく大金を集めたのに、たいして運命が変わらないことを認めてしまうのは、なんともつまらない話である。
だから、妄想の世界で王となり、すべてを支配できると感じていたいのだ。
そう考えると、彼の繰り返してきた M&A も、子供が酒瓶の王冠を集めたり、シールを収集したりする 「 コレクション遊び 」 だったのかもしれない。
彼よりもっとお金持ちの ビル・ゲイツ も、発言や仕草、仕事の仕方などに、どこか子供っぽい雰囲気の漂う場面を目にすることが多い。
子供の部分を残していることが悪いとは思わないし、むしろ新鮮で斬新な、クリエィティブ溢れる感性が期待できる。
ところが、子供にも 「 賢い子 」 と、そうではない子がいるわけで、おとなしく上品で、利口にしていなかった子供には、罰が用意されているものだ。
その罰は昔から、しばらく 「 押入れに閉じ込めて、お仕置きをする 」 ものと相場が決まっており、そう考えるとこの結末は順当なのである。
2006年01月26日(木) |
自民党はライブドア堀江氏を選挙に擁立した責任をとるべきか |
「 口を開いてすべての疑いを晴らせてしまうよりは、
黙っていてバカではないかと思われたほうがいい 」
エイブラハム・リンカーン ( アメリカ合衆国第16代大統領 )
Better to remain silent and be thought a fool than to speak out and remove all doubts.
ABRAHAM LINCOLN
農夫の子として生まれ、独学で法律を学び弁護士となり、大統領に就任。
奴隷解放宣言を行い、南北戦争を終結させたアメリカ最大の英雄である。
他人のあら探しを熱心にはげむ人は、たいてい、自ら努力することが疎かになりがちなもので、はたから眺めると滑稽に映る。
そんな連中がピーチク・パーチクと中傷めいた批判を繰り返す際に、それを真正面から受け止めて反論しても、あまり得るものなど無い。
そういう時は、「 はいはい、すいませんね 」 と笑いながら聞き流していればいいわけで、マトモに相手にしないのが得策である。
最初のうちは、真剣さが足りないとか、無責任だなどと怒鳴っているだろうが、中身の薄い批判を繰り返しているうちに、だんだん飽きてくるはずだ。
能力の低い連中が何を言おうと、気にする必要などないのだ。
昨年秋の衆院選で、ライブドアの堀江氏 ( 元社長と言うべきか ) を擁立したことについて、自民党や小泉首相に対し、批判の声が上がっている。
特に民主党の前原代表らは、「 それみたことか 」 とばかりに語気を強め、与党としての責任を追及しようと躍起になっているようだ。
左巻きのメディアや、体制批判しか能のない一般のヒネクレ者たちも、それに追従する形で、「 前代未聞の不祥事 」 であるかのごとく騒いでいる。
自民党としては、ことさらに何の責任も負う必要はない。
衆院選にて逮捕者を擁立したことが 「 前代未聞の不祥事 」 であるならば、さらに大きな責任を問われるのは民主党のほうである。
昨年の11月、当時民主党に在籍していた西村真悟衆議院議員が、弁護士資格のない秘書に名義を貸し、見返りに報酬を受けた容疑で逮捕された。
その後、神奈川10区で落選した計屋圭宏前衆議院議員 ( 民主党 ) が、秘書に運動員を買収させたとして、公職選挙法違反容疑で逮捕された。
また、衆院愛知7区で落選した小林憲司前衆議院議員 ( 当時民主党 ) は、総選挙後に覚せい剤を隠し持っていたとして現行犯逮捕されている。
この他にも、比例四国ブロックで復活当選を果たした五島正規衆院議員 ( 当時民主党 ) は、公職選挙法違反 ( 買収 ) で政策秘書が逮捕された。
党を挙げて擁立した候補が逮捕されたのは、自民党だけではないのだ。
民主党は、わずか3ヶ月の間に、前職2人、現職1人と、3人もの逮捕者を出し、その罪状は、買収、覚せい剤、非弁活動と、多岐にわたっている。
もちろん当時、党としての責任を問われたのだが、前原代表は 「 党の体質に問題があるとは思えない 」 などと、簡単に追求をかわした。
これが自民党なら、おそらく蜂の巣をつついたような大騒ぎに発展しただろうが、選挙で惨敗直後の民主党だったので、マスコミの追求も寛容だった。
この事実を盾にすれば、今回の堀江氏擁立問題で民主党に偉そうな口を叩かせないという方法もあるだろうが、それは大人の解決策ではない。
与党も野党も、反省すべきところは反省して、お互いに政治倫理を高めていかねばならないのだから、批判の報復による泥試合は好ましくない。
前原代表が、堀江氏擁立の責任として 「 小泉首相は国民に謝罪せよ 」 と言うのであれば、本来、自らも責任をとって退陣するべきところなのである。
他人のあら探しが得意な “ 批判屋さん ” の特徴は、「 他人に厳しく、自分に甘い 」 というところで、それ故に彼らは人望が薄く、頂点へ登れない。
自らを厳しく律したうえで、他人を批判するならまだしも、他人のミスに乗じて 「 鬼の首でもとったかのように 」 わめきちらすだけである。
逆に、相手の落ち度 ( 自分と同じ種類の失敗 ) を知りながらも、それには言及しない自民党、小泉首相の態度は、ある意味、立派であろう。
そういうわけで、国民に謝罪するかどうかはともかく、自民党や小泉首相が、民主党や前原代表よりも、この問題で批難される理由にはならない。
2006年01月24日(火) |
ライブドア堀江社長に欠けていた部分 |
「 若者よ、私の成功の秘訣は、若くして自分は神ではないと
悟ったことだ 」
オリバー・ウェンデル・ホームズ ( アメリカの医者、作家 )
Young man, the secret of my success is that at an early age I discovered I was not God.
OLIVER WENDELL HOLMES
若者は、未来への希望と大志を抱き、雄々しく苦難に立ち向かうべきだ。
ただし、それを成功に結びつけるには、少しの 「 謙虚さ 」 が求められる。
ライブドアの堀江社長が逮捕され、列島上の話題を独占した。
何様であろうと、法を犯した者が罰せられるのは当然で、氏の嫌疑が事実であるならば、司法の鉄槌が下されることになるだろう。
巷では、彼の存在を好ましく思わない 「 何者か 」 が、目障りになってきたので圧力をかけ、社会的に葬り去ったのではないかという噂もある。
真偽の程は定かでないけれども、「 やり過ぎ、目立ち過ぎ、嫌われ過ぎ 」 と三拍子揃った強引な振る舞いが、多くの敵を作っても不思議ではない。
そのような存在の有無に関わらず、とにかく違法行為に手を染め、それが白日の下に晒されたのだから、相応の償いを強いられることになろう。
私の嫌いな 「 勝ち組 」 という言葉があるが、多くの人やメディアが、堀江氏の人物評価に使用していたようである。
逮捕され 「 負け組 」 になったかどうかは知らないが、少なくとも彼は大きな失策によって、玉座から引きずり下ろされる結果となった。
彼が失敗した最大の原因は、彼自身が少し 「 謙虚さ 」 に欠けていたという部分にあったのではないかと、私は推察している。
私が唱える 「 謙虚さ 」 とは、他人に迎合しなさいとか、妥協しなさいとか、愛想をよくしなさいとか、礼節を重んじろといった、説教じみた話ではない。
礼儀作法とか協調性の問題ではなくて、「 怖さを知る 」 という意味だ。
不安ばかりで先へ進めない人も問題なのだが、物事の怖さを知らない人というのも、結局はどこかで失敗する危険性が高い。
誇り高く、自信をもって行動する姿勢は大事だが、「 裏付けのない自信 」 というものは、ただの 「 過信 」 に過ぎないのである。
企業買収や様々な商取引において、たしかに彼は多くの成功を収めてきたのだけれど、その成功は彼にとって 「 自信の裏付け 」 になっていたのか。
つまり、まったく同じやり方で、必ず次も成功するという 「 方程式 」 のような企業ノウハウ、あるいは個人ノウハウを培っていたのだろうか。
本来、ビジネスにはそれが重要なのだが、たまたま外見上は、それがなくても成功し続けてきたので、「 過信 」 を持ってしまったのではないか。
また、ビジネスで大事なのは 「 正しい方法で成功する 」 という、ごく当たり前の原則であり、これを軽視するのも 「 謙虚さ 」 に欠けている。
私の知人には、銀行、証券、その他金融業界で働いている人間もいるが、たとえば、製造業で働いている人間に比べて、少し感覚が違うようである。
それが悪いとは言わないが、他人のお金を運用して利益を挙げたり、右から左に動かして利益を得る感覚と、いわゆる 「 モノづくり 」 の思想は違う。
金融業では 「 利益 」 や、それに伴うサービスなどの価値だけが重要視されるが、製造メーカーは 「 商品の評判 」 など、様々な企業価値がある。
そういう意味では、投資業を本業としたライブドアのみならず、銀行や証券会社などもすべて、何も産み出さない 「 虚業 」 なのである。
問題は、このような 「 虚業 」 に対して、実態の数十倍にも及ぶ評価を与えてしまった株式の仕組みにもあるが、堀江氏自身もそれに溺れてしまった。
会社の値打ちとは、その会社がどのようなサービスや製品を生み出したり、あるいは流通させたり、世の中の役に立っているかどうかにある。
堀江氏の場合、それなしに、「 儲かっているんだから成功している 」 と豪語していたようだが、その論理には 「 次も成功する 」 という保証がない。
評判がよくなくても 「 儲かっているからいい 」 などとうそぶき、自分たちのやり方が正しいかどうかという点に、一切の疑問を持たなかった。
この裏付けなき 「 過信 」 が、彼らの落とし穴であり、最大の敗因である。
堀江氏を天才だとか、頭がいいと評価する人もいるが、そうは思えない。
本当に賢い人間、仕事のできる人間は、「 正しい方法で成功する 」 ことを目指すし、そのために必要な 「 謙虚さ 」 を身に付けているものである。
彼の立志伝に憧れ、同じような 「 濡れ手に粟 」 の大成功を夢見る若者に警鐘を鳴らすためにも、今回の逮捕劇は効果的だったかもしれない。
ただ、たしかに 「 1 + 1 = 100 」 みたいな成功を求めるには、並大抵の方法では難しいし、地道に稼いで大金持ちになることも容易ではない。
経営は 「 継営 」 であり、継続的に儲けるためには何が必要なのか、彼の失敗から学ぶべき点は多く、それができた人には成功が待っているだろう。
2006年01月22日(日) |
米国産牛肉が危険と言えるほど、我々の生活は安全か |
「 非の打ち所がないほどうまくなるまで待つなら、
人は何もしないだろう 」
ジョン・H・ニューマン ( イギリスの神学者 )
A man would do nothing if he waited until he could do it so well that no one could find fault.
JOHN H.NEWMAN
冒頭の言葉は、「 何も行動しないことの愚かさ 」 を指している。
批判ばかりで、自分から何も行動しない人間は、世の役に立たない。
企業でも、どこでも、「 やらない、やれない 」 原因ばかりを探して、とにかく問題を先送りにしようとか、積極的に動かない人間がいる。
世の中には 「 絶対に安全 」 といった状況のほうが珍しく、大半は何らかのリスクを負って何かを手に入れる仕組みになっているはずだ。
ところが、ほんの僅かでも不安要素があると、過剰に反応して、危険だから近づかないほうがいいと、女々しく騒ぎ立てる連中がいる。
過保護に育てられたり、身体面、精神面のコンプレックスが強かったりするタイプに多いが、とかく世の中にとっては迷惑な存在となる。
本来、危険の警告とは、リスクと効果の両面を判断して行われるべきだが、わけもなく騒ぎ立てるのは、単なる狂人の所業である。
米国産牛肉の輸入が再開されたが、その一部から 「 脊柱 ( 背骨 ) 」 の付いた状態のものが見つかり、再び禁輸が長期化する可能性が出てきた。
背骨は脳などと同じく、狂牛病問題で 「 特定危険部位 」 に指定される個所であり、それを含むと、日本向けの輸出基準に抵触する。
これは明らかに貿易協定に違反しているのだから、農林水産省や外務省が、アメリカ側に対して激しく抗議したのは当然の対処である。
約束通りに特定危険部位の除去をするか、あるいは日本側の輸入条件 ( 基準 ) が変更されないかぎり、輸入を再開するわけにはいかない。
それを黙認するなどということは、国の面子にも関わる非常事態だ。
しかしながら、だからといって今回輸入された牛肉が 「 特に危険 」 なものだとは思えないし、それを食べた人間が死ぬ確立は、ほぼ 0% だろう。
大事なのはこの点で、「 特定危険部位の含まれた牛肉 」 を、さも 「 狂牛病に感染した牛肉 」 であるかのように、同列に捉えるのは愚の骨頂である。
実際のところ、アメリカの畜産事業者が、背骨の付いた牛肉を日本向けに輸出するのはNGでも、アメリカ国内で販売することには何の問題も無い。
貿易上は差し障りがあるけれど、誰もが有害で危険と承知している食品を輸出しようとしたわけではないことを、きちんと把握しておくべきである。
つい最近も、私はアメリカ国内で牛肉をたらふく食べたが、ちょっとお腹が出たくらいで、現在も、おそらく将来も、それで病気になりそうにはない。
もちろん、「 まったく心配がない 」 わけではない。
ごく僅かな確率だが、アメリカの 「 骨付き肉 」 を食べた日本人が、BSEに発病して死に至るケースもあり得るだろう。
もし、過去に起きた集団食中毒などの 「 食品が原因とされる死亡事故 」 と同じように、社会を震撼させる事態を引き起こすのなら大問題だ。
しかし、現時点までの研究結果や、あるいは実際の人的被害件数などから鑑みて、それほど 「 現実的な危険が認められない 」 のも事実である。
つまり、可能性として 0 ではないけれど、今すぐアメリカの牛肉を食べたからといって、病気になったり、あるいは死に至るとは考え難いはずだ。
先に述べた通り、「 契約上、違反している 」 という意味では、今回の骨付き牛肉が含まれた件に関して、アメリカに強くクレームを申し入れるべきだ。
しかしながら、農林水産省は 「 危険を水際でせきとめた 」 ような表現を避けるべきだし、マスコミも冷静に対処するほうが望ましい。
元々、そこには 「 危険 」 など無かった可能性のほうが圧倒的に高いのだから、鬼の首をとったようにまで訴える必要はまったくない。
アメリカに 「 骨付き牛肉を輸出しやがって、日本人を殺すつもりか 」 などと、幼稚園児レベルで激昂しても、恥を晒して嘲笑されるだけである。
それこそ、首相が神社に参拝しただけで、「 お前らはまた軍備を拡張して、世界を相手に戦争するつもりだな 」 と愚弄する連中と同じ次元だ。
国民を死なせたくないなら、交通事故の死傷者を減らしたり、人格障害者による犯罪を防いだり、自殺者を減らす工夫をするほうが優先課題だ。
なぜならば、それらが原因で死ぬ人間の数は 「 BSEによる死傷者 」 よりも圧倒的に多いからで、誰にでもわかる当たり前の話だ。
けして少ないから放置してよいというわけではないが、現時点で 「 それほど大問題とはいえない 」 のは明白な事実である。
財布からお金がこぼれ落ちたとき、大量の一万円札が風に舞って飛散しているのに、必死で一円玉を追いかけていくのも馬鹿げた話だ。
どうでもいい問題とはいわないが、アメリカから牛肉を輸入することに関する危険性など、せいぜい、いまの日本にとっては 「 一円玉 」 である。
食品に安全性を求めたい気持ちはよくわかるが、さしてアメリカの牛肉だけがことさらに危険だとは、まったく根拠のない話である。
それを大げさに批判するのは、左翼系メディア、反資本主義的思想の持ち主か、強大国に対して批判的な、歪んだ負け犬根性の持ち主などである。
彼らの弁によると、片方では 「 アメリカは人種差別をするので、日本人の命など軽視する 」 から、そんな国から牛肉を仕入れるのは危険だという。
そして一方では、自らが差別的な表現で 「 アメリカ人は馬鹿だから何でも食うが、日本人は賢いので慎重である 」 というような発言も行っている。
いまどきの平均的なアメリカ人は、このような差別的発言を好まないし、とてもじゃないが肯定できない意見で、単なる 「 アメリカ嫌い 」 であろう。
アメリカの言いなりになる必要などないし、日本の望む輸入条件を徹底的に申し入れ、価格や鮮度などについても、厳しく交渉すればよい。
しかしながら、「 お前らの牛肉は危険だから食えない 」 などという子供じみた難癖は、嘲笑の的にされるばかりか、お互いの関係を悪くするだけだ。
日本の食料自給率を思えば、「 食べ物を分けてくれる国 」 に対して、明白な根拠もない言いがかりをつけられる立場ではない。
その点など十分に考慮して、「 やみくもに禁輸するだけではなく、どのように早期再開するか 」 を、関係各署は素早く対応してもらいたい。
これからの世の中、あれも危険、これも危険などと言っていたら、そのうち食べられるものなど無くなってしまうのではないかと、そのほうが気になる。
「 歴史は途方もなく大きな早期警報システムである 」
ノーマン・カズンズ ( アメリカの雑誌編集者、著述家 )
History is a vast early warning system.
NORMAN COUSINS
日本人でノーマン・カズンズをご存知の方は、おそらく少ないと思う。
しかし彼自身は、とても日本に関心を持ち続けた人物なのである。
彼は 『 サタデー・レビュー 』 の編集者として35年間にわたり、芸術および社会的な関心事を読者に広めた。
1949年に広島を訪れ、衝撃的体験を基に 『 4年後のヒロシマ 』 を発表し、それを契機に原爆で家族を失った子供たちをサポートする運動を始める。
1964年には 「 広島市特別名誉市民 」 の称号を受けたが、現在も広島の平和記念公園に行くと彼の記念碑がある。
教育的、人道主義的、かつ世界平和への自発的な取り組みを訴えかけた人物で、まさに 「 ジャーナリストの鑑 」 として、偉大な足跡を残した。
彼が後世に遺した言葉として、冒頭の名言を心に留めていただきたい。
11年前の1月17日未明、私は、当時住んでいたマンションに大型トラックか何かが衝突したのかと思って、ただならぬ衝撃に身構えた。
実際には、それが 「 阪神大震災 」 の第一波であったが、過去に経験したことのない揺れのため、すぐに地震だと判断することができなかったのだ。
しかも、厳しい寒風が吹きすさぶ1月の未明である。
肉体と脳を覚醒させ、明確に事態を把握し、的確な行動に移せるまでに、かなりの時間を必要とした。
おそらく、運悪く建物の下敷きになった方々の中には、それが大型の地震による被害だったことさえ、気付かずに亡くなられた方もいらしただろう。
11年経った同じ日、耐震データ偽装問題でヒューザーの小嶋社長が証人喚問を受け、大方の予想通り、歯切れの悪い答弁が行われた。
倒壊した住宅から、あれだけ多くの犠牲者を出し、「 ある日突然、自分たちの住む住宅が凶器にもなり得る 」 という教訓は、既に忘れ去られたのか。
あるいは、そのリスクを負ってでも、目先の利益を優先する必要に迫られていたのか、そのあたりは当事者に真意を伺いたいものである。
ちなみに、12年前の同じ日には サンフランシスコ で大地震が起きており、この1月17日という日は、まさに地震の厄日だといえる。
内閣府もこの日を 「 防災とボランティアの日 」 と定めており、耐震偽装のみならず、皆が改めて防災を見直す習慣付けになれば望ましいと思う。
地球上に棲む多くの生物が、絶滅から身を守り、環境に適合するために、進化・成長したり、あるいは生き残るための知恵を会得してきた。
その歴史や経緯を解き明かし、真相を知る唯一の存在であるはずの人類は、他の生物以上に、そこから何かを学び、正しい進化を遂げたのか。
賢者は学び改めるが、愚者が改めないために 「 同じミスが起きる 」 というのでは、この惑星の支配者を名乗る割に、なんとも情けない話だ。
阪神大震災の教訓を活かすためにも、違法建築に携わった連中を追求し、断固として許さないという明確な意思表示を、我々は示すべきだろう。
誰もが 「 警報 」 を聞いたはずなのに、他人事だと思って平気な顔でいるようでは、将来が不安だし、過去や歴史に顔向けができない。
「 ビリヤードをまあまあ上手にプレーできるのは、紳士の印である。
あまり上手すぎるのは、時間の使い方を間違えた人生の印 」
マーク・トウェイン ( アメリカの作家 )
To play billiards moderately well is the sign of a gentleman; to play it too well is the sign of a misspent life.
MARK TWAIN
文中の 「 ビリヤード 」 を 「 別の何か 」 に変えてもいいだろう。
たとえば、「 ゴルフ 」 なんてのも、共感する人が多いのではないか。
ゴルフの上級者に聞くと、そこそこのスコアを出したければ、やはり一ヶ月に3回以上はラウンドしなければならないと言う。
年に数回、断りきれずに付き合う程度で、上達しないのは当然の話だ。
行ってみると楽しいのだが、思いがけない方向へ飛んでいく小さいボールに悪戦苦闘する姿が目に浮かぶと、早朝から車を出すのが億劫になる。
どうせ早起きして出かけるなら、スキーや釣りのほうが性に合っているし、自己嫌悪に陥る場面も少ないのである。
しかしながら、世の中にはゴルフ好きが大勢いて、企業主催のコンペなんてものも、数が多すぎて避けられない状況にある。
半分は 「 やっかみ 」 かもしれないが、ゴルフの上手過ぎる人に対しては、日頃ちゃんと仕事をしているのかと、疑いたくなってしまう。
一芸に秀でていることは素晴らしい長所だけれども、ミスショットを連発する私を尻目に、まるでプロ並の正確無比なストロークを連発される。
そして見下すように、「 さすが、滅多にやらない割には上手ですね 」 などと、さらに追い討ちをかけるような言葉を発せられる。
で、ムキになってクラブを振り下ろすと、またとんでもない所へ飛ぶ。
毎回、こんな調子で 「 二度と来ないぞ 」 と心に誓うのだが、ハンデのおかげで上位に入賞したり、おだてられたりして、またコースに出てしまう。
一度、本格的にやってみようかと思った時期もあったが、仕事が忙しくて練習場にも通えず、結局は道具を揃えただけに終わった。
しかも、高いクラブを使っても成績が変わらなかったので、なんだか投資が無駄になったような気になり、ちょっと悔しい思いをした。
昔からゴルフは 「 紳士のスポーツ 」 などといわれるが、ゴルフをやっているときの自分は、舌打ちや悪態をつくことが多く、ちっとも紳士的でない。
空気のよい場所で、緑に囲まれてプレーするのは気持ちが良いけれども、自然愛好家は、「 ゴルフ場ほど自然を破壊する場所はない 」 という。
森林を伐採し、除草剤を撒いてコースを維持しているため、そういう見方もできるわけで、その観点からも 「 紳士のスポーツ 」 かどうかは疑わしい。
ただ、ゴルフのよいところは、「 一緒にラウンドすると仲良くなれる 」 という点で、だからこそ企業やサークルの親睦会としてよく利用されるのだろう。
競っていても、相手のミスや不調に期待することは少なく、ライバルのナイスショットには、不思議と迷いなく賞賛を送れるものである。
むかつくのは自分の腕前に対してだけで、他人に腹を立てることはない。
そういう意味では、やはり 「 紳士のスポーツ 」 なのだろうか。
ゴルフ場で 「 友情が芽生える 」 まではいかないが、取引先とプレーをして友好関係が強まったり、相手を深く知るきっかけになった記憶はある。
さほど体力や腕力がなくても技術力でカバーできるため、中高年者が参加しやすいスポーツであるという利点も、ゴルフの特徴だろう。
私の場合は、ほんの少し技術が身についてきた代わりに、歳をとって腕力が衰え飛距離が伸びなくなり、まるでスコアが上達しない状況にある。
そんなジレンマを感じながら、寒い中 「 新春コンペ 」 に参加してきた。
結果は惨憺たるものだったが、某社の役員と親しくなれ、奇跡的に放った一番の好打が 「 ドラコン賞 」 の対象だったので、賞品も獲得できた。
その勢いで、安易に次回も参加する約束をしてしまったのだが、次回は 「 韓国 」 でやると後で知らされ、日程の調整に苦しむ予感がしている。
2006年01月11日(水) |
「 お客様第一 」 という目的 |
「 成功の秘訣とは、目的に忠実であることだ 」
ベンジャミン・ディズレーリ ( イギリスの首相 )
The secret of success is constancy to purpose.
BENJAMIN DISRAELI
金融再編の波を受け、「 東京三菱UFJ銀行 」 が発足した。
なんとも長ったらしい名前で、書くのも面倒なくらいだ。
過去において日本の各銀行は 「 ぬるい世界 」 にどっぷりと浸かってきた背景があり、その影響から 「 殿様商売 」 的な体質が抜けない。
それでも、独自の企業努力で健全な経営に努めてきたところに関しては、特に政府・国民が迷惑を被ったわけでもないし、文句を言うつもりもない。
そういう点からみて三菱銀行は、“ 数少ない ” 比較的優良な銀行であったと評価できるのだが、成り行き上、余計なお荷物を背負わされたようだ。
アホな銀行マンが動きバカな上層部がサインしたせいで、日本経済を狂わせた病原菌みたいな銀行が大半を占める中、それは希少な存在だった。
長ったらしい名前なぞやめて、「 三菱銀行 」 に戻したほうが体裁もよいし、利用者の便も良いと思うのだが、内部事情で叶わないのだろう。
この銀行のHPを開いてみると、「 倫理綱領・行動規範 」 という頁があり、二項目目のところに 「 お客様本位の徹底 」 と記されている。
「 常にお客さま本位で考え、お客さまのニーズに最も適合する金融サービスを提供し、お客さまの満足と支持をいただけるよう努めます 」
なるほど、ごもっともな意見であり、立派な企業ポリシーだ。
しかしながら、年末年始を振り返ると、三井住友銀行が無休でATMを稼動させていたのに対し、ここは年末〜三が日まで、一斉に休業させていた。
それは、「 お客様のニーズに最も適合する金融サービス 」 なのだろうか。
合併によるシステム障害や、不測のトラブルを防ぎたいので万全を期したという論理もわかるが、それはあくまでも 「 内部事情 」 である。
一般の利用者にとっては 「 知ったこっちゃない話 」 であり、お客に迷惑を掛けなければ合併できないのなら、してくれないほうがいいのだ。
殿様商売の企業、レベルの低い企業の共通点は、「 内部事情を不可抗力のように語り、さも当たり前のように理由づける 」 ところである。
何か問題があれば、「 お客に不便を掛ける方法で解決すればいい 」 という発想を、何の疑問もなく実行する習慣が、彼らには定着しているのだ。
よくサービス業などで、そういう企業からの転職者が 「 あいつらは使い物にならん 」 とぼやかれているのは、そういう習性に大きく起因している。
銀行だけではなくて、本来、もっともお客さまを大事にしなければいけない 「 接客販売業 」 でも、そのような低レベルの企業は存在する。
全国展開をする某大手スーパーの某大型店に、夕方、仕事で訪問した。
店内は買い物客で混雑しているが、レジ係以外の従業員は皆無で、商品の価格や、目当ての商品の陳列場所を尋ねたいお客が困っている。
実はその時刻に、大半の従業員は裏の商品倉庫に召集されており、中堅社員がリーダーとなって、「 挨拶トレーニング 」 なるものが行われていた。
面白そうなので、その様子を見学してみることにした。
まず、リーダーが挨拶し、このトレーニングの意義を説明する。
我々はお客様を第一に考えており、お客様に気持ちよく、楽しくお買い物をしていただくためには、笑顔で、大きな声で挨拶をする必要がある。
そう告げた後、「 ア・エ・イ・ウ・エ・オ・ア・オ 」 定番の発声練習である。
そして、数十人の従業員が二列に向き合って並べられ、リーダーが大声で 「 いらっしゃいませッ! 」 と叫び、全員の注目を集める。
この声量が基準となり、端から順番に従業員が、同程度の 「 いらっしゃいませッ! 」 を一人づつ叫んでいくように命じられる。
中年の社員や、パートさんは手馴れているのか、うまく声が出せるのだが、若いアルバイトの中には、照れくさくて声が出せない人も多い。
大きな声が出れば合格なのだが、声が小さかったり、笑顔でなかったりすると 「 やり直し 」 を何度も命じられ、なかなかに厳しいものである。
ようやく15分後に散会し、各従業員は店内・店外の持ち場に戻った。
最後のほうまで 「 やり直し 」 をさせられていた若いアルバイトの男性の後から、私も 「 練習の成果を見届けてやろう 」 と思って店内に入った。
店内には当然、多くのお客がいて大混雑の有り様である。
ひっきりなしに客が行き交うけれども、彼は無言で持ち場へ向かい、その後も黙ったまま無表情で、入荷した商品を陳列棚に並べている。
彼ばかりでなく、周囲の従業員も同様で、「 挨拶トレーニングで遅れた分 」 を取り戻そうとするかのように、大忙しで黙って作業に没頭している。
そこへ、先ほどのリーダー社員がやってきたのだが、彼も行き交うお客には無関心で、手にした台帳と売り場の商品を見比べ、首をひねっている。
夕方の買い物客で込み合う食品売り場の喧騒はあるものの、どこからも 「 いらっしゃいませッ! 」 の声は聞こえず、静かなものである。
笑い話のようだが、ようやく 「 いらっしゃいませッ! 」 と聞こえたと思ったら、売り場に設置された機械から鳴る録音テープの音声だった。
今回、私の訪問目的であった 「 この店舗のナンバー2 」 である方に対し、ちょっとこれではまずいのではないかと、おそれながら進言してみた。
すると彼は、「 そうですね、ご指摘の通りで頭を痛めていますよ 」 と認め、このままではいかんので、解決策を考えましょうと言った。
で、具体的に解決策は何かと尋ねると、「 挨拶トレーニングの回数を増やし、お客様第一と書いた紙をアチコチに貼る 」 といった答が返ってきた。
それで解決すると思いますかという私の問いに対し、彼は少しむくれながら 「 うまくいくかどうかわからないが、何かしないとね! 」 と言い返した。
問題の本質を理解していない人間が上にいて、成熟した組織が育つはずがないという典型的な例で、このスーパーが不振な理由も見えた気がした。
彼らの悪習は、この 「 何かしないと 」 という言葉に集約されている。
結果がよくても悪くても、「 何かした 」 か 「 何もしていない 」 かが大事だという低次元な発想であり、無益なパフォーマンスに時間を浪費している。
よく、「 結果重視 」、「 成果主義 」 という言葉を聞いて、途中のプロセスや努力、行動などはどうでもいいのかと、意味不明な質問をする人がいる。
結果重視、成果主義の世界で重要なのは、「 結果にむすびつく努力 」 ということであり、よい結果をもたらさない努力は、認められないのである。
訓練や張り紙を増やすよりも、「 目的は何か 」、「 誰のためにやるのか 」 といった 「 方法論よりも目的が優先 」 という発想が、彼らには必要だ。
目的を見失った企業が、「 わが社のポリシー 」 なんて掲げたところで、会社がよくなるわけでも、お客が喜ぶわけでもない。
ちなみに私も 「 吹けば飛ぶような会社 」 を一つ持っているが、心にもない 「 お客様第一 」 とか、できもしない 「 地球平和 」 なんて社是は無い。
しいて掲げるなら、「 利益をあげて、従業員とその家族が、できるだけ健康で豊かな生活を実現できること 」 が、わが社のポリシーである。
多くの会社が 「 お客様第一 」 という文言を社是に含めようとするが、本当にその言葉の意味に対して 「 覚悟 」 ができているのだろうか。
顧客への責任を貫く覚悟というよりは、なんとなくフィーリングで使っている企業のほうが多いように思うのは、はたして私だけだろうか。
2006年01月08日(日) |
犯罪被害者の実名報道 |
「 自由は責任という観点から生きなければ、
単なるわがままに堕落する危険がある 」
ヴィクター・フランクル ( オーストリアの精神分析医 )
Freedom is in danger of degenerating into mere arbitrariness unless it is lived in terms of responsibleness.
VIKTOR E.FRANKL
ヴィクター・フランクルは、ナチの強制収容所から生還した人物である。
その体験から 『 夜と霧 』 を執筆し、ベストセラー作家となった。
冒頭の言葉の通り、自由とは素晴らしいものであるが、その背景に責任を負わなければ、単なるわがままに陥ってしまう危険を孕んでいる。
自分の要求を通すときには自由を主張し、その責任を問われると雲隠れしてしまうような、そんな組織・団体や人物を見かける場面も多い。
本来、自由とは、責任を果たすことのできる者にこそ与えられるべき資格であり、無責任な者が自由を手にすると、望ましい結果につながらない。
もし自由の名のもとに、無責任な者が横暴に利己的な目的を遂げようとしたなら、はたして社会にはどのような災厄が訪れるのか。
それを憂慮するなら、自由とは 「 制限して配られるべきもの 」 であろう。
日本民間放送連盟は、警察が事件についてマスコミに向け発表する際に、犯罪被害者の 「 実名報道 」 をするよう、内閣府に申し入れている。
現在、犯罪被害者の実名を発表するかどうかは、警察の判断で行うというルールが定着しつつあるが、マスコミ各社はこれを不服としている。
テレビで顔なじみのキャスターたちが、意見書を携えて上申する場面などがニュースで流れたので、経緯をご存知の方も多いだろう。
報道機関の自律的判断に委ねなければ、犯罪の実態を正確に市民に伝え、犯罪捜査の適法性や妥当性を検証する活動が阻害される。
それはすなわち、報道の自由、市民の知る権利が奪われることにもなりかねないのだと、彼らは力強く訴えている。
その一例として、彼らはよく 「 桶川ストーカー事件 」 の話を持ち出す。
1999年、埼玉県の桶川市で、当時女子大生だった猪野詩織さんが、彼女につきまとっていた男性の手によって殺害された事件である。
この事件では、被害者が犯行以前から地元の警察署を何度も相談に訪れていたにも関わらず、警察が手をこまねいていたことが問題になった。
事件後、マスコミの取材により、警察の不親切な対応、事件への無関心や、さらには捜査資料・調書などの改ざん・隠滅が明らかにされていった。
この事件を契機に 「 ストーカー規制法 」 が成立するなど、印象深い事柄が多かったので、大半の方はご記憶されていることだろう。
マスコミ各社は、この事件を例に出し 「 実名発表があったからこそ、マスコミは被害者宅を取材し、真相を追究することができた 」 と説明する。
もし被害者の身元が明らかにされず、警察の発表だけを基に報道していたなら、警察による捜査過程のミスは暴かれなかったという。
今後、もし事件の背後に警察のミスや不祥事があっても、それらはすべて隠蔽され、明るみに出ない恐れがあると彼らは危惧する。
たしかに、警察や国家権力が100パーセント正しいという保障はないし、それを監視するシステムとしてマスコミの存在は効果を発揮し得る。
実名報道とは関係ないが、ワシントンポストの記者がウオーターゲート事件を暴いたように、国家権力の不正をマスコミが摘発するケースはある。
しかしながら、当事者である犯罪被害者や遺族にとって、事件を境にマスコミが自宅や身の回りに殺到するのは、相当の苦痛である。
真理を追究し、すべてを明らかにしたいというマスコミの意図と、プライバシーを侵されたくないという被害者側の利害が反することも多い。
また、「 100パーセントは信用できない 」 という面ではマスコミとて同じで、一部の報道機関においては、かなり頻繁に好ましくない対応を耳にする。
発表に関する 「 自由と責任 」 という問題で考えると、何か不祥事が起きた際に警察が社会全体から断罪されるほど、マスコミの処分は厳しくない。
報道の自由を声高に主張する割には、ミスがあって誰かに迷惑を及ぼしても、たいした責任を負う姿勢もないのが、マスコミ各社の実態である。
ではこの問題は、どうすればよいのか。
たとえば、報道が警察や国家権力を監視するだけではなくて、報道期間も、国民や行政の審判を受ける機会を増やすとよいのではないか。
行き過ぎた取材や誤った報道が起きた際、当該の報道機関を警察発表や記者会見の席上から、一定の期間、外す処分を課すのもよいだろう。
あるいは、テレビなら終日放送禁止、新聞・雑誌なら発売禁止などの処分を、問題の大小に合わせて一定の期間、課すのもよかろう。
どのような報道姿勢でも、何の制裁も課せられないという現状の甘さが、「 報道期間の自主性に委ねられない 」 原因の一つになっている。
このような制約をもって臨むならば、実名報道を警察ではなく、報道機関の自主性、自律的判断に委ねてもかまわないと思う。
そうでなければ、たしかに警察や国家権力にも疑わしい一面はあるけれど、そこいらのマスコミよりは信用できるという結論にしか達し得ない。
現状のマスコミ各社が、「 報道の自由 」 に足る 「 報道の責任 」 や倫理、公益性などの面において、十分に信頼がおける存在とは言い難い。
前述の 「 桶川ストーカー事件 」 においても、結果的には警察の不祥事を暴く形となったが、はなから正義を目的とした取材ではなかったはずだ。
日本の報道機関各社は、報道の自由を奪われたと叫ぶ前に、どうして自分たちがその役割を担わせてもらえないのか、少しは反省するべきだろう。
「 この世での私たちの仕事は、成功することではない。
失敗することである。
ただし、元気はつらつとして 」
ロバート・ルイス・スティーブンソン ( イギリスの作家 )
Our busines in this world is not to succeed, but to continue to fail, in good spirits.
ROBERT LOUIS STEVENSON
元旦の深夜は、いつもより静かな気がする。
窓から階下の街を見下ろすと、行き交う車の量も少ない。
誕生日になると一つ歳をとるのは当たり前だが、それは普段の日なので、今日のように物思いにふける環境が整うとはかぎらない。
新年の一日目が終わり、街が寝静まった今こそ、自分がまた生き長らえ、新しい一年に立ち向かおうとしている現実に気付きやすい。
次の誕生日が来れば46歳になるけれども、自分は過去に思い描いていた未来というものを、はたして実現しているのだろうか。
あるいは、これから先の未来に向けて、理想を現実化し得る準備は十分に整っているのか、そういった疑問に対峙する瞬間である。
改めて 「 人生とはなんぞや 」 などと振り返るのも面倒だが、この静けさと孤独の時間は、私を哲学の迷宮に引きずりこもうとする。
将来に対する不安はあるものの、今までの人生はまず 「 順調 」 だったように思うし、きっと世間様の水準に劣らない程度は幸せだっただろう。
その根拠は、まず第一に 「 大きな不幸がなかった 」 ということだ。
両親は早く死んだが、それが自分の成長を妨げたり、生き方に悪い影響を与えることもなく、精神的なダメージも感じていない。
唯一、不幸な事件といえば、阪神大震災で親戚を亡くしたことが思い浮かぶけれど、それで何かが変わったわけでもない。
戦争から立ち直った高度成長期に生まれ、バブル期に仕事を覚えた我々は、とりたてて生き難い時代を経験したわけでもなく、平穏に生きてきた。
人間の脳や情操というものは、三歳までに形成される部分が大きいというけれど、いまは亡き両親の教育や愛情について、心より感謝している。
途中から、あまり熱心に勉強しなくなったが、それでも希望する進路、思いがけず海外の学校まで進めたのは、幼い頃の鍛錬によるところが大きい。
問題は、その経歴を活用し 「 目的 」 を遂げたかどうかというところだろう。
両親は私に何を望み、何を 「 目的 」 とさせたかったのか。
生きているうちに聞いておけばよかったが、今となっては尋ねる術も無いし、また、それよりも 「 自分自身は何が望みか 」 という点のほうが重要だ。
もしも、人生の目的とは冒頭の言葉のように、簡単に成功してしまうよりも、元気に失敗し続けられることであるならば、いまのところ順調なようだ。
きっと本当の幸福とは、山の頂上ではなくて、そこに辿り着こうとして目指している状態に訪れているもので、その時点では気付き難いのだろう。
幼い頃、お正月になると新しい服が与えられ、お年玉をもらい、学校を休んで遊べることが嬉しかった。
当時は、「 大人になればいつでも自分の裁量で物が買え、自由に行動できるのだからいいなぁ 」 などと、大人を羨ましがったものである。
ところが、いざその立場になってみると、既に欲しい物などほとんどないし、自由をどのように活用すればよいのか、迷ってしまう場面も多い。
世の中で一部の人は、何らかの理由で本当に不幸だと思う。
他の大部分は、「 本当は幸福なのに気付いていなかったり、あるいは幸福になり得るのに行動できていない 」 という人が多いのではないだろうか。
私自身も普段は、「 幸福というには ○○ が欠けている 」 だとか、将来に向けて何かが足りないとか、幸福には未達であると思うことが多い。
でも実際には、元気で成功を夢見て行動している人間こそ、まさしく幸福な状態に置かれているのであり、それで十分に幸せなはずだ。
それより先の高みを目指すのはよいことだが、まだ何かが足りないと不満や不安があるぐらいが、実は一番充実している状態なのだろう。
そういった 「 幸福 」 に気付かない人や、結果がすぐに現れないことを悲観して、努力を忘れてしまった人たちは、自分から幸福を放棄している。
幸せかどうかは 「 気の持ちよう 」 だと老人の多くが諭すのも、たぶんそのような論理に基づいた話なのだろう。
自分が不幸であることを裏付ける理由や、住み難い社会であることを証明する理由ばかりを探す生き方は、それこそ不幸へのトンネルである。
夢が叶うことが幸せではなくて、叶えたい夢があって、健康的に努力している状態こそが幸せであると、今年も初心に帰って邁進していきたい。
また、今年出会う人たちにも、伝えていきたいと思う。
2006年01月01日(日) |
新年に思うこと : 悪口を言う人間ほど、相手のことを知らない |
「 人間性への信頼を失くしてはなりません。
人間性とは大海のようなものですから、大海のほんの数滴が汚れて
いても、大洋全体が汚れるということはないのです 」
マハトマ・ガンジー ( インド建国の父 )
You must not lose faith in humanity. Humanity is an ocean; if a few drops of the ocean are dirty, the ocean does not become dirty.
MAHATMA GANDHI
明けましておめでとうございます。
本年も、よろしくお願い申し上げます。
お正月を海外で過ごす人は多いけれど、久々に、クリスマスを海外で過ごして年末に帰ってくるパターンにしてみた。
おかげで、仕事関係では各方面の方々にご迷惑をお掛けし、年末はいつも以上に大忙しで、年賀状の発送はおろか、部屋の掃除さえできていない。
それでも大晦日の夜ぐらいはノンビリしようと思ってテレビを点けたら、今年もまた格闘技番組中心で、相変わらず曙が負けていた。
よく、「 相撲こそ、世界最強の格闘技 」 などと言う人がいるけれど、一体、曙は誰と対戦すれば勝てるのだろうか。
だんだんと話題にされなくなっていくような気もするが、もし次の大晦日に 「 曙 VS 清原 」 なんてカードが実現すれば、視聴率は稼げそうだ。
アメリカのクリスマスは日本と違って、家で静かに過ごすのが基本なので、外へ出かけても開いているお店が少ない。
今回は、友人宅に招かれたので行ったが、普通に海外旅行を楽しみたい方々には、あまりお勧めしないシーズンである。
彼女と二人きりも良いけれど、すでに私は両親と死別しているし、彼女も片親なので、たまには大家族のクリスマスに混ぜてもらうのも楽しい。
けして贅沢ではないけれど、ごく普通のアメリカ人の一般家庭で一緒に祝うクリスマスは、それなりに趣があって、また荘厳な雰囲気もある。
そういった日常生活や習慣も知らずに、「 アメリカ人はこうだ 」 などと揶揄する人たちには、きっと一生、アメリカのことなど理解できないだろう。
お正月は日本のほうが行事も多くて楽しいし、一般的に休みも長い。
アメリカではニューイヤーズディが終わるとすぐに 「 仕事始め 」 となるので、大晦日の夜にパーティをする程度しか楽しみがない。
たまに、日本の旅行客が 「 お正月なのに空いてるねー 」 などと喜んでいる光景を目にするが、現地では普通のウイークディなのだから当然である。
クリスマスバケーションを長くとって、新年は早々から働くのがアメリカ流であり、年の瀬まで働き、お正月をノンビリと過ごすのが日本流だ。
今回の私みたいに、早くから休みをとってアメリカで遊び、年末には日本へ帰ってノンビリするというのは、ちょっと 「 虫が良すぎる話 」 である。
仕事の遅れを取り戻し、浪費した旅費や遊興費も稼がないといけないけれど、それでも、今回の旅行は楽しかったし、とても有意義だった。
一緒に行った彼女も渡米は初めてじゃなかったけれど、素顔のアメリカ人一家と一緒に数日を暮らすという体験を、とても気に入ってくれたようだ。
冒頭のガンジーの言葉にもある通り、外国や外国人の 「 ごく一部 」 だけをみて、すべてわかった気になっているのは大馬鹿者である。
たとえば、「 アメリカ人は大雑把で、戦争好きで、味覚が鈍感で、日本人のような繊細さ、風情を愛でる気質がない 」 といった 「 思い込み 」 などだ。
そんな発言をする人物は、アメリカはおろか 「 日本の実情すら、わかっているのか 」 という疑問があり、彼らの 「 アメリカ評 」 なぞ聞く気もしない。
今年も国内・外で様々な事件が起き、様々な議論が飛び交うだろう。
世の中の人間すべてを良く言うのも正しくないと思うが、どんな国のどんな環境においても、良い人間もいれば、悪い人間もいる。
賢い者、馬鹿な者、身体や心が健康な者、不健康な者、人の役に立つ者、世の中に害を与える者、それらは時間や場所の壁を超えて存在する。
特に昨今は、「 アメリカの悪口を言えば格好いい 」 と勘違いしている馬鹿が多いけれど、本当のアメリカを知る人間の意見でないことは明らかだ。
本当の日本を知れば、日本の宰相が靖国に参拝したからといって 「 軍国主義に走る傾向 」 などないとわかるのと同様に、単に世間知らずである。
日本人同士の場合も同じことで、「 近頃の若い奴は 」 的な短絡発想で物事を語ったり、偏狭的な視点で社会を眺めることには問題が多い。
性善説、性悪説という次元の話ではなくて、いろんな人間がいるのだから、国籍や、年齢や、性別などの違いで何かを決め付けるのは間違いだろう。
その大部分は、「 批判はするけれど、実際にはよく知らない 」 といった連中が流したガセ情報に基づいており、実に信憑性が低い。
私は学生時代からアメリカに長くいたし、現在でもアメリカ人の多くと交流が深いので、特に、アメリカに対する曲解したデマが気になる。
アホ同士が書いたり読んだりするには問題ないが、マトモなアメリカ人や、マトモな日本人が読むと恥をかくので、やめたほうが望ましいだろう。
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